『UQ HOLDER!』完結によせて

 

先日、赤松健さんの『UQ HOLDER!』が完結し、最終巻となる28巻が出たので最後まで読み切った。とても面白かったです。と同時にやっぱり連載中から感じていた色々な問題点は解決されないまま残ったな、とも感じたので、考えたことをひととおり文章にまとめておきたいと思います。

そもそも感想を記事としてまとめること自体がもはや数年ぶりで、正直かなり面倒な気持ちもあるのだが、赤松健漫画は自分の人生にも大きく関わった存在でもあり、さすがに一つの区切りとして書かないわけにはいかなかった。なにしろ前前作である『ラブひな』から『UQホルダー』にかけての20年以上、氏の漫画を読んできたのだ。影響がないとはとても言えない。俺はネギくんと一緒に苦しみや喜びを共有しながら生きてきたという拭いがたい『実感』がある。俺にとってネギくんは実在する友人となんら変わりない。

赤松健さんはなぜかクリエイターとして安く見られがちな風潮があると思っているが(それがアニメ化などのメディアミックスでことごとく悲惨な作品を作られてしまったことの一因にもなっていると思う)、赤松健さんの漫画にさして興味のない人も、少なくとも一個人にこうして大きな影響を与えるだけの存在だったことは覚えていってほしい。

以下、目次の通り全体のテーマについて軽く触れたあと、作品にまつわる自分が感じた問題点について論じたい。……いやまあ、論じたいとかいっても所詮は『感想』の域を出ていない個人の意見なんで、あー、まあこういう意見もあるのねくらいに見てもらえると幸いです。なお基本的に既読者を想定して書いているので、前提となる説明はいろいろ省いている。

 

マクロのテーマとミクロのテーマ

格差社会』による「虐げられる人々の怨嗟」と、エヴァンジェリンの救済

まず『UQホルダー』の根幹となっているテーマについて触れたいが、これは大きく政治・国家の次元(つまりマクロの次元)では『富裕層と貧困層の巨大な格差が生み出す虐げられた人々の怒り、呪いにどう答えるか』だし、登場人物個人の次元(つまりミクロの次元)ではエヴァンジェリン・AK・マクダウェルという不死者の内面的救済』が作品の根幹になっていると思う。

UQホルダー』は、一応は別の時間軸、別の世界線として前作である『魔法先生ネギま!』とは異なる世界のお話として説明されているが、まあ事実上の続編となっている作品だ。なので『ネギま!』で語り残した要素、回収しきれなかった設定などを拾う形で物語ができている。

特に『エヴァンジェリンの救済』というのがそうで、前作『ネギま!』ではヒロインではあったが主人公に選ばれるわけでもなく、特に救われるわけでもなく、なんとなく終わっていたエヴァンジェリンというキャラクターの『不死の吸血鬼』であるという設定に目をつけ、『不死者たちの物語』として仕上げたのが『UQホルダー』になっている。ここにニュースでももはや(残念ながら)おなじみになってしまった『格差』というキーワードをもとに物語世界全体を構成している。

そういえば2015年ごろに『UQホルダー』が少年マガジンで連載が始まって第一話を読んだとき、「やべえ、こりゃ傑作が始まってしまったのでは……!」と震えたのを覚えている(※オタク、良質な第一話を見ると過剰に期待しがち)。

格差の問題は今後かならず重要になるとも思っていたし、さまざまな不死者たちの生き様を扱う……特に不死として死なずに生きることを肯定的に描く作品というのはかなり少数で、かつおそらく主流だった「死に様を決める」という描き方のカウンターにもなっていて、しかも漫画としてもすばらしくよくできている。それに加えて、個人的に前作『魔法先生ネギま!』の終わり方には納得できずにいたことも大きかった。一応作中における解決すべき課題には一通りケリをつけたのは理解できたのだが、父親を追いかける作品でありながら、父親との直接対決をちゃんと描写することなく物語が終わってしまったことがとりわけ非常に残念だった(これはのちにUQホルダーで回収されることになる要素だが)。そんな事情もあったので、思わず「こりゃ傑作では……!?」と期待したわけだ。いやまあ結果として、最終話まで読み切った今、正直なとこ「なんかそうでもなかった」ぐらいの気持ちなのですが……(漫画読みのめちゃくちゃあるあるで切ない……)、まあそれでも良い作品なのは間違いないと思う。そこはちゃんといっておく。UQホルダーは良い作品です。

 

『佐々木三太、小夜子』編が素晴らしかった

特に自分がそれだけ期待してしまったのは単行本5巻・6巻で描かれた『佐々木三太・小夜子』編がめちゃくちゃ素晴らしかったからだ。三太はいわゆるすでに死んだ人間、幽鬼(レブナント)として後にUQホルダーメンバーに加わる不死者だが、彼が死んだ理由がまさに格差社会の歪み」によるもので、虐げられた弱者であるがゆえに不死人となった存在だ。その三太に寄り添う形で、同じく弱者の側にたつ小夜子が、弱者を痛めつけ続ける世界への復讐という形で、世界そのものを滅ぼそうとする……というのが全体の流れだ。

三太や小夜子ががどうしようもなく悲惨の渦に飲み込まれていった姿は心を痛めずにはいられなかったし、それをなんとも思わずむしろ当然のこととして嘲笑う『勝ち組』の姿には不愉快さを抱いた。つまり漫画としてテーマをよく描けているのだ。

特にこの時期は漫画としてのキレが一味違っていたと思う。率直に言うなら処女作の『AIとま』から『ラブひな』『ネギま!』『UQホルダー』のなかでもおそらく作家的なピークにあったとすら思う。コマ割りやら絵的な表現やらもそうだが、とりわけセリフ一つ一つの言葉の切れ味がすさまじく、読んでて何度も唸らされました。

特に秀逸だと感じたのは以下のシーンだ。

 

 

上記の黒髪の少年が「佐々木三太」で、金髪の男は端的にいうと富裕層側の人間……つまり強者の側の存在だ。三太は弱者の側。三太は不死者であることをいいことに、『ホームレス狩り』なるクズ行為をして遊んでいる金髪を狩って腹いせにしていた(だから「ホームレス狩り狩り」)。だがこのシーンでは、その金髪の登場によって三太は助けられているし、その三太によって金髪は世界の危機から救われてもいる。

三太に言わせれば金髪は『クズ』だが、そのクズによって三太は助けられている。「朝から晩まで一生クズって訳じゃない」のだ。今風にいえば『クソデカ主語』でクズは死んでもクズですべて一緒くたにされがちだが、事実はそうではない。そしてそれはおそらく三太自身もわかっている。だがそれでも納得できないからこそ「この世から消し去るしかないどうしようもないやつはいると思うぜ」というセリフが出てくる。この矛盾。どうしようもなさ。まさに格差社会の歪みそのものが漫画として描き出されていると思いませんか? 俺は読んでてめちゃくちゃ興奮しました。こんなものが週刊少年漫画として毎週連載されてたんだぜ。すごくない?

 

なお余談。勢いあまって「作家的ピーク」とまでのたまってしまったが、実際のとこはどうかはよくわからない。なぜなら、おそらく伝え聞くかぎりUQホルダーは赤松健さんが主導というよりも、たぶんチーフアシスタントである「まぎぃ」さんが主導で製作されている漫画だからだ。今ではもう『表現の自由を守る政治家』としてのほうが有名になった感がある赤松健さんだが、氏がそういう表現を守る活動をし始めたのがUQホルダーの連載が始まってからだ。当然ながらそういった政治的活動と激務中の激務である週刊漫画連載の両立はおそらく難しく、メインの製作はまぎぃさんに任せて、赤松健さんは最終的な監督を行うという立場だったのだと思う(これはあくまで推測です。念のため)。以前ツイッターでまぎぃさんの奥様である綾永らんさんがUQホルダーの連載が始まってから旦那(まぎぃさん)がネギまのとき以上の激務になったという発言をしてらっしゃったのを覚えている(ネギまのとき以上って……週刊連載こわすぎる……)。

そもそも『格差による弱者の怒り』というテーマ設定自体がどちらかというとネアカな赤松健さんらしくない感もあるし(?)、こうしてUQホルダーがちょっと異質なのはまぎぃさんがメインで作ってたからというのはあったのかもしれない。いや繰り返すがあくまで実際のとこどうなのかはわからないということは繰り返し念押ししておく。ただの推測。

 

ともあれ、こうした「弱者の怒り」というテーマと、エヴァンジェリンの救済(これはネギまから引き継いだ課題)をテーマとしてUQホルダーは物語が進行していたわけですが、完結を迎えた今、なんか微妙にしっくり来てない感を俺は読んでて感じました。理由は色々あると思われるのですが、その大きな要因になっているのがおそらく主人公『近衛刀太』だ。なので、これに続いて刀太についてもう少し所感を書き連ねたい。

 

『近衛刀太』という特異点

なぜ近衛刀太というキャラクターが生まれたのか

結論から言うと、UQホルダーは近衛刀太がいたために色々と問題が発生し、作品として歪んでしまったと思う。これはおそらく間違いない。刀太は「明るくまっすぐな、いかにも少年漫画主人公らしい少年」として描かれているのだが、であるにもかかわらず、なぜ作品の歪みの原因となったのだろうか?

それを考えるにあたって、そもそもなぜ刀太というキャラクターを主人公に据えるに至ったかを考える必要があるが、それは端的にいうと前作『魔法先生ネギま!』の反省があったからだと考えられる。

詳しくは語らないが『ネギま!』は「王道の週刊少年漫画」として作られた作品で、主人公である「ネギ少年の成長」を主軸として描かれている。そしてこのネギくんは当時世界中で人気を博していた『ハリー・ポッター』を参考にデザインされており(これはネギくんの生い立ちとも関与してかなりの部分を参照している)、10歳ながら教師として女子中学生に授業ができる天才少年として描かれている。

だがこのネギくんの設定は「王道の少年漫画」としてはあまりそぐわないものだった。なぜならば、賢いがゆえに目の前の問題に直面した際に「じゃあどうすればいいんだろう……?」と足踏みして考えこんでしまい、自分の行動の正しさを直感的に信じられないからだ。これは「少年漫画の主人公」としてはあまり適切だったとはいえない。ジャンプ漫画を読んでいる人ならおおよそ理解できると思うが、こうして悩んだり考えたりするやつは人間としてのだいたいが「器が大きい」とはいえないのだ。いや器が大きいことはありえるのだが(事実ネギくんはのちに英雄的人物となる)、器が大きい人物である、と理解されづらいのだ。そしてそれは神話的な構造をベースとする少年漫画にはあまり適したキャラクターとはいえない。

しかもなにか物語上の障害があるたびに一度立ち止まるため、展開のテンポもどうしても遅くなりがちだという欠点まで抱えている。『ネギま』は王道の少年漫画を志向しながらも、王道の少年漫画らしくない主人公を据えてしまったという捻じれがあったのだ(だが、今思えば「それ」こそが作品の面白さであり核だったのだが……)。

おそらく『UQホルダー』はその反省をもって、主人公の刀太には、いかにも少年漫画の主人公らしい人物像にしようということになったのだと思う。だが、その選択こそが結果的に『ネギま!』のとき以上に作品を歪ませる原因になってしまったと思う。一体どういうことだろうか?

 

物語世界とマッチしない主人公像

刀太が作品を歪ませた理由はいくつかある。

主な原因は以下の3つだ。

 

①マクロのテーマである「虐げられる弱者の怨嗟」に対する主人公としてあまり機能していない

②そもそも作者の個性とマッチした主人公とはいえない

③後のハーレム展開によって内面の空虚さが一気に加速し、まったく共感できないキャラクターになってしまったこと

 

①マクロのテーマである「虐げられる弱者の怨嗟」に対する主人公としてあまり機能していない

UQホルダー』の大きなテーマが「巨大な格差によって生み出された弱者が踏みにじられ続けていること」に対してどう答えるか?だということはすでに書いた。答えの出し方や回答そのものは、反駁しうる一つの意見にすぎないので価値平等なのだが、その描き方には問題がある。答えを提示する主体である主人公=刀太が、そもそも「虐げられる弱者」の代弁者としてあまり適格とはいえないからだ。

なぜなら、刀太はべつに社会的弱者でもないし、何なら不死者として俯瞰視点で人間社会を観測する側の存在だからだ。ようはどちらかといえば強者の側にいる。素朴に考えて答えを出すなら弱者側に立つ誰かであるのが望ましいのは言うまでもないだろう。いやまあUQホルダーという作品がそうしたように、べつにその立場からでもテーマ的な回答をだすのはかまわないのだが、どんな回答をしようとも、どうしても「いやでもお前恵まれてんじゃん」というツッコミが生まれてしまう。これは作品のテーマの打ち出し方としては良いとはいえない。刀太はそもそも明るいキャラクターなので、虐げられた存在に対して(すくなくとも表面上は理解を示すが)共感していたとは感じられない。魂の本性が共感できてないというか……。もうこれは構造的な問題なのでどうしようもないともいえるが、歪みであるのは間違いない。

 

②そもそも作者の個性とマッチした主人公とはいえない

ネギま!』からそうだし『UQホルダー』もそうだが、概して赤松健さんの漫画は基本的に理屈っぽい漫画だ。作中の展開にも細かく説明をつけるし、社会がどんな状況にあるのかも細かく丁寧に説明してくれる。毎度毎度キリエの能力に対して「今回はリスタートできないよ!」と涙ぐましい努力のもと説明をしてくれるくらいに。几帳面だともいえるだろう。

そうした作品全体の基調と、根がアホで一直線な刀太の性質がそもそもあまりマッチしていたとはいえなかったと思う。というか、結局刀太も悩むところは悩むシーンがあったりするし、であれば最初からネギくん的な主人公で良かったじゃんという気がしてならない。後に説明するが、刀太は最後まで内面がなくよくわからないキャラクターだったし、製作サイド側も困っていたんじゃないかという気がする。

 

③後のハーレム展開によって内面の空虚さが一気に加速し、まったく共感できないキャラクターになってしまったこと

上記でふたつ問題点をあげたが、とりわけもっとも巨大な問題だったのはこれだと思う。さっきも書いたが、俺は最後の最後まで近衛刀太というキャラクターに共感できませんでした。そして、そういう読者はかなり多かったと思う。これは少年漫画であるか否かにかかわらずとてつもなく巨大な瑕疵だと思う。

 

編集者&マンガ家志望は必読! 鳥嶋和彦、三浦建太郎が『DRAGON BALL』『ベルセルク』のウラ話満載で語る「才能あるマンガ家」「面白いマンガ」の作り方 | ダ・ヴィンチWeb

 「ディズニーランドのジャングルクルーズでたとえるなら、皆さんが乗ってるボートこそが主人公キャラクターです。キャラクターは読者の想いを乗せて動く分身。だから、読者が主人公を自分のことのように考えて好きになれないと物語にのめり込めないんです」と話し、キャラクターがストーリー以上に大切であることを説いた。

 

まあ引用を貼らずともわざわざこの文章を読みにきてる人は「共感できる主人公像は大切!」なんて理解してると思うけど……w というか描いてる製作サイドも当然のように理解していると思うけど、それでも言いたくなるくらい、刀太は本当に共感できない主人公だった。まじで。全然。

そもそも共感されうる主人公像・キャラクターってどこか作者の内面的な「写し」の部分があるからだと思うんですよね。作者自身の人生や経験の血肉の部分が入り込んでいるからこそ、生々しい実在感のあるキャラクターになるということ。『ネギま』の主人公ネギくんにはそれがあったと思う。赤松さん自身とはさほど近接していない人物だったかもしれないけど、それでも随所にはやはりそういう要素があったように感じる。そもそも悩みがちなネギくんと読者が共鳴しがちだったのかもしれない。でも刀太にはほとんどそれを感じなかったんですよね……残念ながら。おそらくそれは、刀太のほうがより計算で生み出されたキャラクターだからだと思う。

それでも序盤~中盤は刀太の内面のなさはさほど気にならなかったんだけど、それがUQホルダー後半にいくにつれてその傾向は加速していったと思う。その原因は作中の大きな方針転換だと思う。具体的なネギまでもあったようなハーレム化だ。

 

ハーレム方向に舵を取った結果、刀太の内面が希薄になってしまった

いやまあ「内面がない」ってどんな作品だろうと言えてしまうマジックワード的な批判なので正直ほんとに使いたくない言葉なのだが、さすがに刀太に関してはこう評さざるをえないと思う。マジで内面がないのだ。こいつ何考えてんのマジで? 俺は最後まで理解できんかった。少女漫画に出てくるイケメンと本質的に一緒なんですよ。当然、共感もできない。共感できる主人公というのは、物語のブースト装置みたいなもので、どんなにショボい展開だったとしても主人公に共感できるだけでそれは読者の疑似体験として輝かしい価値を持つ。逆にそうでないならあくまでただの「他人事」で終わってしまう。極論、物語の価値は共感できるキャラクターがいるかどうかで決まるとすらいっていい(なんなら共感できさえすれば主人公でなくてもいい)。

だのに、なぜ刀太はこんなことになったのだろうか……? その主な原因はハーレム方向に物語が舵を取ったことだと思う。

そもそもUQホルダーは当初、女性受けも考えて企画されていた作品だったと思う。これまでの『ラブひな』や『ネギま』に比較して、序盤から顔のいい男性キャラクターが多く登場するあたりからもそれはうかがえるし、夏凜が最初は塩対応で刀太には一切興味がなかった、というあたりからもそれは察せられる。相棒である九郎丸も男女どちらにもなれる中性の存在だったのもそうだ。ようはこれまで以上に女性受けを狙った作品にするけれども、もしもそれでうまくいかないようなら従来どおりの男性向け(ハーレム化)を進めよう、という構想だったのだと思う。

そして、当初の期待とは異なって女性には受けなかったのだろう。10巻あたりからキリエがどんどんヒロイン化していき、九郎丸はもはや完全に女になってしまい、あの塩対応鉄面皮女だった夏凜までもがメス堕ち(コラ)してしまった。

その結果として刀太はいくつもの女をたらしこむプレイボーイになってしまったわけだが、たんなるプレイボーイならまだしも、刀太は3人のヒロインも、雪姫(エヴァンジェリン)もみんな本気で好きという意味不明なことを言い出すことになってしまった。いや本気で好きと言っているが、読者には到底「本気で好き」には見えないというのが問題というか……。ていうか女三人にむかって「好きだぜ」とか真顔で言い放つ男に共感できると思う? イカれてるって思うでしょ普通。

いや、そもそもハーレムもので男性主人公が複数のヒロインを本気で好き、というのはもはや今では珍しくもなんともない。ないのだが、刀太に関してはカラッとした性格の上で全ヒロインが好きだったりするので、一層何を考えてるのかよくわからないキャラクターになってしまっている。

これは作劇的・創作技術的な話になるけれども、ちゃんと説得力をもってヒロインが全員好きであると読者に受け入れさせるのは、本当に難しいことだ。なにがそれを成立させているかは、正直けっこう「偶然」に成り立っていることが多い気がする。具体例をあげれば、たとえば『なろう小説』の筆頭として、最近アニメ化もされた『無職転生 ~異世界行ったら本気出す~』とかはハーレムとして複数のヒロインを抱え込むことになる。

 

 

じゃあ『無職転生』の主人公であるルーデウスに対して「内面がない」と感じるかといえば、全然そんなことはない。ルーデウスがハーレムを成立して、複数のヒロインと結ばれるのは多くの読者・視聴者がちゃんと納得できると思う。それはルーデウススケベだからというのがまずそうだし(あらためて考えると実に上手い設定)、もとが苦悩を多く抱えた生々しい人物であるというのがちゃんと描写されているからだ。でも正直なところ、原作者がそれを最初から狙って計算してやったとは思えない。たぶん偶然だろう。それでも計算づくのUQホルダーに比して、ちゃんと成立しているのは『無職転生』のほうだと思う。まあここが創作の難しいところなのだが……。

なんで無職転生のほうが成立しているかといえば、それはやはり作者の内面の切り売りが発生しているからだろう。対して、刀太には……どうしても人間らしさが感じられない。それは「少年漫画主人公」という機能から逆算して設計されたキャラクターだからなのだと思う。決して間違っていない。間違っていないのに……間違っているのだ。計算だけじゃ駄目なだな……と俺は読んでて思わず考え込まされました。

 

そもそもハーレム化を図ったのは、不死人たちの「集団」として生きていく結末を想定していたからだというのもわかるんですよ。一万年を超える『悠久』を生きる存在にとって、パートナーである存在が「男と女」の一対一である必要はどこにも存在しないわけで、それを描写する上でも複数のヒロインを抱え込むという判断は論理的に納得できる……し『複数の女を受け入れられる度量の広い人物=英雄的人物』の表現としてこういう選択をしたのも理解できる。それがエンターテイメント史における「ハーレム」文脈の先端的表現として挑戦したというのも、ちゃんと理解できる。

だけどその演出意図はやっぱり成功しなかったと思う。少女漫画のモテるイケメンを見て「英雄だ……!」と感じないのと一緒。最後まで刀太は(ネギくんとは違って)『他人』だったし、その決断に対してもどうでもいいという気持ちがどこかつきまとってしまった。そこが読んで自分自身すごく残念だった。

しかもUQホルダーのエロコメ描写は、見てて本当にキツかった。

そして……もうここがね、なんというか……ある種すべてかもしれない。『ラブひな』『ネギま』の頃にはある種、当時最先端だったギャルゲー文法の絵柄の輸入という側面があり、そういう絵でエロが少年誌で見られるというのがある種の価値になっていたように思うが、現在のようにインターネットが普及し、PixivやTwitterを漁ればいくらでも超クオリティのイラストを見られる……それこそ、UQホルダーに登場する女性キャラよりも遥かにエロくて興奮するイラストが無料でいくらでも見られる時代に、古風なエロコメディ描写を見るのは、本当に、本当に、ガチできつかった……。セックス描写とかもね……必要なのも理解できる! できるんだけど! なくてよかったなぁという気持ちが強い。どうにかならんかったのだろうか。10代20代はそもそもエロをUQホルダー以外で充足するし、旧来のファンはそもそも加齢でエロに対する欲求が減衰しているだろうしで、誰も得しない描写になっていたんじゃないかなと思う。残念ながら。

 

話が逸れた。

とにかく一番言いたいのは、。こうした「中身のない人間」が「虐げられた弱者の怒り」はびこる世界を救ったのを見て、そりゃあ心が動かされることはないよなあ……ということ。5・6巻がすごく感動したのは、やはりあのあたりは刀太ではなく三太が主人公だったからということなんだと思う。

 

時代性に即した物語にした結果、時代にそぐわない作品になってしまった

優等生的な結論のつまらなさ

ずっと主人公・近衛刀太の問題を書き連ねてきたが、それと連結する形で最終的な物語の結論にも納得できたとは言いがたい。UQホルダーは、『完全なる世界』としてすべての人類を幸福な微睡みに落とそうとする(ようは人類補完計画みたいなもんだ。違うけど)造物主ヨルダ・バオトと、それを阻止しようとする不死者たちの対決というのが全体的な物語の構造になっている。最終的に刀太たちはヨルダの計画を阻止し、「たしかに今は格差があり貧困の苦しみはある。だけどそれでも人類は漸進的にゆっくりずつ良くなっていってるよね、これでいいよね」と締めるのが物語的な帰結だ。

この結論それ自体に不服はない。というかそりゃそうだろうな、とすら思う。

だが正直、物語としてはあまりに優等生的な結論でつまらないなと感じたのも正直なところだ。

なぜならそれは単なる現状維持にすぎないというのがまず一点。そしてもう一点が、その結論を下しているのが「虐げられた弱者の側」ではなく、永遠の命を持つ悠久の不死者たちというのが一点だ。これは刀太の造形について語ったとこでも述べたとおり、その結論を出すべきなのは人類の側であって、不死者たちではないと思う。ようは単なる価値観の押し付けになってしまっているわけだ。加えて、ごくシンプルにあまりに優等生的でつまらないというのもある。さらに言えば、今の時代に合わない結論だな、とも思う。

時代に合わせて、時代遅れ

UQホルダーは時代を読んで、先取りして「格差」を扱って、刀太という明るい結論を導きうるキャラクターを主人公を据えたのだが、連載が長期化した結果、時代にそぐわない結論を出さざるをえない主人公になってしまったなと思う。

そもそも今の時代に合ったものは何?というと、今は「ワルイコトをする優等生の時代」だというのが自分の認識だ。

それをもっとも端的に表現しているのが、2020年にリリースされた『うっせぇわ』という歌だ。

youtu.be

 

この曲は、論理的・効率的に正しいことに邁進しそれを勧められる優等生が、心のなかで「んなコトてめえに言われなくてもわかってんだよボケが」とキレ散らかす歌なのだが、これこそが現代の10代~20代の内面をもっとも代弁していると思う(いやまあUQホルダーを読む10~20代はおらんだろうが……)。

現在10代のいわゆる「Z世代」は優等生が多く、その考え方を正しいと感じる一方でその屈託を抱え込んでしまっているこじれた世代なのだと思う。そうした内面の叫びを発散する形で、優等生が、非優等生的なことをしでかす(そしてそれが弱者の代弁んという形でも現れる)のが今なのかなと感じています。

それは『うっせぇわ』という歌だけじゃなく、すでに物語作品でもあちこちで現れていると思う。最近上映された『バットマン』は、先日の『ジョーカー』と同様にあまりにも社会の恨みをそのまま提示するダークな物語だったし、『天気の子』や『シン・エヴァ』はすべてが終わった「しでかしてしまった」世界でどう生きるかの話だし、それは2020年のゲームオブザイヤーにも選ばれた超傑作『Last of Us PartⅡ』でもそう。一つ突き抜けたどうしようもなく崩壊した後の世界が支持されるようになっている。

そこの対してUQホルダーは(超一級の作品との比較は酷とはいえ)あまりにも優等生な結論すぎる。「たしかに今は格差があり貧困の苦しみはある。だけどそれでも人類は漸進的にゆっくりずつ良くなっていってるよね、これでいいよね」だと? 「んなコトてめえに言われなくてもわかってんだよボケが」と『弱者が』叫ぶのが今の時代なのだ

なので、UQホルダーが出した結論は、それはそれで正しいし間違っていないとも思うのだが、物足りないなあ……と感じてしまった。そしてそれは主人公が近衛刀太だったせいで、そうせざるをえなかった、という事情もあると思う。刀太には弱者の代弁をできるようなポテンシャルはない。

 

批判ばかりなので建設的?な意見も提示してみる。

もし自分が、現代風にUQホルダーの結末を作るのだとすれば『みんな平等に不幸』な結末にしただろうなと思う。たとえばそれは、あの世界における魔法という存在そのものを消滅させるという形になると思う。

あの世界は魔法によって世界が発展しているため、あらゆる既得権益は魔法の存在をベースに構築されている。ほとんどの人類は魔法をもとに利益を享受しており、それは貧困層もかわらないが、富裕層はより多くの利益を得ていると思われる。なので、魔法の存在がなくなったらおそらくよりダメージを被るのは富裕層・権力者の側だろう。全員不幸になるが、権力者のほうがより不幸になるわけだ。

そしてそれは世界の構造そのものをリセットするという大暴挙でもある。

間違いなく死人は大量に発生するだろうし、世界中は大混乱に見舞われるだろう。だが魔法自体が消滅したことでヨルダの企みは完全に失敗し、世界が完全にリセットされる。つまりあらゆる機会が全人類に「平等に」訪れる。

そもそも『格差』とは何が不平等なのか?といえば、それは『機会の不平等』が原因なので(金があれば学んだり、挑戦できるチャンスが、貧乏人には存在しない。機会そのものがない)、魔法そのものを廃絶することで、皆があらたな挑戦をしなければならなくなるというわけだ。

おそらく地獄が生まれるだろうが、それは同時に希望でもある……という感じで自分は考えるんじゃないかなーと思った。もちろん、この結論に説得力を持たせるために、刀太には記憶を失って貧困の屈辱的生活をしばらく送ってもらったりするんだろうな。まあ、あくまで個人的な妄想ですが、自分だったらこうするだろうなということで。

 

おわりに ~それでも『UQ HOLDER!』は良い作品だと考える

さて、さんざんに『UQホルダー』という作品をくさして文句をたれてきた。

だがそれでも基本的には『UQホルダー』は良い作品だと思っていることはちゃんと主張しておきたい。間違いなく、良い作品です。古いけど。エロコメは見ててしんどいし、刀太にはちっとも共感できないけど、それでも良い作品だと思う。

そもそもこれだけ緻密に背景が描かれ、太陽系スケールで古今東西さまざまな不死者を題材に超能力バトルを繰り広げる作品は、他にほとんど類例がないんじゃないかと思う。あとは『ネギま!』を読んでた人間としては、エヴァンジェリンが孤独ではなく、いくつもの関わりのなか未来を生きていけるようになったのはシンプルに嬉しかった。良かったねエヴァ……。やっぱ刀太よりも全然おまえのほうが親身になれるよw

そして……何より、今度こそちゃんとネギまを終わらせてくれたことに、個人的には感謝したい。

すでに書いたが、週刊少年マガジンに連載されていた当時に『魔法先生ネギま!』は個人的にあまり納得できる終わり方ではなかった。「なんでナギと戦わねーまま終わるんだよ……! ちくしょう……!!」と当時ぶつぶつ不満をもらしていたものです。それが別の並行世界とはいえ、今後はちゃんと結末をつけてくれたことにはなにか胸のつかえが降りたような感覚があります。ああ、終わったんだなぁ……という感慨深さはたしかにある。

そもそも、なんですか? こんなアホみたいな長い文章をしたためてる時点で俺にとっては巨大感情作品なんですよ。現時点で12800字ですって。アホなのかマジで。こんなに書いてどうするんだ。ほとんど誰も読むわけもないのに。それでもどこかに咆哮せずにはいられないくらい、自分の人生にとって『魔法先生ネギま!』という作品はひどく密接にかかわっていたんですよ。『ネギま!』を通じてたくさんの友人ができたし、今でも関わりがある人はたくさんいます。20年ですよ。それだけの時間をちょっとずつ重ねたんだから、こんなにくさしていても、それでも嫌いでいられるわけがないんですよ。

 

だから、最後までこの作品を描いてくれてありがとうございました。

赤松健さん含め、編集および製作スタッフのみなさん、本当にお疲れ様でした。そして、繰り返しになりますが、本当にありがとうございました。

 

赤松さんは今後、政治家として表現の自由を守る活動をしていくと思われます。今後は一有権者として、赤松さんの活動を見守りたいと思います。現在、政治を扱った漫画を描いたとして色々言われていますが、政治家としては武器が不足している現状を考えれば漫画を「使う」のは当然の判断だろうと思うので、それ自体には違和感は感じません。そもそもその漫画読んでないから自分にはなんとも。ただ、それが間違った方向に用いられるのであれば、批判を受けるのは当然だと思いますし、私も有権者として批判するつもりでいます。

現時点で、漫画界と政治界を結ぶ影響力をもった存在としてはほとんど唯一の存在に赤松さんはなっていると思います。SNS上でフェミやらなんやらたわわで騒ぐ現状において、表現の自由を守る活動を、私は基本的には支持します。もちろん問題があれば、手心を加えず「政治家として」批判されるべきだと思います。

なぜか最後に政治の話になってしまったけど……w ともあれ、UQホルダーが無事に完結したことそれ自体は喜ばしいことだと思います。

 

何度も繰り返しますが、本当にお疲れ様でした。

そしてありがとうございました。……20年以上読ませて頂いたんです。たった13600字の文句くらいは許してください(笑)。