妹尾ありか著『アカーシャの舷窓』感想

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■まえがき

 お友達の妹尾ありかさんが今夏のコミックマーケットで頒布した、新刊『アカーシャの舷窓』についての感想記事です。実は自分(橋本しのぶ)が本作のカバー・表紙のデザインを担当しております。つい先日、中身の小説についても読み終わったので(※一応言っとくと概要と表題作については事前に読ませてもらっていました)、私の新刊(『Grand Order/Alternative』上巻)の告知サイト製作もしていただいたし、お礼も兼ねて感想をば。当然の如くネタバレ記事なので、未読の方はUターン推奨。

 本作は短編集となっており、表題作の『アカーシャの舷窓』『海の蜻蛉、妖精の幻』『ブルースフィア・サブマリンショウ』の三作で構成されているものです。それぞれ彼の既刊である『フィニクスフヴォースト』シリーズや『心造少女』シリーズと世界観を同一にするもので、各短編の主要キャラクターである龍驤、あきつ丸、皐月、曙、イムヤ、響、朝霜らを中心に描かれている。

 一読して、楽しませて貰いました。

 もともと彼の既刊は読んでいたので、十分楽しめるだろうと思っていたし、実際に十分楽しめたと思います。読んで損するということはまったくないと思います。お金を出す価値は十分にある。

 た・だ・し

 その感想は基本的にかわらないものの、僕は彼のことを非常に買っているので、どうせならもっと良い作品書いて欲しいな~~と思うので、色々と厳しいことを書こうと思います(えらそう)。なお、以下のことはだいたいの内容は実際に対面したときに既に彼に伝えているもので、これから書くのは自分自身にとっての整理のためが主な目的になります。その点、了承の上おねがいします。

 

■短編ということについて

 本作を一読して何より思ったのは「やっぱり基本的には長編をのびのび書いてたほうがいい人なんだなー」ということでした(※いきなりわりと酷い発言)。

 いや、決してつまらないとかって言いたいわけじゃないんですけど、彼の良さはやはり長編のほうが出やすいんでしょうね。基本的に世界の設定をつらつらと書いていたほうが筆が乗ってる感じがあるので、そうなると短編だとどうしても「一部を」「ちょこっとだけ」切り取ったような寸足らずな印象が強くなってしまうんでしょうね。

 彼がキャラクターも書ける人なのと、自分が個人的にキャラクターを中心に据えてよむことが多いからそっちに目が行きがちなこともあって、処女作の『フィニクスフヴォースト』を読んだときは「キャラクターが描きたい人なのかな???」と思っていたんですが……まあ改めてやっぱり見ると「やはりややマクロ(世界そのもの)寄り」な気がします。キャラクターそれ自体にもフェチズムは感じるし、実際に書けているとも思うんだけれども、基本的にまず世界があって、その上でキャラクターを仮想で走らせるとどうなるか?ということに興味がありそうな気がするので、やはりマクロ寄りなんでしょう。そういう意味では、作家としてただしくSF向きな資質な気がします。私の読んだ感じとしては、彼の興味の比率としては「キャラクター:世界=3:7」か「4:6」くらいだと思う。

 で、そういう前提の上で読むと、今回の短編は彼の資質や興味のバランスがそのまま表出した、やや微妙な塩梅の作品に仕上がっているような気がします。

 というのは「そもそも短編って何よ?」みたいな話から始めなければならないと思うのですが、(あくまで私見だとしておきますが)短編っていうのはまず第一に求められるのは「切れ味」だと思うんですよね。

  切れ味というのは、つまり言い換えると「アイデアの新鮮さ」となるでしょうか。つまりその短編それ自体に含まれる情報の新しさ、とか目新しさとか、そんな感じのアレです。具体的な定義についてはフワッとしておきます。 僕自身もあんまりちゃんと決めてないので。あと「お前もできてないやんけ」みたいなツッコミもなしで。僕そもそも長編しか書けない人なんで(へっぴり腰)。

 話を戻して。

 短編になぜ「切れ味」が求められるのか? というと、まあ簡単な話で単に「それを求めるしかないから」だと思います。物語というのは短くなるほど、単なる「情報」としての側面が強くなってしまうものです。そうなると価値の基準として情報それ自体の価値に焦点があたってしまう。

 ネットの記事とか想像すればいいんですが、知ってる情報には価値はないですよね。あるある的な共感はあるかもしれないですが、情報自体に価値はない。たとえば「毎日ちゃんと歯磨きをしたほうがいい」というのは誰でも知っていることで、改めてそんなことを言われてもべつにその記事に価値はない。だけど「寝る前に歯磨きをするのは害悪である」とか言われたら、そんなことは(真偽はともかく)大半のことは知らない情報でしょう。いや実際に害悪かどうかは関係なく、情報として「未知である」がゆえに価値が見出されるとか、そういうことです。

 じゃあ長編はどうなのか? というと、長編は求められるものが違います。長編になるほど物語には「体験」が求められる。それは情報としての価値を求めているわけではない。物語世界において何が起こり、それを追体験し、様々なキャラクターの目からそれを知るという「体験」にこそ価値がある。短編とはそもそも求めるものがまったく違うわけです。それは一人称だろうが三人称だろうが、基本的に視線の位置が変わるだけで不変のことです。長編においては、体験としての稀少さにまず第一の価値が置かれるものだと思います(私見です)。

 で、そういった価値判断基準の御託を述べたうえで、彼の短編について自分がどう感じたかですが――その点においては、三作とも短編でありながら「体験」を描こうとしている(というかその区別があんまりついてない)惜しい内容になってしまっていると思う。特に表題作の『アカーシャの舷窓』について。

 これは本人にも伝えましたが『アカーシャの舷窓』で描かれるさまざまなマクロ設定は、なるほどこれは彼にしか思いつかないだろうなというオリジナリティのあるアイデアなんですが、そのアイデアの使い方というか、見せ方が短編なのか長編なのか曖昧な処理になってしまっている。いうなれば物語の『ダイジェスト版』になってしまっていて、素材からすれば長編的な体験の積みかさねの果てに「こんな衝撃の新事実でしたドーン!!!!!!!!!!!!!」とやるのが効果的なアイデアなのに、短編ともどっち付かずの描き方なので、いまいち衝撃的に受け止められないというか。

 たぶん本人としてもまだ、短編の処理と長編の処理の違いについて腑に落ちてない段階なんだと思います(すごくえらそうな発言)。アイデア自体はすばらしくて、実際、デザイン関連の打合せをした際に「こんな感じの内容なんですけど……」と聞いたときはめちゃ面白そうに思ったので、やはりこれは小説の技術的な見せ方の問題でしょう。長編的な「体験としての新事実開陳」をすべきだったのか、それとも短編的な「サラリと重大事実を告げてトントンと話を畳む」方法でいくべきだったのか(他にもいろいろやりかたありますが)。何にせよ、そのあたりの方向が曖昧だったことが一番の問題なのではないかと思います。

 『アカーシャの舷窓』についていえば、個人的には長編的な情報開示と、短編的な情報開示、どっちでやるのもありなネタだとは思うのですが、いかんせん彼が「描きたいもの」としては「長編的な体験」のほうだと思うんですよね。 それを短編で実現させようとしてしまったが故に、中途半端な描き方になってしまってるなあと。おそらく、この内容を(アカーシャの舷窓の内容を)そのまま圧縮せず長編として書いていたなら相当おもしろい話になっていたでしょうが、まあそこはそれというか、長編でも短編でも常に百点満点をだせる作家など存在しないので、今回はこれで良かったのだと思います。むしろ、彼の小説書きのキャリアとして考えるなら「このレベルの失敗」をこの段階(書き始めて数年)でできるのは素晴らしいことで、今回の短編チャレンジは全然大成功だとすら割と本気で思います。 この一作で、長編向きの資質の持ち主だということは明らかになったと思うので、今後の身の振り方としても必ず役に立ちますしね(えらそう)。

 なお『海の蜻蛉、妖精の幻』『ブルースフィア・サブマリンショウ』の2短編はリズム感もそれほど悪くなくて、ちゃんと短編として成立していると思います。なので面白かったのですが、だから余計に表題作における題材と描き方のコンフリクト感?というか、チグハグ感が目立ったんでしょうね。

 

 §

 

  微妙に話がつながっていないので、前フリを回収しておくと、そもそも本当は短編でいくなら、キャラクター重視でいくのか、世界観・世界設定重視でいくのかの舵取りも事前に決めておくべきだったのだと思います。

 ありかさんの場合、興味関心がどちらにも向いていると思うのですが、しかしどちらも十分に満たしながら短編を処理するのはこれは非常に難しいと思うんですよね。基本的にキャラクターと世界というのは排反しがちなもので、どちらかと書けばどちらかが足りなくなる傾向が強いものなんです。長編ならばその辺りを尺の長さで解決できたりするのですが、短編だとやはりどちらかに全振りしないと難しい。その点、収録している三作ともキャラクター:世界=3:7とか4:6そのまま全部そんな感じだったので、それは確かに処理しきるのは難しいよな、みたいに思いました。世界設定自体が十分に魅力的なものにできていると思うので、たぶん僕以外の読者的にも、世界の設定開陳がメインの短編を書いたとしても割りと受け容れられそうな辺りは、彼の強みだと思います。

 

■まとめ

 偉そうに色々書きましたが、まあ実際難しいんですよね。僕も短編とか上手く書けないし(えー)。とはいえ、長編というのも結局は「短編の集合体」でしかない面もあり、短編のスキルは確実に長編にも活かされるものです(逆に、長編ばっかり書いていてもなんだかんだで短編的なスキルも身についたりするものだと思います。手前味噌ですが、実際自分は、以前は短い話まったく書けなかったけどなんとか書けるようになったし)。そんなわけでまあ、厳しいこともちょいちょい書いたのですが、彼ならば問題なく乗り越えられることでしょう(えらそう)。

 あとこれは余談なのですが、彼の書く小説からは……なんだろう? 何故なのかいつも猛烈な男性不信(というのか?)を感じるのがいつもすごく不思議で驚かされるんですよね。心造少女もそうだし、ブルースフィア(略)もそういう話だったので、なんでこういう認識になるんだろう……といつも目を丸くさせられます。まあ、このあたりは『心造少女』が「まさに!」という題材だと思うので(マルドゥクシリーズが土台になっているようですが)、なるほど目の付け所が良いなと思うとこでもあります。以前の記事でも書きましたが、『フィニクスフヴォースト』シリーズは3巻の物語の処理の仕方がちょっとうまくなかったので、『心造少女』ではそれが題材として十全に描ききれることを期待したいですね。

 では、このあたりで。

企画の立て方についてのメモ

■企画作りの方法論を求める経緯

 えー、僕は同人小説書きなわけですが、企画の作り方については人並みに(?)悩まされてきた方でして。

 企画作りっていうのは、なかなか難しいもんなんですよ。ここでいう「企画」とは、ざっくりと「どんな作品にするか?」くらいの意味です。小説を書くまえに「じゃあどんな話を作ろうかな?」と頭をひねらせるわけですが、なかなかどうしてどっかで見たことのある「あんまおもしろくない企画」ばかりが出来上がってしまう。ありふれたパクリばっかになってしまって。

 なのに色んなしがらみもあり、〆切りもあり、いまいちな企画でもとりあえず書き始めなきゃいけないということはままあります。だから結果として「あまりよくない企画だけど完成した作品」というのは、世の中にはわりとけっこうあるんだろうな、なんて思うんですけど。

 そんなふうに「あんまり良くない企画だ」と思いつつも、とりあえずいっぱい小説書いていればそのうち良い企画も作れるようになるだろ~ガハハ! と楽観的に考えていた時期もあったんですが、すでに十数本長編を完成させた経験からいって、そんなことはなかった(つらいですね)。

 こうした経験から得たのは、良い企画を作るためには、良い企画を作るための方法論をちゃんと学ばないとできるようにはならないのだ、というごく当たり前の知見です。愚者なので経験からしか学べませんでした。なんてこった。

 だけど一言言わせてもらえるなら、世の中には「良い企画」=人気が出る=需要がある企画を作る方法論は、特に物語製作についてはほぼまったくノウハウ化されていないと思うんですよね。これたぶん出し惜しみとかじゃなくて、本当にみんなよくわかってないんだと思う。単純にそういう学べる教材それ自体がない。

 だってさ……僕はこれでもけっこうな数の創作系の本を読みましたけど(「こうやってシナリオを作る!」みたいな本。ハリウッドのあれとか)、企画の作り方ってほとんど書かれてないんですよ。いや恨みつらみじゃなくて事実としてそうなんですって。本当にないの。正確にいえば、エッセンスとしてそういった「良い企画」につながりそうな要素が書かれていることはあるんだけど、それだけを理解しても決して良い企画にはなりえないというか。そういうのばっかりなんですよ。おこですよおこ。激おこぷんぷん丸です。いやまあ、そもそも企画作りというものが自由度が高い作業なのでメソッド化するのが難しいんでしょうけれど。

 根本的な(主語のデカイいっそ炎上してしまいそうな)話をすると、これって日本企業が抱える構造的な問題なんだと思います。日本企業って、以前から品質を高めることは得意だけど、「求められる製品」を作るのって苦手じゃないですか。箱庭的に一つの商品を性能はそのままでパワーアップすることは大得意だけど、まったく別の新しい価値を作るのは苦手というか。だからそもそも良い企画の作り方を理解できる人のほうが少ないんだろうと。(といっても、海外のシナリオ作法本とか読んでもダメなのはダメなので、あんまり関係ないかもですが)

 

イノベーションについて調べ始める

 話を戻して、そういうわけで既存の創作本を読む限りでは、良い企画を作るのは難しい!という限界を、かつて私は感じたわけです。なので視点をもっと広げて、ビジネスの世界で良い企画(良い製品)の作り方を探せば、何か使えるノウハウがあるのではないか???と当時の僕は考え始めました。

  いま振り返って考えてみれば、この考え方は正解だったと思います。たしかにビジネスの世界では「どんな話を作るか」よりも更に応用的な企画作りのノウハウが転がっていました。それもそのはずで、だいたいビジネスの世界だとサプライチェーンを考えれば明らかだと思いますが、モノを作るだけで完結するということはまずありえない。その商品をどんなふうに画期的なのか説明し、どんな風に流通させ、どんな風に客を囲い込むか……という戦略まで含めて考えなければ利益なんて出るはずもないからです。とくに現代においてはそう。

 「どんな話を作るか」だけでは考ええないことが大量にあり、その解法もまた幾らでも存在する。創作だけの視野狭窄なままではわからなかったことなので、ここは非常に正しいアプローチだったと自画自賛します(いえーい)。

 で、当時の自分が企画作りにおいて、何をまず調べ始めたのかというと、イノベーションについてでした。

  イノベーションってなんかカッコいい響きですよね。つよそうだし。なんかオサレ感あるじゃないですか。なので、いやっふーこれはもう勉強するしかないぞう! ……という、よこしまな理由だけで勉強したわけじゃないです(笑)。いやちょっとはあるけど。

 当時考えたのは、本当の意味で優れた製品なら当然それはイノベーションを引き起こすものだろう、と考えたから。当時はiPhoneとか出始めたばかりでしたし、それまでのケータイ文化からするとiPhoneって革命的だったじゃないですか。言葉にできなくとも画期的なことが直感的にわかるという。指でこう、すい~~~ってやるのかよすげー!みたいな。

 そういう背景もあって、とりあえずイノベーションについて勉強し始めたんですが……残念ながら、ここでもすぐに良いノウハウが得られたわけじゃありませんでした。ジョブズの本とか、他のイノベーションとはどう起こすのか?みたいな小難しい本も色々読んでみましたけど、読んだ感想としては「小難しい!!!!!!!!」というものをでなくて、果たして創作でそのまま使えるかというと、まあ使えないよねというものばかりでした。

 なぜそれらの本が使えないのか? 理由は明白で、それらはイノベーティブな案件の「条件」については記載されているけれど、ではどうやってそれらを作るのかについては記載されていないからです。

 つまりイノベーティブだった製品を結果から振り返って「こういうところが優れていたよね」と指摘しているだけで、ではそれらはどうやって引き起こすのか?というプロセスについては指摘できていないものばかりだったんです。あるいはジョブズの関連でいうなら、「こういう天才だから発想できた」みたいな、方法論として全く機能しないものばかりで、じゃあ結局どうやりゃいいんだよ!!!!!!!!!!という気持ちが蓄積するものばかりだったわけです。

 大概それらのイノベーション関連の書籍って、ではどうするのかという点については、ブレインストーミングとか既存のアイデア出しの方法論で「なんか頑張って」、イノベーティブな条件に達するまで粘る、くらいしか書かれていない。どう頑張りゃええねん。いや、それはそれで間違いではないと思うのですが、どうにも狐につままれたような気持ちは拭えません。頑張ればそれでいいの? 本当に? アイデアを出そうとするだけでイノベーティブなものが出来るの……? 良い企画って作れるものなの……? と。そんなふうに納得できないまま更に一年くらい経った気がします。

 

イノベーションの方法論について、だいぶ納得してくるの巻

  なんだかエッセイ?みたくなってきてしまいましたね。でも小説書きだからこういった文体になるのはある程度しかたないんです。ダラダラ書いて申し訳ないけれども、そもそも自分用のメモというのが第一の目的なので、その辺については勘弁願いたい。しっかり構成する苦労を味わうのは小説だけで十分なんで……。

 で。

 そんなわけで「イノベーションって本当にそんなんでできるの……?」と懐疑的な気持ちのまま日々を過ごしていたわけですが、青天の霹靂のごとく「あっ、これだ!」と思えるものを見つけることもできました。ブログやツイッターでもちょこちょこ言及したりしていますが、濱口秀司さんの提唱?するイノベーション関連の理論ですね。 

diamond.jp

 

  初めて目にしたのは↑の記事です。

 ちきりんさんとの対談中では具体的なイノベーションについての方法論は語っていないのですが、他の記事を見ればいろいろと言及があります。

logmi.jp

 この記事とか。 

diamond.jp

 以前も貼りましたけど、この記事とか。あとTEDのプレゼン動画とかも公開されており、そちらも非常におもしろかった。

 若干キモいレベルで濱口さんのネット上の記事を検索してまわっているので、ほぼ全ての発言について舐めるように見たのですが、それぞれ微妙に発言内容が変わっております。あと最近だとハーバードビジネスレビューにて「SHIFT」という連載記事を書かれているので、そちらも読んだりなどしています。

 んで。

 そこまで色々読むのは、これまで調べてきたイノベーション絡みの説明において、氏の説明がもっとも納得感が高かったからなんですよね。

 どの記事での言及だったかはわすれましたが、イノベーティブな発想というのは、ただのアイデア出しでは絶対に生まれないと断言しているんですよね。何故か? それは既存の思考法から生まれたアイデアは必ず思い込み(バイアス)に汚染されてしまっているので、本当の意味で画期的なものになりえないから。

 ようは、本当に画期的なものは、自分の頭のなかの「思い込み」を壊すことでしか達成できないので(考えてみれば当たり前なんですけど)、既存の思考フレームを使ってアイデアを出そうとしている段階で、そもそも既に思考に偏りが生まれているんだから、優れた発想=イノベーティブなアイデアが出るわけがないという。

 まあここで詳細を論じることに意味はないので、とりあえずそーゆーものだということで話を進めます。詳細は実際に彼の主張を見たほうがいいでしょうし。

 氏の主張は、僕にとってメタ視点でアイデア発想法それ自体にダメ出ししている点からいっても、非常に納得感の高いもので「なるほどな!!!!!」と膝を打ちました。その他の記事も面白いんですよね。初めてHBRに掲載された「デザイン思考を超えるデザイン思考」っていう記事なんか、デザイン思考なんかでイノベーション起こせるわけねーだろ(意訳)と真正面からバッサリ切って捨ててて、あまりのロックさにめちゃくちゃ笑いました。よほど自信がないとできないことです。(実際、その自信に見合うだけの、大量のイノベーションを引き起こしてきた実績が凄まじいのですが……勝率おそらく100%?)

 

■なんで単著出さないの?

 そういうわけで、より深くその方法論について知りたいと思い、ネット上の記事やら何やらを漁っていったわけなんですが……。

 そもそも、なんでネット記事なの? と。

 そもそも、書籍とかあるなら読めばいいじゃん? と。

 普通はそう思うじゃないですか。そりゃそうです。だけど、濱口秀司さんって驚くことに一冊も著作されていないみたいなんですよ(!)。読むべきものがネット上の記事しかない(笑)。なのでやむなくネット上の記事を読んだりしていました。不思議なのは、彼の著作を読みたいであろう人は明らかにかなり多そうで、恐らくは出版社も声を掛けていると思うのに、それでも待てども暮せども本が出てこないということ。なんでなんだろう? とずっと不思議だったのですが、先日Newspicksの有料記事を読んでやっとその謎は氷解しました。

 彼がそうした単著を書かないのは、ようは育成を考えてのことらしいんですね。私の言葉でざっくり説明しますが、彼がいうに育成には二種類あって「言語化できるもの」と「言語化できないもの」があると。直接「これこれこうやればいい」とマニュアルとして伝えるのは言語化できるもの。そしてその分野における文化や背景・文脈に関する知識やスキルは言語化できないものになる。で、育成にはこの両方が必要になる。

 学校の義務教育などは前者の「言語化できるもの」に相当します。書籍によって伝え記すものもこれに該当します。この方法のメリットは伝達効率が非常に良いことですが、デメリットとしては教えられる側(生徒)は、教える側(教師)を絶対に超えられないという点がある。

 対して、文化や背景についてべったり付き添って教える非言語的なものを伝える育成は、例として挙げるのは刀鍛冶だとか。刀匠は弟子入りしてもすぐに刀を打てるわけじゃなくて、最初のうちはただ見てるだけ、雑巾がけするだけ。それで10年くらいたってやっと「とりあえず一回鉄叩いてみる?」とようやくなる。刀鍛冶の文化を学んでから(つまり文脈や背景・師匠の抱える問題点などを予め分析しおえた状態から)始める。この方法のメリットは、学ぶ側が師匠を超える確率が高いという点。そして、デメリットは非常に時間が掛かるという点になります。

 濱口さんが本を出さないのはこれが理由のようです。つまり、自分を超える人材を育成しようと思ったら、べったりと教育させてはいけないのです。

 実際には、なかなか十年なんて待ってられないので、言語的なものと非言語的なものを上手く行き来しながら教えるようですが、そういう理由もあって、濱口さんは意図してすべての方法論を開陳することはしていないらしいんですね。自身の作業については完全に方法論として体系化を済ませているようですが、その理屈を一部のみしか公開していないと。

 ここで私はまた壁にあたったわけです。全部わかんないなら学びきってるわけじゃねーんです!???!??!??!(????)っていう。

 

■本当の方法論は自分で見つけなければならない

 いや、しかし濱口さんの仰ることは自分にとって、なにか伏線を回収された(笑)ような気持ちがありました。

 というのも、たしかに濱口さんの述べる方法論、理論はあくまで理論でしかなく、じゃあ具体的な、実践的な場で即座に使えるかというと、そうではないからなんです。なぜなら、その理論というのは実施者のスキルが伴って初めて有用なものであって、身についてなければ壁に書いたオモチと変わらないわけなんですよ。たとえば彼のイノベーションの方法でいけば、一度出したアイデアからバイアスとなる共通した「軸」を取り出すのが重要になります。ただ、それは非常に難しい。センスが必要になる。

 たとえば先に掲載したUSBメモリを開発した経緯についても、「物理的に持ち運び可能かどうか」という軸と、「データ容量の大小」を軸にとってバイアスを壊そうとしている。けれど、この軸を取り出すこと自体が訓練を経ないと(=非言語的なスキル習得を経ないと)非常に難しいんです。これは実際に自分自身でこの数年間、企画作りで同様の方法論を用いてチャレンジしてみてわかったこと。良い軸を出すのはなにか学習がないと(自分なりに腑に落ちる経験がないと)上手くできない。正直今もうまくできてるとは言い難いです。

 えー、というわけで。

 ここからようやく、最近の自分が学習したことについての記述になるわけですが(全日本前置き長すぎ太郎左衛門)、ここから先は氏の発言を分析しつつ、自分で手探りしていくしかなかったわけです。ただガイドラインはすでに貰っているわけなので、あとは自分なりに深めていけばいい。ちょっとずつ自分なりに理論を深めていこうというのがここ一年くらいの状況でした。

 それでわかった重要な点は、大まかに以下の2つです。 

  • 企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)
  • 共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 自分のなかで概念を整理するために書いているところがありますので、若干面倒なんですがひとつずつ書いていこうと思います。

 

■企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)

 必要でした(結論)。いや……なんかすごく当たり前の話ですが……。でもたぶん一般的に考えられているマーケやデザインとは微妙に異なる考えでもあると思いますが。

 まず自由度について書いておきたいのですが、自分は小説書きなので、そもそも濱口さんの理論についても漠然と「ビジネスの点はよくわかんけど、企画作りだけでも流用できればいいや~~(笑)」なんてお気楽に考えていたんですが、どうもそれだけでは上手くいかないらしいぞということがわかってきたんですね。

 というのも、小説というのも結局は一つのコンテンツに過ぎないわけで、それを読者に届けるところまで考えなければ作品は完結しないわけじゃないですか(本当か?)。そう考えると、当たり前だけど普通のビジネスとやることはなんら変わらんわけですよ。つまりその作品を「どんなふうに届けて」「(小説なりなんなりを通して)どんな体験をさせるか」まで考えなきゃ、小説を作ってるとはいえないのでは……?とかそういうことを考えはじめたわけです。

 しかも小説「だけ」考えていては、良い企画って、もし仮に作れたとしてもヒットできるほどになるかといえばならない確率は高いんですよね、というか高そうなんですよ。そもそもの話として「良い企画は必ずヒットする」というのは幻想であって、百パーセント的中するわけではないという前提があります。濱口さんの理論でも、できるのは的中率を「高める」ことであって、必中ではない。ただ企画を作る以外の部分でうまく差分を作っていく(導入させる=マーケティングさせる)ことで、的中率を必中に近いところまで高めていくことはできる……ということらしい。

 つまり何が言いたいかというと、少なくとも現在の世界においては、良い商品を作るだけでそれが商業的に成功が得られるかというと、全然まったくそんなことはないということです。ということは、もともと自分が考えていた「小説だし良い企画さえ作れればええじゃろ、ガハハ!」という考えはまったくもって間違いだということです。そもそもそんな考えは良い企画をつくったとはいえない。かなしい。

 すでにちょっと触れましたが、じゃあどうやって的中率を高めるのかというと、濱口さんの場合は幾つかの要素に狙いをつけて、それぞれで苦労して(?)的中率を高めているらしい。それが記事でいくつか触れている「ストーリー」や「デザイン」や「機能」、そして「社内マーケティング」「社外マーケティング」の部分らしい、ということまで関連性がわかってきました。

 前述した3つ(ストーリー・デザイン・機能)については、濱口さんの記事を見ればいいとして、マーケティングについてここでは触れておきたいと思います。また社内・社外の区分けは一旦おいておきます。

 そもそも、マーケティングとはなんぞや??????

 といわれて、けっこう昔の私(10年前くらい)はなんとなく「売れるための技術……???」と考えていたことを思い出します(上記でいえば社外に対応)。だってマーケティングってお客さんのことを調べて、そのお客さんが求めてるものを売るって仕組みのことを指してるんでしょ……だったらつまりそれって売れることじゃない……ねぇ、ミァハはどう思う……(?)と考えていたんです。

 が、これは間違いなのです。

 なのです、と断言しちゃうとやや不安ですが、自分はそういう理解をしています。自分の言葉で説明すると、マーケティングというのはある側面では「企業の延命技術」であり、そしてもっと本質的なことをいえば「導入」にすぎないのです。たぶん。思い切ったことを言っちゃったね。こわいよう。

 えー、昔聞いた話をします。人から聞いた話をそのまま話しているだけなので、真偽のほどは自分で判断してください&細部は間違ってる可能性が大なのでそこは理解してくださいね、という逃げ道を作ってから話します。というか書きます。

 とあるレコード会社の話です(たしかエイ◯ックスだったと思いますが違ったかもしれません)。仮にA社といっておきます。A社は一時期、マーケティングを使って音楽業界における地位向上・及び利益向上を目指したことがあったそうです。どうマーケティングを使ったのかというと、消費者の動向分析を行って「どんな曲がどんなタイミングで流行るのか」の調査を行ったらしいんですね。

 そこで明らかになったのは、例えばしっとりした曲調のバラードが流行ったあとは、今度はアップテンポのリズミカルな曲が流行り、そしてその後はふたたびしっとりしたバラードが来て、そしてその次はまたアップテンポの……といったような、曲調の流行り廃りの波のようなものが存在するということでした。一時期小室哲哉がヒットメーカーとして名を馳せましたが、彼がやっていたのと似たようなこと(というか同じ?)です。ようは次にどういう曲が売れるのかを分析し、更にそれに合致する曲を提供することで、売上を確保し、さらには市場を独占しようと試みたわけですね。

 このチャレンジの結果、A社は見事にヒット作を連発しました。

 出す曲が次々にヒットし、目論見通りに市場の売上は独占。マーケティングの作戦は大成功した……かのように見えました。しかし、結果として何が起こったのかというと、市場の縮小が起こったそうです。つまりたしかにヒット作はいっぱい出たんだけど、その代償として、自分が参加しているフィールド自体があっという間にしぼんでしまって、業界の総体的には売上が下がってしまったんです。マーケティングを駆使したはずなのに。結果として、A社の先行きの見通しは暗いものとなってしまったそうです。

 ……以上、実際にあったらしい話です。

 つまりこれが何を示唆しているのかというとマーケティングでは企業は成長することはできない」ということだと思うんですよね。これを知ったとき私はとてもびっくりしました。売れるための技術だと思っていたマーケティングでは、予測された売上しか出すことができない、単なる延命処置にすぎないってことなんですから。

 でも考えてみればわかるような気もします。たしかに日本のレコードメーカーって、定期的に「どこかで聞いたような、でも心地いい曲」って出してくるじゃないですか。なんとなくわかってくれると思いますけど。それを聞くたびに「ああ、いいなー」とはたしかに思うんだけども、同時になんか「飽きてる」のも感じるというか。たとえ次に何が欲しいのかがわかっても、消費者が飽きてしまうという状況は避け得ないということなんでしょうね。面白いですね。

 なお、この話にはもう少し続きがあって、こうした狙ってヒットを作る小室哲哉とミリオン連発は当たり前のミスターチルドレン桜井和寿さんが対談したことがあったらしくて(これだけでもうおもしろいんですが)、

 その時の話の噛み合わなさがすごかったそうです。小室さんが「ここをこうやって作ればヒットになりますよね」と理論から曲作りについて語っていたそうなのですが、そこで小室さんは桜井さんに聞いたそうです。「あなたの場合はどうやって作っているのですか?」と。すると桜井さんはこう答えたそうです「いや……なんか気持ちいい曲を……」と(笑)。

 初めてこの話を聞いたときはそらもう笑いました。ですがこの両者の比較で重要なのは、真にイノベーティブな企画は計算できないということです。桜井さんが素晴らしい曲を書くのは明らかですが、自身が「飽きて」いないことについても疑いの余地はありません。ようは、消費者が要求する「波」は定期的に繰り返すものだけれども、その「次の波」は「前回の波」とは異なっているということで、その計算は普通はできない。桜井さんはたぶん自身が消費者でもあるからなんでしょうけど、その次に欲しい「波」を感覚的に掴んで「気持ちいい」形として表現する才能に長けているということなのだと思います(余談ですが、そうした企画を作る人間=イノベーティブな企画を作れる人材には何が必要か? という観点から、更にその人物の持つ「狂気」が必要という話つながっていくのですが、それはまた機会があれば)

 話が盛大に逸れていますので、ちょっと路線を戻します。

 マーケティング(=小室さんのやったこと)は「企業の延命技術」にすぎないと言いいましたが、その意味はちょっとは伝わったでしょうか。すくなくとも僕はそう認識しているという話ですが。で、じゃあ企業ってどうやって成長するの?というとイノベーションを起こすことによって(=桜井さんのやったこと)成長するわけで、マーケティングとはつまり「次のイノベーションを起こすための場繋ぎ」でしかないんですね。そもそもだから僕はイノベーションについて調べ始めたわけなんですけども(以上、10年前の話でした)。

 そういうわけで、僕はこれまでけっこうマーケティング軽視をしてたというか、マーケティングを学んでも売れる企画なんて作れないんだ! 意味ないじゃん!! なんて思っていたんですけど、ここ最近その認識が少しずつ変わりつつあります。それが濱口さんの理論を経由したからなんですけれども。

 ようやくしたかった話に繋げられましたが、なぜ認識が変わってきつつあるかというと、マーケティングってつまり「導入」なんだなと理解できてきたからです。あるいは誘導といってもいいかもしれません。

 イノベーティブな企画はただそれだけで成功するか、という問いを立ててみましょう。その問いには「否」という答えが返ってくると思います。なぜならば、たとえばiPhoneは誰が見てもイノベーティブな製品ですが、それをたとえばアマゾンの未開の原住民に渡したところで、彼らはその有用性を理解できないでしょう。つまり、その製品がどれだけ有用だったとしても、それは「特定の消費者のゾーンのなかで」のことであって、必ずしもすべての人類に共通しているとは言えません(実際にどうなのかは製品次第なところがあると思います)。

  そういうわけで、良い企画を作ったとしてもただそれだけではいけない。それをユーザーに伝えるための導入が必要だ……ということで、濱口さんもマーケティングを重要視しておられるのではないかなーと考えたわけです。そういうわけで自分自身もこの二度目のパラダイムシフトによって、もう一度マーケティングについて見直さないといけないなと考えているのがここ最近の状況なのでした。(自分の同人誌についていえば、そういうわけでデザインをこれまで以上に重視しはじめているのはそういう理由もあります。)

 

■補足:企画自由度について

 更に、まだこの記事で「企画自由度」について全然触れられていないのですが、これについても書いておきます(企画自由度というのは僕の造語です)。

 濱口さんの理論では、既存のバイアスを特定し、それを壊すことでイノベーティブな発想を見つけるというプロセスを取るのですが、壊す対象のフィールドが狭いほど壊せる範囲は狭くなる=インパクトが弱くなる、ということについて考えています。

 たとえばビジネスの「業界」単位でイノベーティブなアイデアを作るのと、一地方の村のなかでイノベーティブなアイデアを作るのとでは、企画として出来る範囲(=バイアスを壊せる自由度)が違うのではないかと思うんですよね。

 僕が思考実験でよく考えるのは(ついでに実益もその気になればありそうなので考えているのが)、『小説家になろう』で人気の出る企画はどう作るか?ということなんですけど、これは案外、ややこしい気がしています。だってそもそも「小説家になろう」という共通フォーマット内で戦うというルールを強いられているので、その内部で勝とうとすると壊せるバイアスが少なく(=小さく)なってしまう。

 濱口さんの理論で考えれば、そもそも「ウェブ小説」という媒体レベルでもっとバイアスを破壊することを考えるのが向いていると思うんです。たとえば、現段階でも小説家になろう内では様々バイアスがあると思うけれども、そもそもあのHPに掲載しないとか(笑)、そういう手のほうが効果は高い気がする。当然「なろう小説とは、小説家になろうに掲載されている小説のこと」という思い込み=バイアスがあるので、その前提を崩したほうが効果が大きいでしょう。

 けど、たぶん一般的には、そういったルールを守った上で成功したいという人のほうが多そうな気がします(自分はあんまり気にしないですが、というか気にしなくなりましたが、たぶんそういう人のほうが多いでしょう。たぶん)。

  というわけでこれはまだ仮説ですけど、狭いフィールドでの成功を目指すほうが却って難しい(=偶然性に強く左右される)のかもしれません。これについてはまだまだ研究中といった感じです。

 

共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 えー、やっと最近学んだことの二つ目に移れるんですが(笑)。

 濱口さんの理論を知った時に気にかかっていたことが実は一つあったんです。「その手があったかーー!」と膝は打ったものの、微妙に喉に骨が引っかかってる的な? そういう感じが。

 その一つが「共通無意識」というものの存在でした。あるいはそれは「時代の空気」とか言われたり、みんなが「薄々感じていたこと」と呼ばれたりします。小室哲哉さんの項で触れた「波」についても同質のものでしょう。濱口さんの理論(ネット上に掲載されているもの)だけでは、その点について取りこぼしてしまうような、あるいは、拾いきれていないような、そんな気がしていたんです。

 気になっていたのは、それが非常に重要なことのように思えてならなかったからです。だってヒットメーカーは異口同音にいうんですよね。時代の波に乗った的なことを。そしてそれは一消費者としてもそんな感じはわからないでもないんですよ。たしかに「そういうもの」はあるだろうという実感はあった。たとえば、以下のインタビュー記事でも触れられています。

diamond.jp

 川村元気さんといえば、新海誠監督の『君の名は』のプロデューサーを勤めたことで有名になりました。その他にも自身も小説を書かれており、それが映画化されたりなど自分自身もヒットメーカーであることが非常に興味深い方です。

 上記のインタビューでは『「ポストの上のクマ」を探している』という言及があります。みんなが気になっているんだけど、なかなか言い出せずにいたこと=クマ、そういうものを探すということですね。

 これはさっき述べた「時代の波」だったり「共通無意識」だったりと同質のものであろうことは、読んだときにすぐにわかりました。日本のヒットメーカーに多いんですよね、これを言う方は。というか国内でしか見たことない気もしますが。そしてこれが重要だというのは感覚的にわかる。

 ちょっと前に『僕は友だちが少ない』というライトノベルがありましたが、僕の感覚からするとこのラノベもうまく共通無意識を汲み取ったものだと思うんですよね。何よりタイトルが秀逸だった。「僕は友だちが少ない」と聞いて「俺も少ない!!!!!!!!!!!!!!!!!!」ってつい思ってしまったし(笑)、そう感じる人はけっこう多かったと思うんですよ。みんななんとなく思っていた点をうまくすくい取っていたと感じます。

 そういうわけで、以前から「ポスト上のクマ」は僕も気になっていたんです。だけど濱口さんの理論ではそこに触れない。どうしてなんだろう? というのはずっと気になっていたんです。結論からいえば、やはり関係はあったわけですが。

 それはつまり、バイアスの特定にポイントがありました。端的にいえば、共通無意識にあるバイアスをこそ壊すべきだったんです。

 すでに述べたように、僕は定期的に濱口さんの記事を読み返すんですが(笑)、そこで見逃していた(というか当時は重要性に気づけていなかった)のは、バイアスというのはただ壊せばいいというものではなくて、ボトルネックになっているバイアスを壊すべきだと言っているんです。

 ボトルネックとは、つまりまあ「不満」とかってことですよね。川村元気さんは共通無意識としてすくい上げたものに「恋愛感情が喪失していくこと」を上げていましたが、これも見事だと思うんですよ。これってまさに「僕は友だちが少ない」というのとまったく同質の社会構造から引き出される、共通的な事象ですよね(他人との関係が希薄になってしまう都市社会が抱える固有の問題。村上春樹が売れるのと一緒)。うまいこと世の中の人達が抱えている不満、意識できていない問題を拾い上げている。

 もう一つ、ボトルネックとなっているバイアスを壊した例として、最近遊びすぎて辛いゲームである『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』を挙げたいと思います。

 このゲーム死ぬほど最高なんですが、何が良いって、従来のオープンワールドゲームが抱えていた(=ボトルネックとなっていた)問題を解決している点にあります。要点は2つ。「従来のオープンワールドに比べても更に世界が広い」そして「どこでも行けると言っておきつつ、実際には意外といけるとこ少ないじゃん問題を解決している」という点です。いや他にもいいとこめちゃくちゃいっぱいあるんですが、とりあえずこの2つで(笑)。

  それまでのオープンワールドゲーって、たしかに世の中に出始めた当時は「うわーーーどこまでも行けて広いなあ!」と感心したものでしたが、それも数年以上が流れて、ちょっと遊べば意外と簡単に端から端までいけちゃうことに気がつくんですよね(笑)。せいぜい一時間も走れば、世界の端から端までいける。それに馴れてくると「やっぱりゲーム内の世界か……」と思ってしまうのですが、その点ゼルダは、今の最先端のオープンワールドとくらべても更に数倍以上世界が広い。端から端まで、徒歩で移動しようと思ったら本気で1日がかりになってしまう。しかも途中で大量のイベントも発生するから、ますます広く感じる。その「本当に世界は広いんだ!」という感覚をふたたび再現させた点に、最新ゼルダの凄みがあります。

 そして何よりもう一つが「本当の意味でほぼ全ての箇所に行ける」ということ。これは実際にゲームを遊べば一発で分かることですが、これまでのオープンワールドは「この広い世界のどこにでもいける!」とか言っておきつつ、家の屋根の上とか、山の頂点とか、意外といけないとこばっかりなんですよね。だけどブレスオブザワイルドは、本当にどこにでも行けてしまう。つまりオープンワールドって言っても、山の上とか海の上とか行けないところばっかりなんだよな」という、ユーザが抱えていた無意識的な不満=ボトルネックを見事に解決している。前者よりむしろこっちの方が重要かもしれません。初めてこのゲームを遊んだ人間にとっては、いや、コアゲーマーほどバイアスが強い分衝撃的だったはずです。

 以上のように、濱口イノベーション理論と共通無意識の問題は、実は矛盾しない。それどころか積極的に意識すべきだという点が、僕にとっては重要な発見でした。これまでの企画でも、わかっておらずそこが失敗している点はたくさんありましたとも……。

 これは余談ですが、僕が企画していたオリジナル作品で「レトロミライ/シンギュラリティ」というのがあって、プレビュー版として作ってもいたのですが、これは江戸時代という過去と、遠未来という概念について、通常ならば別個のジャンルとして普通は考える(=バイアス)ものを、融合させてバイアスを壊そうという目的で企画したものでした。が、別個のジャンルになっていることが共通的な問題=ボトルネックになっているわけではないな、と気がついてしまい、なるほどこれは(全くダメというわけでもないのでしょうが)企画としては良くないな……と思い至った次第でした。企画作るのやっぱり難しいです……けどまあいい勉強になりました。これはこれでポジティブに受け止めたいと思います。

 

★この記事のまとめ★

  ちょっと長くなりすぎましたね……(約一万五千字のようです)。

 というわけでこんな感じが、今の自分の企画作りの研究成果といったところです。色々と進展はあったのですが、確実にヒットできるような手管については、作品外のマーケティング要素について理解を深めたり、スキルとしてバイアスの軸を取り出す腕を磨いたりなど、まだまだ鍛えるべき点は多そうです。

 他にも濱口さん自身もまだ研究段階にあるらしいプロダクトやメーカー自身の背景にある「ストーリー」についても、学んでいるところです。学ぶことがあるというのは、楽しいですね。小説を作ることだけでもまだまだ頂点は遠いですが、楽しいこといっぱいあるな~~~って感じです。

 では長すぎてごめんねということで、おさらばなのです。

  以上、橋本しのぶでした。 ってなんかあとがきみたくなってしまった(笑)。

 

 

ユーザー許容の点から見た『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』の比較

先日『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』をクリアしました。それと一緒に『ゲンロン0』を読み終えたのですが、それらを統合して色々と思うところがあったので記事にしています。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

 

 

 えー、『ニューダンガンロンパV3』については単純に「面白かった」と述べるのはやや抵抗があるのですが、『ニーア・オートマタ』については非常に面白かった……というか、興味深かったです。この両作品に共通しているのは、どちらも受け手に対して倫理的な態度を求めている、ということです。

 ちょうど先日、奈須きのこさんが竹箒日記で両作品に言及していました。

思えば昨年から「ユーザーに娯楽との接し方を問いかける」作品が多く出てきたと思います。
大衆の総意と自己の正義を対決させた『P5』、
『娯楽』を楽しむ事の露悪的な本質と、その先にある救いと意味を描ききった『ニューダンガンロンパV3』、
虚構であれ、物語中に生まれた知性の容認と、物語を変革する為にはこれほどの覚悟が必要なのだと叩きつけてきた『ニーア・オートマタ』。

http://www.typemoon.org/bbb/diary/log/201703.html

  本記事は「そもそもなんでそんな傾向(=ユーザーに倫理的態度を求める)が出てきたのか?」について自分なりに考えたことをメモしておくためのものです。当然のようにネタバレしますので、気にするかたはリターンしてくださいね(注意勧告)。

 まずは『ニューダンガンロンパV3』(以下V3で省略)について簡単にまとめておきますと、本作は『ダンガンロンパ』『スーパーダンガンロンパ2』『絶対絶望少女』に連なるシリーズ最新作として先日リリースされたものですが、内容は16人のコロシアイ(殺し合い)を強いられる生徒たちが、そのコロシアイ=バトルロイヤルに巻き込まれつつも、そのルール自体に逆らうために閉鎖環境の謎を解き明かしていくというもの。結果として明らかになるのが、

「このコロシアイ自体がエンターテイメントとして世界中に放映される番組だった」

「参加者である各キャラクターたちは記憶を失っているが、全員自らの意志でそのコロシアイゲームに参加しており、コロシアイゲームの一員となって番組に参加することに憧れている(つまり過去作とは違い、各キャラクターたちは超高校級でもなんでもないただの一般人)」

 ……というもの。

 シナリオとしては非常に優れています。作中のコロシアイはやがて暴かれていきますが、途中で自分たちがただの超高校級でもなんでもないただのパンピーだと気づいた各キャラクターたちは、アイデンティティ・クライシスを引き起こします。記憶を上書きされ、仲間たちと一緒にコロシアイを避けるために営まれたキャラクター同士の掛け合いややりとりが、ただの偽りのものでしかない、と暴かれるわけです。

 作中でひどい殺し合いが行われるので、「こんなコロシアイは間違っている!」とキャラクターたちはさんざん主張するのですが、そのコロシアイ自体はかつて記憶を失う前に自分の意志で参加を決めたものだった、というのが明かされてしまうため、強い自己矛盾を引き起こすんですね。そして何より、それらのコロシアイゲーム・番組を見物する「観客」は、イコール、ゲームを進めるプレイヤーと完全に一致する。

 最終的に各キャラクターたちは「こんなひどい殺し合いゲームを、エンターテイメントとして消費する態度それ自体が間違っている!!」とごもっともな主張をして観客を強く否定し、コロシアイゲーム自体を『台無し』にすることで物語を終えるのですが、ここで重要なのは、この作中キャラクターたちから「観客」に向けられる批判は、そのままゲームプレイヤーへの批判とまったく同じく通用するものなのですね。

 つまり『V3』の主張は、ゲームプレイヤーへの倫理的態度への批判そのものといっていい。

 こんなコロシアイゲームを愉しむこと自体がおかしい。こんな人の死に様を鑑賞する態度は間違っているじゃないか。そんな主張を、薄っぺらなその場のキャラクターを強要された作中人物たちは、こちらを糾弾してきます。

 しかも『V3』の巧みさは、全6チャプターで構成されるシナリオと、導入である第1チャプターがまったく同じテーマの反復になっている点でしょう。第1チャプターではコロシアイゲームの真実こそ明かされませんが、主張したいメッセージ自体はまったく同じものです。すなわち、ゲームプレイヤーが持つ倫理的態度への攻撃です。

 それもそのはず、『V3』チャプター1ではお馴染みの殺人事件が引き起こされますが、その殺人犯はゲームの視点キャラクター……つまりプレイヤーの代替人物・操作する人物である主人公だと思われていた赤松楓なんですね

 第1チャプターからすでに、つまり自分は観客だと思い安心しきっているプレイヤーに対する攻撃は始まっているわけです。「お前こそが犯人なんだ」「お前が殺した(殺させた)んだ」とそう言いたいかのように。これはミステリにおける叙述トリックとしても優れていますが、何より全体のメッセージを予め匂わせる秀逸な導入としても機能しています。(ちなみに赤松楓ちゃん非常に良いキャラクターで、しかも後に主人公役を譲る最原くんとの関係が非常に良かっただけに、ここで犯人となって物語から退場したことで自分のテンションは半分以下に落ちました。ある意味で正しく演出効果を受け取っている…)

 さて、過去においてこの手の「観客への攻撃」の形式を取ったフィクションは存在していました。

 もっとも有名な例でいえば当然TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』が挙げられるでしょうし、その他にも『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』など、最終的にエンターテイメントとして消費している観客それ自体を批判するような作品として比較できると思われます。

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  『V3』は、手法的にはこれらの作品と系譜的に連なるものと見ていい。本作におけるプレイヤーの攻撃手法は、正直さして目新しいものではありません。むしろ使い古された手法ですらある。特に「視点キャラクターが犯人」というミステリは挙げればきりがないほど存在するでしょうし、たとえばバトルロイヤルがエンターテイメントとして消費されるというモチーフが、さして新しいとは思いません。悪くいってしまえば、これらは非常に「古臭い」。

  ただ、だからといって自分は、本作をただたんに「古いからダメ」などというつもりはありません。問題は「何故今になってそんな形式を求めたのか?」ということです。

 参考例をあげた通り『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』は90年代末頃の作品です。これらは自意識の肥大化が招いたがゆえ、自分が誰かに見られているのではないか(他者の視線の内面化)という疑念ゆえに求められた作品形式だと捉えています。

 まあそれが本当かどうかはさておき(へたれ)、ひとまず当時はそういうものだった認識しており、ようするに私は「わざわざ今やることなのか……?」と、ゲームをクリアした時は不思議でしょうがなかったんですね。だってそんなの、十数年前にもうみんな通り過ぎたことなんじゃないの? と。

 ですがここまでやったわけですから……『V3』のこのシナリオは、相当入念な、強い執念がなければ成し遂げられない強度を持っています。これはゲームをやった人間にしかわからないものがあるでしょうが、壮絶かつものすごい執念によって『V3』は「お前ら=プレイヤーは間違っている!!!!!!」と主張してくるんですよ。これはちょっとやそっとのことじゃ書けないと思うんです。

 そこには何かしらの背景があるはずだ、と思いつつも、なかなかそれを納得する道筋がわからなかったわけです。

 先に結論を先取りすると、この答えは『ゲンロン0』で説明されたように感じました。つまり、『V3』のこの主張は、二次創作における受容のされかたを受けた結果なのではないか? 製作サイドの「うんざり」が招いた結果なのではないか? と。

 ダンガンロンパシリーズというのは非常に二次創作が活況な作品です。(でした?)というか私自身、『スーパーダンガンロンパ2』の二次創作小説を書いたくらいで、それは基本的には製作サイドにとっては良いことしかないと思っていました。そもそも今のコンテンツ製作は二次創作されることがツイッターなどのユーザ間で重要度を高めることに繋がるため、ほぼすべてのフィクションがそこを折込済で狙ってくるものだと思うんですよ。

 だからわからなかったけど、案外製作サイドとしても、それはフラストレーションのたまることでもあったのかもしれません(考えてみれば当たり前のことではありますが)。だからこそ「観光客」=身勝手にキャラクター性の書き換えまでも行いゆるく消費し続けるユーザたちに怒りを感じてしまったのかもしれません。実態としてどうなのかは作者にしかわかりませんが。

 でもね……やっぱり『V3』の態度は、間違っていると思います。いや、あるいは、言いたいことがあるにしても、きっとその伝え方を間違っていたのだと思います。

 誤解はして欲しくないのですが、一人のクリエイターが作った作品としての『V3』はとても素晴らしいものだと思います。メッセージの内容はともかく、あの完成度と出来は、真摯に創作に向き合った人間でなければ決して成し得ない。それは自分自身、創作をやっているからこそわかります。作品を書き上げるっていうのは簡単なことじゃないんです。そこに偽りは存在していないと思います。

 ただ作品は製作者の手を離れた時点で、製作者のものではないんですよ。そこから先はユーザーと共有して育てていくものになってしまう。手を離れた後に上書かれて怒るのは、気持ちとしては理解できるけど、正しい主張ではない。 

 というわけで、V3については全般的に否定的なスタンスを自分はとっています。だって、そうしたユーザーとの共生関係についても、上手く対応した製作サイドだって実際にあるんですから。……という具体例として、次の項目、ニーアオートマタについて触れたいと思います。

 

 ・『ニーア・オートマタ』の大人としての主張

 すでに記事が長くなりすぎているので、端折りつついきたいのですが、ニーアオートマタというのはちょこちょこと不出来な点も多かったなと思っているんですよ。なので、完全に肯定しているわけではない。だけど、それでも本作は良い作品だったな、と思うのは、作品を締めくくるエンディングが非常に素晴らしかったから。

 ニーアオートマタというのはポストアポカリプスで人間が消え失せ、アンドロイドが人類側の主流になった世界観でして、地球は宇宙からやってきたエイリアンが構築した機械生命体にほとんど占領されてしまっており、アンドロイド達(主人公たち)は地球奪還のための戦いを挑んでいる……というのが基本的なストーリーラインです。

 で、話が進むにつれて徐々に世界の全容が明らかになっていくんですが、どうやら既に「人間」は滅びてしまっており、アンドロイドしか残されていない。しかも機械生命体と同じコアを流用して創られたのがアンドロイドであり、戦っている相手とほとんど同じ存在だった。……ということが明かされます。つまり、主人公たちの死闘にはなんの意味もなかったことが暴かれていく(解体されていく)、というのが最大のテーマです。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

  そしてニーアオートマタでは、その暴かれたところ、で物語が終了してしまうんですね。つまり端的にいえばこの作品はいわゆる「バッドエンド」というやつで、シナリオ分岐こそあるものの、基本的な筋としてこれは変わらない。主人公の2Bや9Sは無意味さに晒されて苦悩したままアンドロイドとしての死を迎えます。

 この結末について、私は製作者たちの「美学」と捉えています。つまり、これが彼らのやりたかったことだということです。

 このエンディングがユーザー達にとってあまり喜ばしく受け取られないであろうことは明らかです。ユーザーは自分の分身である主人公の死を見たいわけじゃないと思うんですよ。もちろん見たい人、この美学に共感する人は一定数いると思うけれど、それは大多数ではない。大半の人は、バッドエンドは好ましくないと思っていると思います。それを理解した上で、この製作者たちは「これがやりたい!!」と思ったからこのエンディングを設定したんじゃないかなと思うわけですね。

 ただ、ニーアオートマタが興味深いのは、ゲームデザインによってこの「美学」と、ユーザの要望(バッドエンドじゃなくてハッピーなものが見たい)を共存させることに成功した点にあります。

 ニーアオートマタがシナリオ上の最後のエンディングを迎えると、スタッフロールが開始されるんですが、ここで主人公たちと一緒に行動していたポッドというサポートマシンみたいなやつが言い出すのです。「我々はこの結末を許容していいのだろうか?」と。ここでいう「我々」がユーザーを同時に指していることは明らかです。つまりゲーム側でユーザーに問いかけるんですね。「あなたはこのエンディングで満足ですか?」と。

 そこで満足しない、と答えると、ならば抵抗するがいいと更にゲームが継続されます。そして開始されるのがシューティングゲームなのですが、ここで非常に面白いのは、シューティングする標的=破壊する対象がスタッフ名になっている、というところなんですね。つまり「このゲームのエンディングに満足しないなら、このゲームを作った製作者たちを倒せ!!!」というメッセージが明らかに込められている。

 でまあ、このシューティングゲームは非常に難しいんですが、敵を倒しつづけて最後の方にいくと、東方のシューティングかよってくらいクリア不可能だろう、という弾幕を浴びせられます。そこで、PS4のネットワーク機能を利用して、更に他ユーザーからの支援(無限ライフと無敵性能と射撃強化という形)を募ることができます。ようは、このエンディングに満足できない他のユーザーと一緒に俺達を倒してくれ、ということ。

 このシューティングを終えると、更に追加でエンディングシーンが表示され、死んだはずの主人公たちは(アンドロイドなので)記憶は失っているけれども、この世界で蘇生して死を繰り返さないようになるんじゃないか?という希望が描かれて、物語が終了することになります。

 ただユーザー側にもリスクがないわけではない。物語を書き換えるということには強い覚悟が必要だ……ということで、このシューティングに挑んでクリアすれば、ゲームのセーブデータがすべて削除されると通告されます。数十時間掛けて遊んだ記録をすべて消す。そこまでの決意があって、初めて製作者と対等になれるんだぞ、と。

 でも、これは非常に成熟した態度だ、と思うんですよね。製作者は美学を貫いた。けれども、それに納得しない人もいることは理解している。なので、ゲームシステム・デザインの側でその想いを満たせるようにしようという仕組みになっているわけです。メッセージを押し付けるだけで終わらせていない。ユーザーを説教相手じゃなくて、対等な相手だと認めている。

 

・まとめ

 えー、まとめです。観光客の哲学についてさっぱり触れられなかったのですが、この記事を書き始めて2ヶ月放置してしまい、とりあえずまとめるだけでもまとめたいのでまとめます(乱暴)。(大人になれ?といっておきつつこの体たらく……)

 ここでずっと論じてきた「ニューダンガンロンパV3」についてもう一度振り返ってみると、作品に込められたメッセージを伝えるだけで(=押し付けるだけで)終わってしまっているように思えてならないんですよね。そのメッセージ自体は否定できるものではないけれど、単なる押しつけになってしまっている。それは本当にそれでいいのか?と私なんかは思ってしまうわけです。その点で、ニーアオートマタは優れたゲームデザインになっていて素晴らしいと思います。スタッフロールをシューティングゲームで破壊するというアイデアは本当に見事でした。

 V3がダメなわけではないんですが(というか非常に出来が良いくらいなんですが)、どうしても最後の倫理を求める態度というか、求め方自体に疑問を感じてしまうなあ……と。そういうことが言いたい記事だったのでした。ちゃんちゃん。

フィクションが「現実を拡張する」という画期的なコンセプト

 知人かつ友人の渡辺零さんが、コミックマーケット91で頒布する新刊同人小説『ordinary346』の告知をしました。

 彼が主催するサークル「渡辺書房」の同人小説は『電脳軍事探偵あきつ丸』を始めとして、コンセプトがいずれも非常に優れており興味深いのですが、前著の『宮本フレデリカさんのこと』から連なる今回の新刊は、殊更コンセプト的に非常に興味深いものがあります。個人的にもいろいろと発見があったので、思考をまとめるためにちょっと文章に起こそうと思い記事を書くに到りました。

 

・フィクションが現実を「拡張」する

  前回もそうですが、彼の企画で優れている点としてなるほどと膝を打つのは「フィクションが現実を拡張する」という概念を物語の世界に持ち込んでいる点だと思います。これはたとえばライトノベルの世界や漫画の世界でも、おそらくほとんど持ち込まれていない概念で、非常に画期的なコンセプトです。

 どういうことか簡単にまとめてみます。前作の『宮本フレデリカさんのこと』といい今回の新刊といい、加えて彼や彼の周囲が日頃からTwitterで呟いていることといい、共通しているのは、架空のキャラクターがあたかもこの現実に実際に存在しているかのように思考している、という点です。

 たとえば彼らはアイドルマスターシンデレラガールズに登場する少女たち・アイドルが、現実のテレビ番組――たとえば『「笑っていいとも」に出演してタモさんに恒例の「髪切った?」と聞かれた』だとか『オールナイトニッポン(ラジオ番組)でパーソナリティを勤めておりこんな話題を持ち出した』だとか、そんなふうに現実に宮本フレデリカだとか速水奏だとかが、実際にぼくらがいる世界に存在しているかのように想像力を働かせています。

 彼らがそんなことで与太話をしているのを横で眺めながら、当初は私も「はー、まあそんなことになってたらおもしろいよねー」くらいにしか考えていなかったのですが(※節穴)、その概念がインストールされてくるにつれ、なるほどこれは画期的なコンセプトだったんだなと理解できるようになってきました。端的に言えば、彼らはつまり「拡張現実(AR)」をフィクションで実現させている

 繰り返しますが、正直私はこのテーマで彼らがキャッフキャッフとはしゃぐ理由がさっぱりわかっていませんでした。概念のコアが理解できていなかったんですね。漠然とはわかっていたような気もしますが、そこまで面白いものか?と思っていた。ただこれが拡張現実的なものなのだと理解して初めて「あ、面白い!」と感じるようになりました。これまで漫画でも小説でも、そういった概念で構築されたフィクションはほとんど存在していないからです。

 

・IFではなくAR(たぶん)

  ポイントはこれは「IF(もしも~だったならば)とは違う」という点でしょう。もしこの世界に速水奏宮本フレデリカがいればどうなっていただろう? という発想で描かれているのではなく、彼らは事実として現実に宮本フレデリカがいるという前提でものを考えている。書いてて私も何をいっているのかさっぱりわかりませんが(笑)、でも、どうやら彼らがそういうふうに思考しているのだから仕方ない。

 「IF」というのは事実の組み換えですが、拡張現実=ARは文字通り、現実を広げるという概念です。彼らはこの世界を組み替えて架空のアイドルがいるということがしたいのではなく、この世界にアイドルがいたという世界に広げたいのです(たぶん)。説明がむずかしいところですが、おそらく明らかに「IF」を志向しているコンセプトではないと思います。

 二次創作にはさまざまなパターンが存在します。それはたとえばIFだとか、時間逆行だとか、関係だけにフォーカスしたものだとか、いろいろありますが、殆どは類型化できるものです。ただそのなかに「AR」っていうのはたぶんなかった。その点でも非常に画期的だと思います。

 

・文脈としての新規性

 

 概念としてはだいたい上記の通りだと思いますが(誤解している点もありそうですが)、これの何が新しいって、フィクションはフィクション、現実は現実、とぱっきりと二色に描かれていた世界が融合することを示しているからだと思うんですね。

 たぶんつぶさに見ていけば、そういうことを考えたフィクションはあったのだろうと思います。ただ、そもそも「アイドル」の文脈でそれをやろうとした例は非常に少なかっただろうことと、アイドルというものそれ自体の性質が、この「フィクションによるAR」と親和性が高かったことが大きいのでしょう。

 まあ一応付け加えておくと、そもそも『アイドルマスターシンデレラガールズ』自体が、SMAP中居正広がゲームに登場したり広告として出てきたりなど、元からそういった現実とフィクションの融合的志向を持っていたコンテンツだということもあって、さすがに彼がゼロから考えだしたコンセプトではないとは思いますが(※若干余計な一言感)。といっても、たぶんシンデレラガールズのほうはこのコンセプトを理解して展開しているコンテンツではない気がしますが。

 

・ハイコンテクストゆえの問題点

 この「フィクションによるAR」という概念自体は非常に新しいコンセプトだと思いますが、同時に問題点もあるといえるので、それについても触れておきます。端的にいえば、このコンセプトは非常に「わかりづらい」。

 渡辺さんがこの概念に気づき始めたのは1年前あたりからだと思いますが、私なんかはもとからアイドルものがそんな好きじゃないこともあって、概念をインストールするまでイコール1年かかっているわけですよね。友達のゆうやくんに小一時間説明されて、実際に『宮本フレデリカさんのこと』を軽く読んでみて、それでも一年掛かってるんだものw

 つまり、それだけハイコンテクスト(ようするにわかりづらい)な概念だということです。たぶん概念の核までちゃんと理解している人は現状そんなに多くないでしょう。理解されないということはつまり、多くの人に届かないということでもある。それがちょっと勿体無いなーと思ったりします。

 たとえばUSBメモリの話をしましょう。

 いまでは誰でもあたりまえに使うUSBメモリですが、これが開発される当初は、経営陣にコンセプトがさっぱり理解されなかったといわれています。当時はFTPをもちいてファイルをやりとりするのが一般的で、フロッピーディスクも存在し、わざわざUSBを使う理由が理解できなかったというのが理解まで時間がかかった大きな理由のようです。

 詳細は以下リンクから見るとよくわかりますが、この濱口秀司さんのUSBメモリの開発過程=イノベーションの実現過程は非常に面白いのでおすすめです。濱口秀司さんのイノベーションを「意図的に」設計する過程は創作でもなんでも、企画づくりにおいて非常に役立つ理論です。めっちゃべんり。

diamond.jp

 今ではもはや常識にさえなったUSBメモリですが(というかすでに古びつつありますが)、これが経営陣に理解されるまで「2日間必死に説明して、ようやくすごいと言ってもらえるところまで辿り着いた」そうです。この一例だけでも新しいコンセプトを受け入れられるのは簡単なことではないとわかりますよね。新しい概念というのは、それだけ理解するのが難しいんです。

  たとえばiPhoneとかもそうですよね。発表当時は何が騒ぎで何があたらしいのかよくわかりませんでした。一度触れば一発でわかりましたが、どれだけ説明されても、画期的かどうかは実際の手触りを含めて理解されるものなので、非常に受け入れられるのが難しい。

 「 フィクションによるAR」というのは非常にあたらしいコンセプトだと思うし、かなりの鉱脈だとも思います。が、更に一般化するにはもっと大きなところの手を借りないと難しい気がします(もっとも彼がそれを望んでいるのかはわかりませんが)。個人的にはせっかくいいコンセプトなんだから、もっと多くの人に認められ評価されるべきだと思いますが。

 出版社とかがうまく関われば最低でも十万部レベルで売れる企画になりうると個人的には思いますが、編集者はどう見ているのか気になるところです。……つっても、出版編集たちはどうも同人小説界にまったく興味関心を向けていないようですが。

 

(ネタバレなし)『ペルソナ5』クリア後感想

 

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

  ようやく『ペルソナ5』をクリアしたので、その感想を約7000字ほど……ちょっとだけ書きましたTwitterでもちょこちょこ書いてきましたが、総括してまとめる場が欲しかったので一つのテーマ「仲間づくり」という視点で整理した感想です。

 そもそも僕は、このゲームを始めるつもりはプレイ前はほとんど欠片も持っていなくて、『ペルソナ』というシリーズが人気であることなどはもちろん知っていたのですが「へー、シリーズ最新作が出るんだー」くらいのめちゃくちゃ軽い気持ちでした。

 正直「有名なゲームだし、そろそろ文脈を押さえるためにも、とりあえずDL購入だけして、他のゲーム(世界樹の迷宮5)をやりつつちょっとずつ遊ぶかな~(笑)」、と思っていたのですが、いざ購入してゲームを起動した結果、クリアまで(104時間)ひたすら遊ばされる羽目になるとは思いもしませんでした。ほんとなんなんだよこのゲーム……麻薬かよ……。

 ここまでどっぷりゲームの世界に浸ったのは本当に久しぶりの体験で、自分自身かなり驚きを感じながらここ二週間は、日常におけるすべての時間を費やしてプレイしていました。すばらしいゲーム体験でした。製作したアトラスには心からありがとうと言いたい気持ちです。

 

【自分にとってのRPG

 個人史的な話をまずしておくと、ぼくは非常にRPGというものが好きな人間でして。小中学生からゲームばかりしていた人間だったわけですが、遊ぶジャンルはもっぱらRPGでした。つっても、遊んでたのはFFだとかDQだとか有名どころがメインで、その他にも主要なものをちょこちょこ拾うような感じだったんですが、それでも間違いなく自分の青春期を形成してきた要素にはRPG(というかより正確にいうなら「JRPG」というヤツでしょうが)が関わってきていたわけです。

 なのでRPGに対してはそれなりに一家言あるというか、むしろJRPGが持つ特有の文脈には飽き飽きしていた部分もあったというか、ペルソナに対して遊ぶ前はそんなに期待していなかったというのもその辺にあったわけです。その辺の認識……というか不満点をペルソナ5はごそっと覆してくれました。この点には本当に拍手を贈りたいなーと、ゲームをクリアしたいま感じます。

 

【個人的なRPG文脈におけるペルソナ5】

 RPG文脈においてペルソナ5(というかペルソナシリーズ? 確実になったのはたぶんペルソナ4)が画期的だったのは、おそらく「チームビルディング」に関わる部分だと思うんですよね。チーム、というとちょっと大仰だけど、要するに「友達づくり」のことです。ここがペルソナは感心するくらい本当によく出来ていた。JRPGで個人的に一番かかえていた不満ってのはまさに「ココ」で、これがあまりにも不出来というかお粗末で、RPGから遠ざかっていったんですよ。

 そもそもなぜRPGの世界で友達づくりが重視されたのか、というとそれはマーケティング的な観点と社会的な観点のふたつが挙げられると思います。マーケティング的な視線でいうと「いろんなキャラクターを出しておけば、いろんなユーザーに対して訴求力を持たせることができる」ということ。社会的な視線でいうと「近代化した社会ではヨコの繋がり(=友達やらの薄い関係)が絶たれてしまう傾向があるため、共同体に属することが求められる」ということ。

 マーケティング的な話はわかりやすいですよね。要するに、クールなキャラとか熱血なキャラとか、美少女とかメガネっ娘とか、いろんな要素をひとつの作品内に詰め込んだ方がいいよって話。なぜならユーザな嗜好が多種多様になっているため、できるかぎり広い層を捉えるようにつくったほうが、結果(売上)に直結するから。その要求と「仲間づくり」っていうのは非常に相性が良いわけです。いろんなキャラクターを出すことに対して、合理的な理由を用意することができるから。

 社会的な観点での話もそんなむずかしいことじゃなくて、近現代の都市社会というのは本質的に人と人の繋がりが希薄になる傾向があります。これは感覚的に理解できることかと思いますが、この辺りの話は、宮台真司さんの著書(社会学系の話ですね)とかあたればわかることですかね。共同体が絶たれて核家族化の進行がすすんでしまうと、どんどん人との関わりが薄くなるっていう。なので、その社会構造からくる欲望にこたえるかたちとして「仲間づくり(共同体づくり)」は非常にマッチするわけです。

 というわけでマーケティング的な観点」「社会的な観点」から見たときに非常に「仲間づくり」の話は、そもそも現代ではウケやすいわけです(若干暴論気味)。

 これはいろんなフィクションでも採用されているものです。特撮とかでも「仮面ライダーフォーゼ」とかそんな感じの話だったし、まあ探せばいくらでもみつかる類型です(後述しますがフォーゼなんかはもろに問題発生させてましたが)。

 で……これに応えるためのフィクションとして、RPGは非常にマッチしていました。もともとRPGというヤツは、それ以前のTRPGからの文化をゲームに持ち込んだものだと理解していますが、TRPGが持つ「複数人でのごっこ遊び」というのが、RPG内で「パーティを組む」「チームをつくる」という要素に流れていったのだと思っています。初期ではドラクエがそうだったように、仲間をつくって遊ぶというのがRPGにおける重要なポイントだったと思います。いやまあざっくりとした理解ですが、だいたいそんな感じで理解していますよ、という話で。

 そんなわけでRPGでは「仲間づくり」という概念がジャンル内で発達していくことになり、それはFFやらDQやら、いろんなRPGで波及していくわけです。とりわけ「テイルズ」シリーズなんかはキャラクターをウリにしており、この辺りの要素を使って売ったゲームなんだろなー、と思っているんですが(それ以外にももちろんあるでしょうけど、ここでは無視)、「仲間づくり」概念が発達していくに従って、ユーザ側の要望や要求も厳しくなっていくわけです。というか僕の要求が厳しくなったわけです。

 特にテイルズシリーズを遊んでいた時に深く抱えていた不満で、僕はこれを「仲良しこよし問題」と呼んで唾棄しているのですが(なんじゃそら)、物語内でその仲間たちが話を進めていくに従って「仲間たちがいればそれだけでオッケー」感というか「仲間たちと一緒ならなんでもできるぜヒャッハー」感というか、もっといえば「そもそもお前ら仲間でもなんでもないだろ」感とか、そういう感じが漂ってくるんです。

 これはつまるところ「仲間づくり」バージョンでの「俺TUEEEEEE」だと思ってくれればよいでしょう。「仲間」であることの心地よさを強化し続けた結果、仲間であることのインフレが進み、「俺達ならなんでもできる!!!!!!」という感覚がすすんでしまうということです。で、これが極度化することで何がまずいのかというとようは「醒める」んですよ。

 「はあ……そりゃ仲間たちが大事かもしれんけどさ……」とか「ああ、はいはい。いつもどおりお前たち仲良しなのね、はいはい」という気持ちが、プレイ中にこみ上げてきてなんともやるせない気持ちになるわけです。

 特にテイルズなんかものすごくて、1作だけ遊ぶならまだともかく、シリーズをずっと続けて遊んでいると、同じことの繰り返しなので「お前らほんといいかげんにしろよ!!!!!!!!!!!!(激怒)」とどうしても思ってしまうわけですよ。テイルズシリーズは「ジアビス」までひととおり遊んでますが、この問題をうまく解決できている作品は皆無だったと思います。

 で、つまり何が言いたいのかというと、『ペルソナ5』はこの辺の僕が感じていた不満をほとんどについて見事に解決していた(!)ということなのです。

 

【ペルソナ5が取った「仲間づくり」問題の解決策】

 んでまあ、この「仲間すぎてけまらしい」問題への対処策は、ペルソナ5ではめちゃくちゃ全うというか「ド」がつくほどの正攻法だったわけですが。具体的に執り行った対処はパッと思いつく感じでは以下のふたつに大別されると思います。

<対処策>

・対処策①:キャラクターの実存を丁寧に描き、また強くユーザが共感してしまう過去などの設定を用意する(その為の「ペルソナ」という設定)。

・対処策②:「怪盗団」という太い一本の線(物語としての目的)を用意することで、キャラクターたちに強い共同体を形成させる。

・対処策③:ゲームシステム側(というかバトルシステム側)で「仲間」感を損なわないような工夫・対処

 もう、ほんとにめちゃくちゃなド直球です。これでもかってくらいに当たり前中の当たり前な対処です。一切奇をてらわない方法で、ペルソナ5は「仲間づくり」に取り組んでいました。

 ……でもね、これこそが一番重要で一番難しい部分なんですよ。ここの作り甘い作品はもうRPGで嫌になるほど見てきました。ペルソナ5はとにかく上記の対処策が、おどろくほどに丁寧でした。

 そもそもなんでユーザが遊んでて「こいつら仲良しすぎてけまらしい」って感じてしまうかっていうとね、単純にキャラクターのことが好きじゃないからなんですよ。魅力が足りないからなんですよ。たとえるならリア充たちが渋谷でヒャッハーしながら下品にゲラゲラ笑っているのを眺める」のに近い感覚でしょうか。

 テイルズにひたすら文句いうマンなのでテイルズを例にして文句を言いますが、要するに、せいぜいキャラクターデザインとしての魅力とかでしかキャラクターをアピールすることができていない話が多すぎなんですよ。キャラクターがなぜその世界で生きていて、何を目的にして生活していて、どんな苦しみを抱えているのか、というキャラクターを描く際に絶対に必要になるものに対する描写が甘いんです。描いていても、それが共感を誘うつくりになっていない。まあ大企業だと利害の調整でそういった部分が削られるってのはあるんでしょうがね。

 

【キャラクターの魅力を感じさせる手法】

「感情」から書く脚本術  心を奪って釘づけにする物語の書き方

「感情」から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方

 

 『感情から書く脚本術』なんかでも言及されていますが、受け手に対してキャラクターの魅力を感じてもらう手法っていうのは、ある程度確立されています。具体的にはパターンとしては以下の3つ。

1)「受け手に憧れさせるような造形にする」

2)「人間らしさのある魅力をもたせる」

3)「理不尽な目に遭わせて共感させる」

 というもの。

 1)はたとえば「銀河英雄伝説」に出てくるキャラクターなんかが良い例になるかなと思います。ラインハルトとか非の打ち所がない理想の君主であるわけですが、そのあまりの完全さに焦がれるような造形ですよね。ただ、もちろんそれだけじゃなくて、ところどころ2)のような人間的な魅力もだしたりしていますが(一夜を過ごしたあと、慌てて求婚しにいったりとか)。

 3)については、これは「判官贔屓」という言葉を考えていただければすぐに理解できることだと思います。ようするに人間が持つ生理的な機能として、弱者にたいしては共感してしまうわけです。あんまりにも酷い目にあっている人間を目の前にすると、人間は否応無しに肩を持ちたくなるわけですね(そういう人間的機能が壊れている人もいますがそれは例外)。

 『ペルソナ5』はこの3つの手法をどれも上手く組み合わせて使っていますが、特に強く効果的に利用しているのは、3)の「理不尽な目に遭わせる」というもの。作中にでてくるキャラクターは、ことごとく理不尽な運命に遭遇しています。

 主人公からしてまず、女性を助けたはずなのに相手が権力を傘に横暴を振りまく国会銀だったため、冤罪で高校生にして前歴持ちで都会に引っ越しさせられる、という目に遭っているし、その他のキャラクターも全員同様。おもわず「ひどい……」と言いたくなるような出来事に遭遇しているところから話が始まっている。(しかもその設定が「ペルソナ」の覚醒と設定的にも物語的にもつながっているところがめちゃくちゃ上手い!)

 この「理不尽さ」加減が強烈なので、プレイしてると否応無しに肩を持ちたくなってしまうんですよね。その上、RPG……というかゲームというものはそもそも「ただボタンを押すだけで」感情移入を誘うメディアなので、更にその感情が強化されるわけです。

 先日、元ジャンプ編集者であるトリシマさんのインタビューでもありましたが、「キャラクターが好きになると他人事じゃなくなる」んですよ。

news.denfaminicogamer.jp

 ほんのささいな出来事であっても、他人事じゃなくなるから、物語で起こることがものすごい出来事のように感じられる。『ペルソナ5』は本当にそれが実感できるゲームで、ちょっとした別れとか勇気をだした真実の吐露とか、ただそれだけで思わず涙ぐんでしまう。後半のね……双葉ちゃんのセリフとかもうね……もう涙声であんなこと言われたら泣いちゃいますよもう。まじで最高だった……。

 

【バトルシステム側における「仲間」感を損なわない工夫】

  対処策③の「バトルシステムによる「仲間」感を損なわないような工夫・対処」についても触れておくと、これもまた非常に「よく考えたな!」って感じなんですが、要するに「戦闘で要らないキャラクターがいない」。

 たとえばテイルズでもFFでもDQでもぜんぶそうですが、基本的に戦闘でつかうキャラクターってのは、基本的に最初から最後まで、クリアするまでずっと固定することになると思うんですよね。なぜかというと、使い慣れたキャラクターで戦ったほうが強い敵にも勝ちやすかったり、そもそも戦闘に出していないサブキャラクターには経験値が入らずメインキャラとの間にレベル格差が生じてしまうため、強い敵と戦うには使い続けたキャラクターを使わざるを得ないという理由があったりします。その他にもそもそも各キャラクター間の差別化があまりなされていないので、単純に好きなキャラクターだけを使って、他のキャラクターを使わなければそれで済む、というシステム側での問題があります。

 その結果、どんな問題が起こるかというと、シナリオ中では「みんな仲良し!」なのに、戦闘では明らかに「役立たずキャラ」が存在するという、システムとシナリオの乖離が発生する。そうなるといくらキャラクターたちが「俺達は仲間だ!!!!!!!!!!」とか強弁していても、プレイヤーは「いやこいつ戦闘に出してもただのお荷物じゃねーか」と醒めた気持ちになってしまうわけです。ここが個人的にはめちゃくちゃ不満だった。

 ……で『ペルソナ』はこの3つの問題(「使い慣れたキャラのほうが強い」「レベル格差が生じてしまう」「キャラクター間に差別化がない」)をすべて解決しているんですよね。

 具体的には、いわゆる戦闘における属性(火とか水とか風とか)を沢山用意し、各キャラクターに配置することでその問題を解決している。ただそれだけなら他のRPGでもやってることなんですが、戦闘で弱点属性を突くことが非常に重く意味づけられているバトルシステムなので、弱点属性を突かれればめちゃくちゃ不利になるし、逆に敵の弱点属性を突けばめちゃくちゃ有利になる。

 なので、積極的に敵の属性にあわせてサブキャラクターとメインキャラクターを入れ替えていかないと、常に苦しい戦いを強いられることになる(いわゆる縛りプレイになってしまう)。その結果、どうなるかというと、頻繁に戦闘キャラクターを入れ替えることになる。

  しかもサブキャラクターにもちゃんと経験値が入るようになっているし、話を進めれば戦闘中にメンバーの入れ替えもできるようになるため、むしろキャラを入れ替えたほうが戦闘が楽になるし、積極的に入れ替えたほうが楽しいんです。終盤になれば、弱点を突いたり突かれたりで相当シビアな戦いを強いられることになるし、一筋縄で攻略できずいろいろ頭を使うことになるわけで、それもまた非常に楽しくて……いやほんとに見事でした。

 あと、これはネタバレなので言えませんが、しかもその属性をうまく利用してシナリオにミスリード仕掛けてたりとかホントもうね……何なの????やりすぎでしょ?????って感じです。

 

【まとめ】 

 以上は「仲間づくり」という視点で『ペルソナ5』めっちゃよく出来てた面白かった!!!!!というお話なのですが、その他にも良い点はほんとうにたくさんありました。何にしても『ペルソナ5』を遊んでみてとにかく感心したのは、作中に登場する要素がすべて有機的に関連しているという点です。

 日常のイベントもめちゃくちゃ楽しかったし、コープランク上げれば戦闘が楽になったりとか、シナリオの水準でも「怪盗団」であることの必然性がすごく伝わってくるんですよ。いやほんとよくここまで練り込んだもんです。製作に8年くらい掛かったみたいですが、ものすごい執念ですね。ドン引きですよ。

 とにかく百時間かかるくらい長いゲームなんですが、脚本レベルでも最後までプレイさせる工夫が仕掛けられている点も良かった。ゲーム冒頭で主人公は捕らえられて、拘置所で取り調べをうけながら怪盗団が行った事件を回想するという形の展開なのですが、これによって少なくともその時間軸に追いつくまでにずっとプレイヤーが飽きないような構成になっているわけです(実際そこに追いつくまで70時間くらいかかる)。しかも追いついてからがますます怒涛の展開になっていて、そこまで辿り着いたらもうクリアまで行くしかないという感じで……。

 話の落ちについても素晴らしくて、この設定だと「ペルソナの力を最終的に失うことになる」という落ちにするのは絶対必要なことなんですが(でなければ主人公たちだけが異世界に行けるという特権的な地位に有り続ける=腐敗した大人たちになってしまうという構造になり、シナリオ的矛盾が発生する)、その収拾のさせかたがとても納得できるもので、最高に爽やかだった……。最高です。

 なんか最後は話が散漫になりましたが、ネタバレにならない範囲で自分はプレイしたところこういう感想を得ました、という話でした。ペルソナの名前自体は聞いていましたが、いやはや、まさかここまで傑作だとは思わなかったです。青年期の頃にもどったみたいに貪るようにゲームをするという経験ができて、本当に嬉しかったですね。

 というわけで、みんなもマジで遊んでくれよな!!!!!!!!!!!!(ダイレクトマーケティング

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

 

ダンガンロンパ3未来編・絶望編・希望編の総括した感想

 ダンガンロンパ3「未来編」「絶望編」「希望編」について。

 当然ながらネタバレありの感想。全話視聴した結果としては、残念な出来になってしまったな、というのが偽らざる率直な気持ち。

 仮に点数をつければ、ダンガンロンパが87点、スーパーダンガンロンパ2が96点、絶対絶望少女が91点、とするとアニメシリーズのダンガンロンパ3は62点くらい。総じて出来はよくなかったと思います(絶望編の序盤除く)。

 シリーズ全体の構成として小高和剛さんが参加したことで、全体としては見た時に要所のつくりはそれほど悪くなかったとも思うのですが、だからこそ最終話まで視聴したともいえるし、すべての場面を小高さんが作り込まなかったからこそ、これだけ微妙な出来になってしまったともいえるように思います。

 ざっくりと整理すると以下の問題がある作品だと思う。

 

【物語の構造にかかわる問題】

・3で初登場したキャラクターが、自分達のダメダメ加減を晒すためだけに登場し、だめだめ加減を晒すだけで退場してしまった(後始末が1・2キャラに投げっぱなしになっている)ので、非常に後味が悪い。問題の類型的にはガンダムSEEDデスティニーに近い。特に逆蔵・宗方・雪染の三人はメインだけに重症。細かい演出ミスも多くて、逆蔵は特に「オレもお人好しだよな」とか、おまえそれはツッコミ待ちか!?という。ちなみに逆蔵が宗方のほうを好きだった、というのも本当に必要な設定なのかと考えると微妙と言わざるをえない。むしろ雪染を好きだったほうがストレートに心に訴えたと思うし、そうしても特に違和感なく成立する話になっている。しかも自分の保身のためだけに(=自分の恋を隠すためだけに)、江ノ島盾子の正体を伝えなかったというのは、もうまったく擁護できない設定になってしまっていて、ひたすらに後味がわるい。

・2のキャラクターたちが絶望落ちする原因であり、世界中を絶望に落とさせた原因でもあるものとして用意された「絶望ビデオ」の存在によって、2のキャラたちが「もともと絶望的なものに染まる資質があった」というキャラクター性が、実はそうではなかったと書き換えられてしまっている。これは2のキャラクターが好きだった人間にとってはストレス。「2って一体なんだったの?」と思われても無理はない。というか思った。リアリティバランス的にも「絶望ビデオ」で世界中を洗脳したというのは、けっこうギリギリアウトっぽい。

・御手洗亮太を説得するのが、同じ77期生である2のキャラクターたちという構図自体は問題ないが、実際に御手洗亮太が77期生たちと触れ合っている描写が非常に少ないため説得力に欠ける。御手洗と直接接触があったのは、詐欺師と罪木蜜柑くらいで、日向に至っては初対面。これでは最終話の展開を納得させるのは厳しいと言わざるを得ない。

死ぬ死ぬ詐欺を繰り返しすぎ。朝日奈、霧切に加えて、七海についても死ぬ死ぬ詐欺を行っており、なんと一作中で3回も行っている。展開上、絶対に必要だったのは霧切響子だけだったと思う。朝日奈はやる必要なかったし、七海は死んだままのほうがまだ良かったかもしれない。それどころか、2のキャラクターはほぼ全員蘇生しているわけで……。いくらなんでもやりすぎ。朝日奈を死んだと見せかけたのは、後に霧切が死んだと見せかけたことに対して「いくらなんでも2回も死ぬ死ぬ詐欺をすることはないだろう……」と読者に感じさせ、本当に死んだのかと考えさせるためだろうけど、それは上手くいったのが半分と、失敗したのが半分だったと思う。最後に2のキャラを復活させさえしなければなあ……。

・未来編序盤はバトルシーンが続くが、べつにダンガンロンパにバトルシーンなど誰も期待していない。しかも未来編で初登場したキャラ同士がバトルしていても、誰に対しても何の思い入れもないため、めちゃくちゃ「他人事」にしか感じず、面白さが皆無。

・宗方京介の掲げる「希望ヶ峰学園の改革」の実像がまったく説明されないため、彼の理想があまりにも薄っぺらく聞こえる。それに付随して、苗木誠も「キボウガーキボウガー」と繰り返すだけで、議論としての面白みにも欠けてしまっている。また、宗方の理想の具体論がないため、雪染と逆蔵が彼を慕う理由にもまったく共感できないため、ますます「他人事」化が促進されてしまっている。

・上記の不満足点に加えて、絶望編や未来編は途中からひたすらリョナ的展開が続き鬱屈としているため、カタルシスが上手く行っていないため、ますます不満足な状態に……。

 

【演出・表現にかかわる問題】

・ウリにすべき面白いポイントの演出がことごとく弱い。たとえば未来機関の建物が建物の地上にあるのではなく、地下(海面より下)にあるという物理トリックの演出なんかはあまりにも弱すぎる。小高さん的にはミステリーのトリックとして「えっ!?」と思わせたいのだろうし、何度も地上の建物像をみせてミスリードを誘ってもいるが、演出が貧弱なためまったく驚くことができない。おそらくこれは製作状況にも起因する問題で、スケジュール的な余裕のなさも関係していたと思う。

・その他にも、絶望ビデオに対する「希望ビデオ」の存在とか、日向のオッドアイ化についても、ただそこに「設定」があるだけの段取り的演出しかできておらず、その意味を強調することができていない。

・全体的に演出が貧弱。顔のアップばかりが続いて、いかにも「今製作がピンチです!!!!!!!」と伝わってくるアニメになっていたのはひたすら残念(しかも3~4話あたりからそうだったので、めちゃくちゃげんなりした)。

 

【まとめ】

 ただ、これだけ多数の問題を抱えまくっているにも関わらず、「それでも」なんだかんだで最後まで見させたのは、間違いなくシナリオの力があったからというのもまた事実だと思う。ふつうこれだけ問題があったら、途中で見るのをやめるもん。

 だから、その点は小高さんの功績だと思うけど、ダンガンロンパ1・2や絶対絶望少女をプレイしている身からすると、アニメがこの出来じゃあ、全然、まったく、物足りない……。彼なら間違いなくもっとやれたはずだと思うし、間違いなくやりたかったと思う。あんまりにもひどい出来だもの。まあ表では絶対に悔いを表明することはできないだろうけど、これで納得はできないだろう。あくまで推察だけどね。

 本作は「ダンガンロンパ」と「スーパーダンガンロンパ2」と「絶対絶望少女」と続いたシリーズを総括する完結作として作られたわけだけど、その最終作がこれだけ不完全燃焼感のある作品になってしまったのは、ただただ残念。

 小高和剛さんは「ダンガンロンパファンの手元に残したくなる究極のファンアイテム」を目指していたみたいだけれど(ツイッターでの言及より)、この出来では、むしろ消し去りたい過去といったほうがまだ的確になってしまっているのは本当に皮肉だと思う。絶望編の序盤あたりは本当に出来がよかっただけに尚更。

 思うに、小高和剛さんはやはりミステリー作家であるだけあって、ある特定のクローズドな環境のなかでの話づくりをさせると非常に優秀なのだけど、今作のようにマクロな論理的整合性を求められる、回収させる展開を作らせるとボロが出てしまう傾向があると思う。たぶんもともと伏線の回収はうまくない人なんじゃないか? と思う。2ですらいろいろと「それでいいのか」的投げっぱなし設定は多かったわけだし。

 本来ならそれをサポートするのが監督やその他スタッフの仕事だと思うんだけれど、生憎それはできていないと思うし、むしろおんぶにだっこになってしまっていたのが実情じゃないかと思う。はっきり言えば、岸監督にはちょっと手が余っていたと思う。

 ただ企画として毎週2話放送というのは、これまでにない体験だったし、悪くなかったのは間違いない。ただそれを確実なものにするだけの製作体制がなかったことや、実力が追いついていなかったことは、残念極まりない。

 もともとはダンガンロンパ1のアニメ化した時点で、アニメ用のオリジナルストーリーじゃないからあんな悲惨な出来になった⇒ならアニメ用の新規シナリオで!という流れだったと思うが、終わってみれば、結局アニメ用のシナリオでもだめじゃん!という形になってしまい、無情さがよりいっそう漂う結末になってしまったなと思う。この製作体制を用意したスタッフおよび監督はもっと責任を問われるべきだと思う。もちろん、小高さんのシナリオにも問題はあったけれどね。

 個人的な感想としていえば、2のキャラを軒並み復活させたのが一番印象が悪くて、一度起きてしまった過去をなかったことにするのってどうなの? という気持ちが強い。七海の復活の仕方=生きてるのか死んでるのか分からない、で(何もかもが上手くいくというわけではないように)バランスをとったつもりなんだろうけど、どんな形なのかがそもそも明示されていないので、バランスが取れていない。たぶんこれはもともとの演出意図がスタッフにちゃんと理解されていなかったのが問題だろうけど。そう考えるとますます暗澹たる気持ちになりますね……。(いちおう言っておくとぼくはスーダン2がシリーズのなかで一番好きで一番のファンで同人誌も作ってるくらいだからな!!!!!だからこそ安易に復活させんなよ!!!!!ってなるんだ!!!!)

 長くなったが、ダンガンロンパファンとしてはかなり残念だったなーというかんじで、小高さんにはこれを反省としてずっとゲーム作っててほしいなって思いました(ひどい)。アニメじゃだめだよ、やっぱり。ニューダンガンロンパV3はこうならないことを、一ファンとして切に願います。

「フィニクスフヴォースト 永久の過日を告ぐもの」感想

「フィニクスフヴォースト 永久の過日を告ぐもの」感想

【前書き】

基本的にメモであり、誰にでもわかるように書いてません。あとネタバレ普通にするので、未読の方は回れ右してください。よろしくお願いします。

【感想】

・基本的にはシリーズとおして、大変、すごく面白かったです。スワロウテイルシリーズは未読ですが、基本的には設定や世界観は無理なく構築できていたと思います。で、そういうコトをしてる人は皆無なので、そこにこの作品の価値があると思う。

・とはいえ全体を通して面白かったのは間違いないんだけど、こうしたらいいのになー、みたいなことはちょこちょこ思ったりも。ただ細かい話なんでどうでもいいっちゃいいかもしれない(あまりよく考えていない)。

・以下細かいツッコミが続くんですが、基本的に楽しく読んだという前提の上でかいているということは念頭に置いて頂きたい。楽しんで読みましたからね?(念押し)

・細かい気になる点といえば、たとえば具体的にいえば3巻の冒頭は、最初の80Pくらいより、朝霜と暁が一緒に登場するシーンから書いた方が良かったと思う。朝霜と響で1~2巻をかけて関係構築したはずなのに「響のことを何故か朝霜が忘れている」という引っ掛かりを作るシーンになっているので、ここでまず引き込んだほうが読みやすかったよね、とは思う。3巻が朝霜と響の関係性を題材にした話なので、最初のあたりが二人の前提となる関係性の説明や、1~2巻かけた世界全体の設定のおさらいなどをしていて、これは確かに必要なんだけど、それは朝霜暁を一緒にだして「!??!??!??!?!」みたいに感じさせてからでも遅くないと思う。とはいえこの辺は「創作におけるベターは何か」みたいな話でしかないので、著者の美学としてこの構成が良い!というのならそれはそれでいいのですが。ただ個人的には80Pあたりまでは「話がはじまらないな~~~……」という感じで、暁が出てきてから「おっ?」と身を乗り出す感じになったので、そのほうが良いんじゃないかなあと。

・楽しんで読みましたからね?(三度目)

・その他、3巻は世界にかかわる設定開陳が進むわけですが、暁の処遇というか処理については少し引っかかったというかこのままでオッケーなの?と気になった感じではありました。現状だと、暁は響から学園生活を聞かされて羨んでいたから、身代わりとして響を差し出しちゃった、ということだと思いますが、その動機というか根拠が「それじゃあ(響を身代わりにしても)しょうがないな……」と感じさせるものではないので、現状だと無垢なお姫様の罪を自覚したわがまま、でしかないように思います。実際には、おそらく暁にもどうしても学園生活を送りたいという強い願いがあったんでしょう。その辺の描写がもうちょっと事前になされておくと、あの暁の行動にも許容できる部分があったんじゃないかなと。そもそも暁は1~2巻を通してあまり描写の印象がつよく残っていないので、やはり今回だともうちょっとフォローが欲しかったかなあと。余談ですが似たような演出ミスを自分も一度過去にやらかしたことがあるので、この辺は編集とかのコメントを入れる立場の人間がいないと自覚するのは難しいのかもしれません。つまり作者のなかでは恐らく「暁がああいう行動を取らざるをえない必然性」があたまのなかに組み上がっていたのだけど、それが十全に読者にも共有されているかというとどうだろう、みたいな感じですね。(⇐額から血をだくだくと流しながらこの文章を書いている)

・楽しんで(略)

・朝霜やら学園の艦娘たちが響のことを忘れて、響のポジションに暁がすり替わっている、という構図自体は大変アツくて良かったと思います。えぐくて良いアイデア

・朝霜が響をたすけに行く、という行動自体は何の問題もなかったのだけど、その行動に対するリスクはもっとでかくするべきだったかもしれない、とは思いました。ただこれは好みの問題かもしれません。個人的に、キャラクターに行動の是非を問う、葛藤させる話が非常に好きなので、朝霜がもっと響を助けることが自分にとってマイナスなものでもあるとかだと良かったのかも(曖昧)。人間の感情を汲み取るのに一番手っ取り早い方法は比較させること(問いかけること)で、たとえば自分なら朝霜に対して「暁を殺せば響を助けられるけど、それでも響を助けるの?」とかそういう設問を用意するだろうなー、と読んでいて思いました。朝霜が助けにいくことそれ自体は何の問題もないんだけど、それをより輝かせるための演出の工夫があるともっと良かったかも、とかそういう感じです。ただ、現状でも色々な工夫を凝らしていることは読み取れるので、やはりこの辺はただの個人的嗜好かもしれません。とはいえ、マッマ暁と対話した際、響が目覚めたりする過程に朝霜は基本的に絡んでいないので(つまり朝霜がやってこなくても響はたぶん目覚めた)、もうちょい朝霜と響の関係を補強する一手があればなあとも思いました。朝霜響の関係でいうなら、「最後まで話を聞かない」「最後までいかないと話さない」あたりをもうちょっと上手く利用する感じ(予定?)だったのかな、という気もします。

・ここまでミクロ(人間の関係性の次元)の話ばかりでマクロ(国家や組織・世界の次元)の話を全然してないことに気がついたんですが、やはりマクロレベルの設定処理に追われて(というかそっちにより興味があったのかも)、こういう感じになったのかなーという気もしてきたので、やはり個人の趣味嗜好の話かも?とは書きながらちょっと思っています。

・とはいえマクロレベルの話でも、結局あのあとコードブルーってどうなっちゃったの? というか深海棲艦は結局残ったままというか妖精と起源が同じだから共存するぞ、みたいな感じなの? といいつつも現実的な脅威として深海棲艦は残り続けるのでは??? という若干の語り残しみたいなのは感じました(ちゃんと書いてて読み取ってないだけかもしれない)。

・各章ごとの著作引用文の最後が、パロディ元のスワロウテイルだったのはニヤリとしていいアイデアだと思いました(ああいうの好き)

・別に上で言ったことのバランス取るわけじゃないですが、文章のセンスは羨ましいなーと思うくらい。たとえば子鬼の描写とか、文章だけでもキモさが伝わってきてすごく良かったと思います。その他「あっ、これ俺は書けないわ~~~」っていう文がほんと多くて、描写がお上手で羨ましい限り。

・全体的にシリーズを通して、響以外のキャラクターを視点人物に据えることも多かったので、フィニクスフヴォースト自体が「響と暁」で閉じた世界になっていない所が良いと思います(これは以前にもTwitterで書いたこと)。これによって「世界があの二人だけのものではない」ってわかる(というかそう感じる)構成になってるのと、登場してくる漣や潮だったり、彼女にもそれぞれ物語があることがわかるので、群像劇に近い形になっているのが現状だと思います。ただ群像劇にしちゃうと物語がたためなくなるので、ギリギリの際のところで暁と響で物語を終わらせたんだろうなーと。ただ3巻が終わった現状でも実はあまり「フィニクスフヴォースト・シリーズがおわった」という感じはしないんですよね。たとえば磯風とか浜風って本筋とは一切関係ないのに出てくるから「彼らの人生はそれじゃあどうなったの?」という感じがある(著者にご挨拶した際「あと50Pたりない」とか言ってたのはそういうことなんじゃないかなという気がしますが)。なので、あのへんの子たちがどうなったんだろう? というのはまだ3巻のなかでは処理されないまま残っているのかなーと思います。なんでスピンオフとか書いたほうが世界が充実して良い作品になるんだろうなと。

・テーマ的な部分については、これはスワロウテイルからの引用・オマージュなんだろうなー、というところもあって特段なにかいうことはないかなという感じです。

・感覚的に、3巻はもっと物語が大きく広がるかなー、と思っていたので、思ったよりも小さめな物語で畳んだので、そこは少し意外でした。2巻時点で広げたポテンシャルを使いきってないようにも感じますが、著者のやりたいことが何か、という問題もあるので、そこをどうするかは非常に微妙かつ難しいところでもあります。

 

だいたいこんな感じですかね。

最初にも書きましたが基本的に非常に楽しめたシリーズでした。とくに総括することなく、終わります。何か思いついたらTwitterにも書きます。そんな感じ。