企画の立て方についてのメモ

■企画作りの方法論を求める経緯

 えー、僕は同人小説書きなわけですが、企画の作り方については人並みに(?)悩まされてきた方でして。

 企画作りっていうのは、なかなか難しいもんなんですよ。ここでいう「企画」とは、ざっくりと「どんな作品にするか?」くらいの意味です。小説を書くまえに「じゃあどんな話を作ろうかな?」と頭をひねらせるわけですが、なかなかどうしてどっかで見たことのある「あんまおもしろくない企画」ばかりが出来上がってしまう。ありふれたパクリばっかになってしまって。

 なのに色んなしがらみもあり、〆切りもあり、いまいちな企画でもとりあえず書き始めなきゃいけないということはままあります。だから結果として「あまりよくない企画だけど完成した作品」というのは、世の中にはわりとけっこうあるんだろうな、なんて思うんですけど。

 そんなふうに「あんまり良くない企画だ」と思いつつも、とりあえずいっぱい小説書いていればそのうち良い企画も作れるようになるだろ~ガハハ! と楽観的に考えていた時期もあったんですが、すでに十数本長編を完成させた経験からいって、そんなことはなかった(つらいですね)。

 こうした経験から得たのは、良い企画を作るためには、良い企画を作るための方法論をちゃんと学ばないとできるようにはならないのだ、というごく当たり前の知見です。愚者なので経験からしか学べませんでした。なんてこった。

 だけど一言言わせてもらえるなら、世の中には「良い企画」=人気が出る=需要がある企画を作る方法論は、特に物語製作についてはほぼまったくノウハウ化されていないと思うんですよね。これたぶん出し惜しみとかじゃなくて、本当にみんなよくわかってないんだと思う。単純にそういう学べる教材それ自体がない。

 だってさ……僕はこれでもけっこうな数の創作系の本を読みましたけど(「こうやってシナリオを作る!」みたいな本。ハリウッドのあれとか)、企画の作り方ってほとんど書かれてないんですよ。いや恨みつらみじゃなくて事実としてそうなんですって。本当にないの。正確にいえば、エッセンスとしてそういった「良い企画」につながりそうな要素が書かれていることはあるんだけど、それだけを理解しても決して良い企画にはなりえないというか。そういうのばっかりなんですよ。おこですよおこ。激おこぷんぷん丸です。いやまあ、そもそも企画作りというものが自由度が高い作業なのでメソッド化するのが難しいんでしょうけれど。

 根本的な(主語のデカイいっそ炎上してしまいそうな)話をすると、これって日本企業が抱える構造的な問題なんだと思います。日本企業って、以前から品質を高めることは得意だけど、「求められる製品」を作るのって苦手じゃないですか。箱庭的に一つの商品を性能はそのままでパワーアップすることは大得意だけど、まったく別の新しい価値を作るのは苦手というか。だからそもそも良い企画の作り方を理解できる人のほうが少ないんだろうと。(といっても、海外のシナリオ作法本とか読んでもダメなのはダメなので、あんまり関係ないかもですが)

 

イノベーションについて調べ始める

 話を戻して、そういうわけで既存の創作本を読む限りでは、良い企画を作るのは難しい!という限界を、かつて私は感じたわけです。なので視点をもっと広げて、ビジネスの世界で良い企画(良い製品)の作り方を探せば、何か使えるノウハウがあるのではないか???と当時の僕は考え始めました。

  いま振り返って考えてみれば、この考え方は正解だったと思います。たしかにビジネスの世界では「どんな話を作るか」よりも更に応用的な企画作りのノウハウが転がっていました。それもそのはずで、だいたいビジネスの世界だとサプライチェーンを考えれば明らかだと思いますが、モノを作るだけで完結するということはまずありえない。その商品をどんなふうに画期的なのか説明し、どんな風に流通させ、どんな風に客を囲い込むか……という戦略まで含めて考えなければ利益なんて出るはずもないからです。とくに現代においてはそう。

 「どんな話を作るか」だけでは考ええないことが大量にあり、その解法もまた幾らでも存在する。創作だけの視野狭窄なままではわからなかったことなので、ここは非常に正しいアプローチだったと自画自賛します(いえーい)。

 で、当時の自分が企画作りにおいて、何をまず調べ始めたのかというと、イノベーションについてでした。

  イノベーションってなんかカッコいい響きですよね。つよそうだし。なんかオサレ感あるじゃないですか。なので、いやっふーこれはもう勉強するしかないぞう! ……という、よこしまな理由だけで勉強したわけじゃないです(笑)。いやちょっとはあるけど。

 当時考えたのは、本当の意味で優れた製品なら当然それはイノベーションを引き起こすものだろう、と考えたから。当時はiPhoneとか出始めたばかりでしたし、それまでのケータイ文化からするとiPhoneって革命的だったじゃないですか。言葉にできなくとも画期的なことが直感的にわかるという。指でこう、すい~~~ってやるのかよすげー!みたいな。

 そういう背景もあって、とりあえずイノベーションについて勉強し始めたんですが……残念ながら、ここでもすぐに良いノウハウが得られたわけじゃありませんでした。ジョブズの本とか、他のイノベーションとはどう起こすのか?みたいな小難しい本も色々読んでみましたけど、読んだ感想としては「小難しい!!!!!!!!」というものをでなくて、果たして創作でそのまま使えるかというと、まあ使えないよねというものばかりでした。

 なぜそれらの本が使えないのか? 理由は明白で、それらはイノベーティブな案件の「条件」については記載されているけれど、ではどうやってそれらを作るのかについては記載されていないからです。

 つまりイノベーティブだった製品を結果から振り返って「こういうところが優れていたよね」と指摘しているだけで、ではそれらはどうやって引き起こすのか?というプロセスについては指摘できていないものばかりだったんです。あるいはジョブズの関連でいうなら、「こういう天才だから発想できた」みたいな、方法論として全く機能しないものばかりで、じゃあ結局どうやりゃいいんだよ!!!!!!!!!!という気持ちが蓄積するものばかりだったわけです。

 大概それらのイノベーション関連の書籍って、ではどうするのかという点については、ブレインストーミングとか既存のアイデア出しの方法論で「なんか頑張って」、イノベーティブな条件に達するまで粘る、くらいしか書かれていない。どう頑張りゃええねん。いや、それはそれで間違いではないと思うのですが、どうにも狐につままれたような気持ちは拭えません。頑張ればそれでいいの? 本当に? アイデアを出そうとするだけでイノベーティブなものが出来るの……? 良い企画って作れるものなの……? と。そんなふうに納得できないまま更に一年くらい経った気がします。

 

イノベーションの方法論について、だいぶ納得してくるの巻

  なんだかエッセイ?みたくなってきてしまいましたね。でも小説書きだからこういった文体になるのはある程度しかたないんです。ダラダラ書いて申し訳ないけれども、そもそも自分用のメモというのが第一の目的なので、その辺については勘弁願いたい。しっかり構成する苦労を味わうのは小説だけで十分なんで……。

 で。

 そんなわけで「イノベーションって本当にそんなんでできるの……?」と懐疑的な気持ちのまま日々を過ごしていたわけですが、青天の霹靂のごとく「あっ、これだ!」と思えるものを見つけることもできました。ブログやツイッターでもちょこちょこ言及したりしていますが、濱口秀司さんの提唱?するイノベーション関連の理論ですね。 

diamond.jp

 

  初めて目にしたのは↑の記事です。

 ちきりんさんとの対談中では具体的なイノベーションについての方法論は語っていないのですが、他の記事を見ればいろいろと言及があります。

logmi.jp

 この記事とか。 

diamond.jp

 以前も貼りましたけど、この記事とか。あとTEDのプレゼン動画とかも公開されており、そちらも非常におもしろかった。

 若干キモいレベルで濱口さんのネット上の記事を検索してまわっているので、ほぼ全ての発言について舐めるように見たのですが、それぞれ微妙に発言内容が変わっております。あと最近だとハーバードビジネスレビューにて「SHIFT」という連載記事を書かれているので、そちらも読んだりなどしています。

 んで。

 そこまで色々読むのは、これまで調べてきたイノベーション絡みの説明において、氏の説明がもっとも納得感が高かったからなんですよね。

 どの記事での言及だったかはわすれましたが、イノベーティブな発想というのは、ただのアイデア出しでは絶対に生まれないと断言しているんですよね。何故か? それは既存の思考法から生まれたアイデアは必ず思い込み(バイアス)に汚染されてしまっているので、本当の意味で画期的なものになりえないから。

 ようは、本当に画期的なものは、自分の頭のなかの「思い込み」を壊すことでしか達成できないので(考えてみれば当たり前なんですけど)、既存の思考フレームを使ってアイデアを出そうとしている段階で、そもそも既に思考に偏りが生まれているんだから、優れた発想=イノベーティブなアイデアが出るわけがないという。

 まあここで詳細を論じることに意味はないので、とりあえずそーゆーものだということで話を進めます。詳細は実際に彼の主張を見たほうがいいでしょうし。

 氏の主張は、僕にとってメタ視点でアイデア発想法それ自体にダメ出ししている点からいっても、非常に納得感の高いもので「なるほどな!!!!!」と膝を打ちました。その他の記事も面白いんですよね。初めてHBRに掲載された「デザイン思考を超えるデザイン思考」っていう記事なんか、デザイン思考なんかでイノベーション起こせるわけねーだろ(意訳)と真正面からバッサリ切って捨ててて、あまりのロックさにめちゃくちゃ笑いました。よほど自信がないとできないことです。(実際、その自信に見合うだけの、大量のイノベーションを引き起こしてきた実績が凄まじいのですが……勝率おそらく100%?)

 

■なんで単著出さないの?

 そういうわけで、より深くその方法論について知りたいと思い、ネット上の記事やら何やらを漁っていったわけなんですが……。

 そもそも、なんでネット記事なの? と。

 そもそも、書籍とかあるなら読めばいいじゃん? と。

 普通はそう思うじゃないですか。そりゃそうです。だけど、濱口秀司さんって驚くことに一冊も著作されていないみたいなんですよ(!)。読むべきものがネット上の記事しかない(笑)。なのでやむなくネット上の記事を読んだりしていました。不思議なのは、彼の著作を読みたいであろう人は明らかにかなり多そうで、恐らくは出版社も声を掛けていると思うのに、それでも待てども暮せども本が出てこないということ。なんでなんだろう? とずっと不思議だったのですが、先日Newspicksの有料記事を読んでやっとその謎は氷解しました。

 彼がそうした単著を書かないのは、ようは育成を考えてのことらしいんですね。私の言葉でざっくり説明しますが、彼がいうに育成には二種類あって「言語化できるもの」と「言語化できないもの」があると。直接「これこれこうやればいい」とマニュアルとして伝えるのは言語化できるもの。そしてその分野における文化や背景・文脈に関する知識やスキルは言語化できないものになる。で、育成にはこの両方が必要になる。

 学校の義務教育などは前者の「言語化できるもの」に相当します。書籍によって伝え記すものもこれに該当します。この方法のメリットは伝達効率が非常に良いことですが、デメリットとしては教えられる側(生徒)は、教える側(教師)を絶対に超えられないという点がある。

 対して、文化や背景についてべったり付き添って教える非言語的なものを伝える育成は、例として挙げるのは刀鍛冶だとか。刀匠は弟子入りしてもすぐに刀を打てるわけじゃなくて、最初のうちはただ見てるだけ、雑巾がけするだけ。それで10年くらいたってやっと「とりあえず一回鉄叩いてみる?」とようやくなる。刀鍛冶の文化を学んでから(つまり文脈や背景・師匠の抱える問題点などを予め分析しおえた状態から)始める。この方法のメリットは、学ぶ側が師匠を超える確率が高いという点。そして、デメリットは非常に時間が掛かるという点になります。

 濱口さんが本を出さないのはこれが理由のようです。つまり、自分を超える人材を育成しようと思ったら、べったりと教育させてはいけないのです。

 実際には、なかなか十年なんて待ってられないので、言語的なものと非言語的なものを上手く行き来しながら教えるようですが、そういう理由もあって、濱口さんは意図してすべての方法論を開陳することはしていないらしいんですね。自身の作業については完全に方法論として体系化を済ませているようですが、その理屈を一部のみしか公開していないと。

 ここで私はまた壁にあたったわけです。全部わかんないなら学びきってるわけじゃねーんです!???!??!??!(????)っていう。

 

■本当の方法論は自分で見つけなければならない

 いや、しかし濱口さんの仰ることは自分にとって、なにか伏線を回収された(笑)ような気持ちがありました。

 というのも、たしかに濱口さんの述べる方法論、理論はあくまで理論でしかなく、じゃあ具体的な、実践的な場で即座に使えるかというと、そうではないからなんです。なぜなら、その理論というのは実施者のスキルが伴って初めて有用なものであって、身についてなければ壁に書いたオモチと変わらないわけなんですよ。たとえば彼のイノベーションの方法でいけば、一度出したアイデアからバイアスとなる共通した「軸」を取り出すのが重要になります。ただ、それは非常に難しい。センスが必要になる。

 たとえば先に掲載したUSBメモリを開発した経緯についても、「物理的に持ち運び可能かどうか」という軸と、「データ容量の大小」を軸にとってバイアスを壊そうとしている。けれど、この軸を取り出すこと自体が訓練を経ないと(=非言語的なスキル習得を経ないと)非常に難しいんです。これは実際に自分自身でこの数年間、企画作りで同様の方法論を用いてチャレンジしてみてわかったこと。良い軸を出すのはなにか学習がないと(自分なりに腑に落ちる経験がないと)上手くできない。正直今もうまくできてるとは言い難いです。

 えー、というわけで。

 ここからようやく、最近の自分が学習したことについての記述になるわけですが(全日本前置き長すぎ太郎左衛門)、ここから先は氏の発言を分析しつつ、自分で手探りしていくしかなかったわけです。ただガイドラインはすでに貰っているわけなので、あとは自分なりに深めていけばいい。ちょっとずつ自分なりに理論を深めていこうというのがここ一年くらいの状況でした。

 それでわかった重要な点は、大まかに以下の2つです。 

  • 企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)
  • 共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 自分のなかで概念を整理するために書いているところがありますので、若干面倒なんですがひとつずつ書いていこうと思います。

 

■企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)

 必要でした(結論)。いや……なんかすごく当たり前の話ですが……。でもたぶん一般的に考えられているマーケやデザインとは微妙に異なる考えでもあると思いますが。

 まず自由度について書いておきたいのですが、自分は小説書きなので、そもそも濱口さんの理論についても漠然と「ビジネスの点はよくわかんけど、企画作りだけでも流用できればいいや~~(笑)」なんてお気楽に考えていたんですが、どうもそれだけでは上手くいかないらしいぞということがわかってきたんですね。

 というのも、小説というのも結局は一つのコンテンツに過ぎないわけで、それを読者に届けるところまで考えなければ作品は完結しないわけじゃないですか(本当か?)。そう考えると、当たり前だけど普通のビジネスとやることはなんら変わらんわけですよ。つまりその作品を「どんなふうに届けて」「(小説なりなんなりを通して)どんな体験をさせるか」まで考えなきゃ、小説を作ってるとはいえないのでは……?とかそういうことを考えはじめたわけです。

 しかも小説「だけ」考えていては、良い企画って、もし仮に作れたとしてもヒットできるほどになるかといえばならない確率は高いんですよね、というか高そうなんですよ。そもそもの話として「良い企画は必ずヒットする」というのは幻想であって、百パーセント的中するわけではないという前提があります。濱口さんの理論でも、できるのは的中率を「高める」ことであって、必中ではない。ただ企画を作る以外の部分でうまく差分を作っていく(導入させる=マーケティングさせる)ことで、的中率を必中に近いところまで高めていくことはできる……ということらしい。

 つまり何が言いたいかというと、少なくとも現在の世界においては、良い商品を作るだけでそれが商業的に成功が得られるかというと、全然まったくそんなことはないということです。ということは、もともと自分が考えていた「小説だし良い企画さえ作れればええじゃろ、ガハハ!」という考えはまったくもって間違いだということです。そもそもそんな考えは良い企画をつくったとはいえない。かなしい。

 すでにちょっと触れましたが、じゃあどうやって的中率を高めるのかというと、濱口さんの場合は幾つかの要素に狙いをつけて、それぞれで苦労して(?)的中率を高めているらしい。それが記事でいくつか触れている「ストーリー」や「デザイン」や「機能」、そして「社内マーケティング」「社外マーケティング」の部分らしい、ということまで関連性がわかってきました。

 前述した3つ(ストーリー・デザイン・機能)については、濱口さんの記事を見ればいいとして、マーケティングについてここでは触れておきたいと思います。また社内・社外の区分けは一旦おいておきます。

 そもそも、マーケティングとはなんぞや??????

 といわれて、けっこう昔の私(10年前くらい)はなんとなく「売れるための技術……???」と考えていたことを思い出します(上記でいえば社外に対応)。だってマーケティングってお客さんのことを調べて、そのお客さんが求めてるものを売るって仕組みのことを指してるんでしょ……だったらつまりそれって売れることじゃない……ねぇ、ミァハはどう思う……(?)と考えていたんです。

 が、これは間違いなのです。

 なのです、と断言しちゃうとやや不安ですが、自分はそういう理解をしています。自分の言葉で説明すると、マーケティングというのはある側面では「企業の延命技術」であり、そしてもっと本質的なことをいえば「導入」にすぎないのです。たぶん。思い切ったことを言っちゃったね。こわいよう。

 えー、昔聞いた話をします。人から聞いた話をそのまま話しているだけなので、真偽のほどは自分で判断してください&細部は間違ってる可能性が大なのでそこは理解してくださいね、という逃げ道を作ってから話します。というか書きます。

 とあるレコード会社の話です(たしかエイ◯ックスだったと思いますが違ったかもしれません)。仮にA社といっておきます。A社は一時期、マーケティングを使って音楽業界における地位向上・及び利益向上を目指したことがあったそうです。どうマーケティングを使ったのかというと、消費者の動向分析を行って「どんな曲がどんなタイミングで流行るのか」の調査を行ったらしいんですね。

 そこで明らかになったのは、例えばしっとりした曲調のバラードが流行ったあとは、今度はアップテンポのリズミカルな曲が流行り、そしてその後はふたたびしっとりしたバラードが来て、そしてその次はまたアップテンポの……といったような、曲調の流行り廃りの波のようなものが存在するということでした。一時期小室哲哉がヒットメーカーとして名を馳せましたが、彼がやっていたのと似たようなこと(というか同じ?)です。ようは次にどういう曲が売れるのかを分析し、更にそれに合致する曲を提供することで、売上を確保し、さらには市場を独占しようと試みたわけですね。

 このチャレンジの結果、A社は見事にヒット作を連発しました。

 出す曲が次々にヒットし、目論見通りに市場の売上は独占。マーケティングの作戦は大成功した……かのように見えました。しかし、結果として何が起こったのかというと、市場の縮小が起こったそうです。つまりたしかにヒット作はいっぱい出たんだけど、その代償として、自分が参加しているフィールド自体があっという間にしぼんでしまって、業界の総体的には売上が下がってしまったんです。マーケティングを駆使したはずなのに。結果として、A社の先行きの見通しは暗いものとなってしまったそうです。

 ……以上、実際にあったらしい話です。

 つまりこれが何を示唆しているのかというとマーケティングでは企業は成長することはできない」ということだと思うんですよね。これを知ったとき私はとてもびっくりしました。売れるための技術だと思っていたマーケティングでは、予測された売上しか出すことができない、単なる延命処置にすぎないってことなんですから。

 でも考えてみればわかるような気もします。たしかに日本のレコードメーカーって、定期的に「どこかで聞いたような、でも心地いい曲」って出してくるじゃないですか。なんとなくわかってくれると思いますけど。それを聞くたびに「ああ、いいなー」とはたしかに思うんだけども、同時になんか「飽きてる」のも感じるというか。たとえ次に何が欲しいのかがわかっても、消費者が飽きてしまうという状況は避け得ないということなんでしょうね。面白いですね。

 なお、この話にはもう少し続きがあって、こうした狙ってヒットを作る小室哲哉とミリオン連発は当たり前のミスターチルドレン桜井和寿さんが対談したことがあったらしくて(これだけでもうおもしろいんですが)、

 その時の話の噛み合わなさがすごかったそうです。小室さんが「ここをこうやって作ればヒットになりますよね」と理論から曲作りについて語っていたそうなのですが、そこで小室さんは桜井さんに聞いたそうです。「あなたの場合はどうやって作っているのですか?」と。すると桜井さんはこう答えたそうです「いや……なんか気持ちいい曲を……」と(笑)。

 初めてこの話を聞いたときはそらもう笑いました。ですがこの両者の比較で重要なのは、真にイノベーティブな企画は計算できないということです。桜井さんが素晴らしい曲を書くのは明らかですが、自身が「飽きて」いないことについても疑いの余地はありません。ようは、消費者が要求する「波」は定期的に繰り返すものだけれども、その「次の波」は「前回の波」とは異なっているということで、その計算は普通はできない。桜井さんはたぶん自身が消費者でもあるからなんでしょうけど、その次に欲しい「波」を感覚的に掴んで「気持ちいい」形として表現する才能に長けているということなのだと思います(余談ですが、そうした企画を作る人間=イノベーティブな企画を作れる人材には何が必要か? という観点から、更にその人物の持つ「狂気」が必要という話つながっていくのですが、それはまた機会があれば)

 話が盛大に逸れていますので、ちょっと路線を戻します。

 マーケティング(=小室さんのやったこと)は「企業の延命技術」にすぎないと言いいましたが、その意味はちょっとは伝わったでしょうか。すくなくとも僕はそう認識しているという話ですが。で、じゃあ企業ってどうやって成長するの?というとイノベーションを起こすことによって(=桜井さんのやったこと)成長するわけで、マーケティングとはつまり「次のイノベーションを起こすための場繋ぎ」でしかないんですね。そもそもだから僕はイノベーションについて調べ始めたわけなんですけども(以上、10年前の話でした)。

 そういうわけで、僕はこれまでけっこうマーケティング軽視をしてたというか、マーケティングを学んでも売れる企画なんて作れないんだ! 意味ないじゃん!! なんて思っていたんですけど、ここ最近その認識が少しずつ変わりつつあります。それが濱口さんの理論を経由したからなんですけれども。

 ようやくしたかった話に繋げられましたが、なぜ認識が変わってきつつあるかというと、マーケティングってつまり「導入」なんだなと理解できてきたからです。あるいは誘導といってもいいかもしれません。

 イノベーティブな企画はただそれだけで成功するか、という問いを立ててみましょう。その問いには「否」という答えが返ってくると思います。なぜならば、たとえばiPhoneは誰が見てもイノベーティブな製品ですが、それをたとえばアマゾンの未開の原住民に渡したところで、彼らはその有用性を理解できないでしょう。つまり、その製品がどれだけ有用だったとしても、それは「特定の消費者のゾーンのなかで」のことであって、必ずしもすべての人類に共通しているとは言えません(実際にどうなのかは製品次第なところがあると思います)。

  そういうわけで、良い企画を作ったとしてもただそれだけではいけない。それをユーザーに伝えるための導入が必要だ……ということで、濱口さんもマーケティングを重要視しておられるのではないかなーと考えたわけです。そういうわけで自分自身もこの二度目のパラダイムシフトによって、もう一度マーケティングについて見直さないといけないなと考えているのがここ最近の状況なのでした。(自分の同人誌についていえば、そういうわけでデザインをこれまで以上に重視しはじめているのはそういう理由もあります。)

 

■補足:企画自由度について

 更に、まだこの記事で「企画自由度」について全然触れられていないのですが、これについても書いておきます(企画自由度というのは僕の造語です)。

 濱口さんの理論では、既存のバイアスを特定し、それを壊すことでイノベーティブな発想を見つけるというプロセスを取るのですが、壊す対象のフィールドが狭いほど壊せる範囲は狭くなる=インパクトが弱くなる、ということについて考えています。

 たとえばビジネスの「業界」単位でイノベーティブなアイデアを作るのと、一地方の村のなかでイノベーティブなアイデアを作るのとでは、企画として出来る範囲(=バイアスを壊せる自由度)が違うのではないかと思うんですよね。

 僕が思考実験でよく考えるのは(ついでに実益もその気になればありそうなので考えているのが)、『小説家になろう』で人気の出る企画はどう作るか?ということなんですけど、これは案外、ややこしい気がしています。だってそもそも「小説家になろう」という共通フォーマット内で戦うというルールを強いられているので、その内部で勝とうとすると壊せるバイアスが少なく(=小さく)なってしまう。

 濱口さんの理論で考えれば、そもそも「ウェブ小説」という媒体レベルでもっとバイアスを破壊することを考えるのが向いていると思うんです。たとえば、現段階でも小説家になろう内では様々バイアスがあると思うけれども、そもそもあのHPに掲載しないとか(笑)、そういう手のほうが効果は高い気がする。当然「なろう小説とは、小説家になろうに掲載されている小説のこと」という思い込み=バイアスがあるので、その前提を崩したほうが効果が大きいでしょう。

 けど、たぶん一般的には、そういったルールを守った上で成功したいという人のほうが多そうな気がします(自分はあんまり気にしないですが、というか気にしなくなりましたが、たぶんそういう人のほうが多いでしょう。たぶん)。

  というわけでこれはまだ仮説ですけど、狭いフィールドでの成功を目指すほうが却って難しい(=偶然性に強く左右される)のかもしれません。これについてはまだまだ研究中といった感じです。

 

共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 えー、やっと最近学んだことの二つ目に移れるんですが(笑)。

 濱口さんの理論を知った時に気にかかっていたことが実は一つあったんです。「その手があったかーー!」と膝は打ったものの、微妙に喉に骨が引っかかってる的な? そういう感じが。

 その一つが「共通無意識」というものの存在でした。あるいはそれは「時代の空気」とか言われたり、みんなが「薄々感じていたこと」と呼ばれたりします。小室哲哉さんの項で触れた「波」についても同質のものでしょう。濱口さんの理論(ネット上に掲載されているもの)だけでは、その点について取りこぼしてしまうような、あるいは、拾いきれていないような、そんな気がしていたんです。

 気になっていたのは、それが非常に重要なことのように思えてならなかったからです。だってヒットメーカーは異口同音にいうんですよね。時代の波に乗った的なことを。そしてそれは一消費者としてもそんな感じはわからないでもないんですよ。たしかに「そういうもの」はあるだろうという実感はあった。たとえば、以下のインタビュー記事でも触れられています。

diamond.jp

 川村元気さんといえば、新海誠監督の『君の名は』のプロデューサーを勤めたことで有名になりました。その他にも自身も小説を書かれており、それが映画化されたりなど自分自身もヒットメーカーであることが非常に興味深い方です。

 上記のインタビューでは『「ポストの上のクマ」を探している』という言及があります。みんなが気になっているんだけど、なかなか言い出せずにいたこと=クマ、そういうものを探すということですね。

 これはさっき述べた「時代の波」だったり「共通無意識」だったりと同質のものであろうことは、読んだときにすぐにわかりました。日本のヒットメーカーに多いんですよね、これを言う方は。というか国内でしか見たことない気もしますが。そしてこれが重要だというのは感覚的にわかる。

 ちょっと前に『僕は友だちが少ない』というライトノベルがありましたが、僕の感覚からするとこのラノベもうまく共通無意識を汲み取ったものだと思うんですよね。何よりタイトルが秀逸だった。「僕は友だちが少ない」と聞いて「俺も少ない!!!!!!!!!!!!!!!!!!」ってつい思ってしまったし(笑)、そう感じる人はけっこう多かったと思うんですよ。みんななんとなく思っていた点をうまくすくい取っていたと感じます。

 そういうわけで、以前から「ポスト上のクマ」は僕も気になっていたんです。だけど濱口さんの理論ではそこに触れない。どうしてなんだろう? というのはずっと気になっていたんです。結論からいえば、やはり関係はあったわけですが。

 それはつまり、バイアスの特定にポイントがありました。端的にいえば、共通無意識にあるバイアスをこそ壊すべきだったんです。

 すでに述べたように、僕は定期的に濱口さんの記事を読み返すんですが(笑)、そこで見逃していた(というか当時は重要性に気づけていなかった)のは、バイアスというのはただ壊せばいいというものではなくて、ボトルネックになっているバイアスを壊すべきだと言っているんです。

 ボトルネックとは、つまりまあ「不満」とかってことですよね。川村元気さんは共通無意識としてすくい上げたものに「恋愛感情が喪失していくこと」を上げていましたが、これも見事だと思うんですよ。これってまさに「僕は友だちが少ない」というのとまったく同質の社会構造から引き出される、共通的な事象ですよね(他人との関係が希薄になってしまう都市社会が抱える固有の問題。村上春樹が売れるのと一緒)。うまいこと世の中の人達が抱えている不満、意識できていない問題を拾い上げている。

 もう一つ、ボトルネックとなっているバイアスを壊した例として、最近遊びすぎて辛いゲームである『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』を挙げたいと思います。

 このゲーム死ぬほど最高なんですが、何が良いって、従来のオープンワールドゲームが抱えていた(=ボトルネックとなっていた)問題を解決している点にあります。要点は2つ。「従来のオープンワールドに比べても更に世界が広い」そして「どこでも行けると言っておきつつ、実際には意外といけるとこ少ないじゃん問題を解決している」という点です。いや他にもいいとこめちゃくちゃいっぱいあるんですが、とりあえずこの2つで(笑)。

  それまでのオープンワールドゲーって、たしかに世の中に出始めた当時は「うわーーーどこまでも行けて広いなあ!」と感心したものでしたが、それも数年以上が流れて、ちょっと遊べば意外と簡単に端から端までいけちゃうことに気がつくんですよね(笑)。せいぜい一時間も走れば、世界の端から端までいける。それに馴れてくると「やっぱりゲーム内の世界か……」と思ってしまうのですが、その点ゼルダは、今の最先端のオープンワールドとくらべても更に数倍以上世界が広い。端から端まで、徒歩で移動しようと思ったら本気で1日がかりになってしまう。しかも途中で大量のイベントも発生するから、ますます広く感じる。その「本当に世界は広いんだ!」という感覚をふたたび再現させた点に、最新ゼルダの凄みがあります。

 そして何よりもう一つが「本当の意味でほぼ全ての箇所に行ける」ということ。これは実際にゲームを遊べば一発で分かることですが、これまでのオープンワールドは「この広い世界のどこにでもいける!」とか言っておきつつ、家の屋根の上とか、山の頂点とか、意外といけないとこばっかりなんですよね。だけどブレスオブザワイルドは、本当にどこにでも行けてしまう。つまりオープンワールドって言っても、山の上とか海の上とか行けないところばっかりなんだよな」という、ユーザが抱えていた無意識的な不満=ボトルネックを見事に解決している。前者よりむしろこっちの方が重要かもしれません。初めてこのゲームを遊んだ人間にとっては、いや、コアゲーマーほどバイアスが強い分衝撃的だったはずです。

 以上のように、濱口イノベーション理論と共通無意識の問題は、実は矛盾しない。それどころか積極的に意識すべきだという点が、僕にとっては重要な発見でした。これまでの企画でも、わかっておらずそこが失敗している点はたくさんありましたとも……。

 これは余談ですが、僕が企画していたオリジナル作品で「レトロミライ/シンギュラリティ」というのがあって、プレビュー版として作ってもいたのですが、これは江戸時代という過去と、遠未来という概念について、通常ならば別個のジャンルとして普通は考える(=バイアス)ものを、融合させてバイアスを壊そうという目的で企画したものでした。が、別個のジャンルになっていることが共通的な問題=ボトルネックになっているわけではないな、と気がついてしまい、なるほどこれは(全くダメというわけでもないのでしょうが)企画としては良くないな……と思い至った次第でした。企画作るのやっぱり難しいです……けどまあいい勉強になりました。これはこれでポジティブに受け止めたいと思います。

 

★この記事のまとめ★

  ちょっと長くなりすぎましたね……(約一万五千字のようです)。

 というわけでこんな感じが、今の自分の企画作りの研究成果といったところです。色々と進展はあったのですが、確実にヒットできるような手管については、作品外のマーケティング要素について理解を深めたり、スキルとしてバイアスの軸を取り出す腕を磨いたりなど、まだまだ鍛えるべき点は多そうです。

 他にも濱口さん自身もまだ研究段階にあるらしいプロダクトやメーカー自身の背景にある「ストーリー」についても、学んでいるところです。学ぶことがあるというのは、楽しいですね。小説を作ることだけでもまだまだ頂点は遠いですが、楽しいこといっぱいあるな~~~って感じです。

 では長すぎてごめんねということで、おさらばなのです。

  以上、橋本しのぶでした。 ってなんかあとがきみたくなってしまった(笑)。