『ファンタジー』とは何か、に関する思考メモ。

冬コミの原稿も終わって若干の放心状態でしたが、それも過ぎ去ってぼちぼちと次回作について考えています。次は積年挑んでみたいと思っていたファンタジーをやりたいな~と考えているのですが(正確には4年前くらいに一度30万字ほど書いたのですが、自主的にお蔵入りさせたものがある)、それにあたって以下の記事が非常に面白かったので、自分なりの論点整理や思考をメモしておきます。

なお記事のタイトルがものすごい大上段に構えたアレですが、答えを出すつもりなどサラサラないうえに答えなんか出るわけがないので、そういうのを期待してはいけません。

news.denfaminicogamer.jp

記事には後編もあるようですが(執筆時点で未掲載)、こちらはイラストレーター側の対談企画のようなので、物語作りには関わるものではないっぽいのでスルーしておきます。

対談しているのは『ロードス島』の水野良氏と、『ペルソナ』シリーズディレクター橋野桂氏。両者とも紹介する必要のないほど著名ですが、今回の対談が実現したのは橋野氏率いるアトラスの次回作がガチガチの(?)ファンタジーということに由来する様子。対談のなかでも様々言及がありましたが、流石、『ペルソナ5』をプレイした当時も感じましたがよく勉強しているなと感心させられました(このコメントに他意はないです)。

大まかには、橋野氏がファンタジーの先達である水野氏にあれこれ質問するという形式なのですが、その質問がかなり鋭く良い点をついている。ファンタジーは完全に門外漢と自称する橋野氏ですが、わからないなりに重要な点はわかっているようにも感じました。(なお自分は別にファンタジーに詳しいわけではなく、むしろ橋野氏と同様に門外漢だと認識しています)

以下、議論を整理して要点を掲載します。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?
 ⇒異世界の魅力は「逃避」
  ただし現実の否定ではなく、自分の理想の投影先としての「逃避」
  【メモ】これはコインの両面に近いものだと思われる
 ⇒例:『指輪物語』は第二次大戦の戦争に絶望した故に、理想的な調和を描いた
・ファンタジーの良さは「純化」されている点
 ⇒ゴブリンを倒していた若者が最終的に世界を救うという話
  ファンタジーならできる、現代劇ではできない
 ⇒【メモ】時代小説と機能は同じっぽい
・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?
 ⇒共通知として利用でき、理解をショートカットできるから
 ⇒【メモ】なろう小説のガラパゴス化Jリーグの戦術ガラパゴス化
・魔法の言語体系

 ⇒魔法は独自の言語体系にするか、能力をストレートに説明する名前にするかの二択
 ⇒『ドラクエ』や『FF』は独自の言語体系
 ⇒どこからが現地の言語で、どこからが記号的につけるべきか、作法は?
 ⇒特にない。強いていえばセンス。
・ファンタジーのお作法、常識は「どこから」?
 ⇒ファンタジーに詳しい人は「気にしなくていい」と言うが、それは罠では?
 ⇒本当に気にしなくていい。ただし一定のセンスで選り分ける必要がある。
・現代は中世と似ている時代
 ⇒新大陸が見つかる前の閉塞した奪い合いの時代が中世
  ⇒植民地開拓時代が開始、現在グローバル化によって再び閉塞感が

 

 

以上です。詳しい発言の文脈にあたっては、元の記事を読んだほうがいいでしょう。では、幾つか自分なりの視点でもうすこし敷衍して書いてみます。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?

ファンタジーの重鎮たる水野氏がはっきりと(あっさりと)「逃避」と言ってのけたことは結構意義深いことだなと思います。実際自分も「逃避」だよな~と同意するのですが、記事のなかでは「現実の否定ではない」と言っているものの、現実の否定としての側面を機能させたファンタジーも実際かなり多いよなというのは否定できないところだと思います。

記事中に存在するように代表的には「なろう」系のファンタジーもそういう面は多少なりあると思いますし、そうでなくても現実世界から逃げたユートピアとしての異世界=架空世界というのは、読者の要望として、ありうるものだと思います。

ただ、上の要点整理でも書きましたが、「逃避」と「理想」の反映は、ファンタジーにおいてはコインの表裏みたいなもので、単なる描き方の違いに過ぎません。理想を反映させたものもあれば、「それは逃避だ」と糾弾するものもある。従って、異世界に転生するという機能を逆用して、そういった甘えた読者に過酷さを叩きつける系の異世界モノ、ファンタジーも存在しています。つまり「現実が辛いから異世界に逃げ込んでみたら、実は異世界のほうがもっとキツかった」系のやつですね。

で、この典型例はまさしく、小野不由美さんが書かれた小野不由美十二国記シリーズでしょう。ド傑作なのですが、これ1991年が初刊行で、その頃から学校でなんか辛いな~と思ってた女子高校生が異世界に飛ばされて王様をやるハメになったけど、そのせいで死にかけるような壮絶な困難に巻き込まれる……という、いかにも「なろう」じみた所から話が始まるので、あらためて考えるといやあすごいなーという感じですね。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

 

 その他にも、類例としては村上龍『五分後の世界』や、エロゲーマブラヴオルタネイティヴとかも近しい位置づけになると思います。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

 
マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

 

(リンク貼って初めて気づいたんですけど、マブラヴオルタ、いまPSVitaで遊べるんですね……) 

 こうした、ファンタジーを使って現実から「逃避」しようとする読者・受け手を告発する系の作品は一定周期でポツポツと出てくるようなんですが、こういう作品は批評的な能力の高く、かつ内面的に非常に激しいクリエーターが作りたいと考える傾向がどうもあるようで、だいたい出来上がった作品はやばいです(語彙力)。要するに異世界という「楽園の否定」を物語を通じて行っているわけですから、普通のメンタリティではありえないんでしょう。一歩間違えばこう……アレな感じのアレです(語彙力)。

 

・ファンタジーの良さは「純化」されている点

 これも非常に良い指摘だな~と思ったのですが、これは何もファンタジーだけではなく、時代小説でも同じような機能があるなと思ったので書いておきます。これもファンタジーと同じで、現代ではできない話を訴えることができるという点で共通でしょう。たとえば「人権とは何か」みたいな話を現代を舞台でやろうとすると、複雑な話にせざるをえず、お勉強みたいな話になりがちですが、時代小説なら人権を得るまでの歴史的転換点みたいなのを拾えばいいわけで(※例なので単純に言ってますが、実際はもっとたいへん)。

 物語はテーマに沿った舞台設定があるべきですが(基本的には)、そういう意味で、時代小説だからやりやすい話、ファンタジーだからやりやすい話、SFだからやりやすい話などそれぞれ特色があり、その点はあらかじめ把握しとかないとなと思います。

 

 ・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?

ようするに「便利だから。以上。」

という身も蓋もない感じなのですが、まあ世界的にもファンタジーというジャンルにおいてこれは共通なんでしょう。海外ファンタジーを見ても、オークとかエルフは普通に出てくるので、やっぱり理解をショートカットできるというのは社会を選ばず大きいのだと思います。

そういえばちょうど先日、作家の入江君人さんが「なろう」小説に関して似たような言及をしていましたね。

 自分も「リノリウムの床」って書いたことあるので、あーわかるー、と思いましたが(笑)。

「なろう」小説ではドラゴンクエストなどを始めとした「ゲーム」に関する基礎知識を前提として書かれたものが非常に多く、これは二つの面で理由があると思います。ひとつは「書き手側が下調べをしなくて済む(=ファンタジーはよく知らんけどゲームのことなら良く知ってる)」のと、もうひとつが「読み手もゲームのことならよく知ってる」ということ。なろうの功績の一つは「書き手になる敷居が非常に低い」ことにあって、それゆえに読者が作者に、作者が読者になるという双方向性があります。その点で、共通知である「ゲーム」は国内のファンタジー事情において非常に「便利」なのだと思います。

……まあこれは海外ファンタジーでもエルフやオークが多用されるのと理由としてはそう変わらないんでしょう。「便利さ」には勝てないようにできているのです、人間は。

しかし一方で「ゲーム」が便利に扱われるというそれは、インタビュー記事内でも『ヒックとドラゴン』の続編が上映されない!と水野氏が嘆いているように、ガチのハイファンタジーを受け入れる土壌が国内にあまりないという事情の裏返しでもあるように思います(ヒックとドラゴンめちゃくちゃおもしろくて完成度も高いんですけどね……)。「なろう」的なものが海外にもあるのかは知りませんが、まあ国内ファンタジーはけっこうガラパゴス化してるんじゃ?というのは読んでて感じました。

そこで感じたのは、まあサッカーのJリーグのことなんですけど(急激に話が跳ぶ)。

自分はわりとサッカーの記事を読むのが好きであちこち色々拾い読みするんですが、国内のサッカー状況と海外トップレベルのサッカーを取り巻く状況って、(当たり前ではあるんですが)非常に異なっているんですよね。

Jリーグでは通用するような戦術が、海外でいくとあまりにも基準が違いすぎてまったくもって通用しない……という話は、そこらじゅうのサッカーにお詳しい方のブログで読むのが嫌になるほどさんざん語られているのですが(笑)。

まあつまり、ようするに、Jリーグの戦術もガラパゴス化してるんですわ。で、国内ファンタジーも(なろうだけ切り取れば)ガラパゴス化が進んでいるように見えるけれども、果たしてこのままで大丈夫なのかなぁ……というのはちと心配になりました。まあ、そもそも小説漫画アニメの日本市場は非常に大きいので、これまでは完全に国内向けに作っていれば何も問題はなかったわけですが……しかしスマフォゲーム市場ではすでにワールドワイドの戦いが始まっているように、小説漫画アニメもこのままでいいとも思えないんですよね。そうなると、本当にこのままでいいのかな……というのはちょっと危惧したりしています。(でもそれじゃあ海外向けに作ればいいのか?というとそれもなんか違う気がするし、個人的にも悶々としているところです)。この辺りは、個人的に継続調査対象かな、という感じです。

 

だいたいこんな感じです。

ファンタジーについてはまだまだお勉強不足ですが、がんばって調べたいところですね。では。