神話の持つ力『千の顔を持つ英雄』『神話の力』読書メモ

 小説を書く者の一人として、神話についてはもう少しちゃんと勉強しておきたいなと以前から考えていたんですよ。

 ほら、なんていうんですかね、神話ってなんか重要そうな感じがするじゃないですか。目に見えないところでものすごい影響力を持っていそうな雰囲気というか……なんかフォースの力みたいなアレを感じるじゃないですか。語感からして、なんかすごそうな響きでしょ「神話」って(私だけか?)。

 それに現代において神話の効力は失われて久しいとどこかで聞いた気もしますし、それは実感としてもそんな気がします。が、それと同時に、まだまだ神話の持つエネルギーは自分たちに影響力を残しているんじゃないかという気もする。妙にそんな実感がある。けど……まあ要するに、ぶっちゃけよくわからん。だからこそ、気になっていたわけですわ。

 そんなわけで、仕事を辞めて時間もできたので、神話関連の名著として名高いジョージ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』と『神話の力』をじっくり読んでみました。一通り読んでみた結果として、読む前に考えていたことはどちらも正しかったんだなとわかりました。神話は今も生きているし、同時に、かつてより弱まってもいる。そのことが腑に落ちただけでも収穫だったと思います。

 

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

■『千の顔を持つ英雄』の概要

 今回読んだ、上記二作の概要についてから簡単にさらっておきましょう。

 まずは『千の顔を持つ英雄』についてですが、これは超がつくくらい有名な本で知っている方も多いかと思います。ざっくりというとこの本は、古今東西に存在する無数の神話を収集し、それらにみられる共通点・頻出するモチーフについて著者であるキャンベルがまとめた書籍――といったところです。出版されたのは1949年と、現在からおよそ70年も昔の本になりますが、にもかかわらずここまで有名なのは、映画『スターウォーズ』の脚本を作る際、監督のジョージ・ルーカスが、この『千の顔を持つ英雄』に書かれている神話構造を参照したと明言しているからです。「英雄の旅」「イニシエーション」「帰還」といった、英雄が英雄になるまでの、特徴的な展開を用いて、ジョージ・ルーカスはSWを現代の『神話』に創り上げたわけです。

 このことから『千の顔』は一気に有名になり、クリエイター間でも創作指南書・参考書の一つとして読まれるようになりました。この反響は非常に大きく、アメリカ系の脚本術のほとんどは『千の顔を持つ英雄』の影響下にあるといっても過言ではないでしょう。たとえば、『物語の法則』という脚本術の本なんかでも、『千の顔を持つ英雄』は引用され、現代でもメソッドとして利用されています。

 

物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術

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 と、いってもスターウォーズも、最近は新エピソードが出たとはいえそれなりに前の作品になりますし、最近はまたちょっと影響力は落ちていたのかなという気もしますが。ちなみにこれは余談ですが『魔法先生ネギま!』 に出てくるジャック・ラカンの必殺技名の一つが『千の顔を持つ英雄』なのですが、ネーミングの由来はこのキャンベルの著書でしょう。まあ、そのまんまですが(笑)。

 

■『神話の力』の概要

 さてもう一作、『神話の力』について。

 こちらもキャンベルの著書ではありますが、内容はビル・モイヤーズとの神話についての対談を書き起こしたものという形式。もとはテレビ番組用の対談だったそうですが、それを書籍にまとめて編集したのがこの『神話の力』のようですね。『千の顔』のほうは恐らく元の文章の影響で、非常に読みにくい本なのですが、こちらは対談なだけあって比較的読みやすくなっています。ただしあっちこっち話が飛ぶので、ついていくのが大変。『千の顔』は神話の共通点について語ったものでしたが、こちらの方は神話そのものの持つ機能やトピックについて、具体例を交えながら語っていくといった内容になっています。

 この『神話の力』は、小説家・冲方丁さんの愛読書だそうで、そういう理由で知っている方も多いかもしれません。

 

――本だけでなく、映像までも書き写すとは! では当時読んでいたもので、印象に残っている本は何ですか。

冲方:ジョーゼフ・キャンベルさんの『神話の力』に出合ったのが20歳すぎくらいだったと思います。池袋のジュンク堂が出来たということで行って、ジュンク堂で初めて買った本なんです。以来、10年くらい経つと思うんですが、定期的に100回くらい読み返しています。1回読んで理解しても、次に読むとまた違った理解ができる。子供のための神話の構造なんかについて語られている対談集で、僕にとっては鏡のような本で。

www.webdoku.jp

 

 100回も読むなんて変態的だなあとか思ってしまうのですが(※ぼくは冲方丁さんを小説家として尊敬しています)、それだけこの本に書かれている内容は、射程が深いということでしょう。実際、対談相手であるビル・モイヤーズは相当な知性の持ち主であることが数々の鋭い質問から窺い知れるのですが、その彼をして、キャンベルの言葉については「よくわかりませんが……」と困ったようにたびたび口にしています。よくわかるぞビル・モイヤーズ(正直わしもキャンベル爺ちゃんの言うことわからんところたくさんあった……)。

 キャンベルおじいちゃんは、この本のなかで、ずーーーっとよくわからないけれどいかにも含蓄のありそうなことをフガフガ言うのですが、その意味については、一読するだけではなかなか掴みきれない深みがあると思います。いやホント頼むから、もうすこしわかりやすく説明してよおじいちゃん……ああもうおじいちゃんさっきご飯はもう食べたでしょ、それとトイレはそっちじゃないわよおじいちゃん……。

 それでもこの本には読む価値があったな、と思うのは、把握しきれない部分はあれど、キャンベルが持つ「神話観」のようなものの一端に触れられるからでしょう。キャンベルは(これは『千の顔』の方での記述ですが)「神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない」とキッパリ宣言しており、その通りに両著書でキャンベルは、神話について説明したようなしていないようなフワフワした語りに終始しているのですが、それでもこの二冊を読み終えると、「あー、神話ってそういうことね。完全に理解した(理解していない)」という感覚が得られます。神話をこれといった形で、定義できないなりに、神話という概念がそのままインストールされる感覚というか、そういう感じでしょうか。たしかにこれは100回読んでしまうかもしれないと思わされます。読まないけど。

 

■で、神話って何なの?

 ついさっき「決定的な体系は存在しない」とか書いておきつつ、それでも言語的にちゃんと自分なりの定義や理解を持っておくことは重要だと思います。前置きはここまでにして、上記二冊を読んだ上での神話についての理解を以下にまとめておこうと思います。

 キャンベルは神話について決定的なことは語らないものの、それでもそれなりに直接的に神話について語ったこともいくつかあります。なかでも以下のことはもっともそれに該当すると感じました。

モイヤーズ:すると、人々は世界とうまく折り合いをつけるために、自分の人生を現実と調和させるために、物語を作ったり、語ったりするのでしょうか。

キャンベル:そう思いますね、ええ。小説は、偉大な小説は、すばらしい教育的な意味を持つことがあります。二十代や三十代、いや四十代に入ってまでも、ジェイムズ・ジョイストーマス・マンは私の教師でした。(『神話の力』p.39)

 ここでいう「教育」とは何のための教育かというと、誤解を恐れずにいえば「大人になるための教育」でしょう。より正確にいえば、その社会における大人として扱われるための教育。神話とはつまり、大人になるための教育装置(としての機能がある)とキャンベルは捉えているようです。

 これは私がもつ直感や考えとも合致して、非常にうなずけるものです。だって他の人たちもそうだと思うけども、私たちみたいなオタクって人生の大切なことは大体全部漫画アニメゲームで学んできたみたいなところあるじゃないですか。小さな勇気が一番の魔法だってネギくんは教えてくれたし、自立することの難しさと素晴らしさをベイビーステップは教えてくれたわけですよ。私たちが漫画やアニメで生きるための何かを知ることは、数千年前の部族社会で神話を聞かされることと、本質的には何も違いがないのです。これが神話が持つ効用の一つでしょう。神話は、物語は、社会の一員たる大人になるためにあるのです。

 と同時に、かつての原始社会と現代社会は決定的に違います。特に現代社会では「いつから大人になったのか」という明確なラインが事実上存在していません。日本には成人式とかあるけれども、あれに参加したからといって、本当に大人になったといえるかというと相当に疑問でしょう。だからなのか、三十代や四十代でも子どもみたいな甘えた考えを持つ人もいるし、かと思えば十代でとんでもなく大人びた考えをもっている人もいる。

 かつての原始社会では、そうした大人になるのが遅い人たちを待つ余裕はどこにもないギリギリの生存社会だった、とキャンベルは語ります。働かないニートを養えるほど生活に余裕がなかったということです。そりゃそうですよね。原始社会・狩猟社会では、いつも生きるか死ぬかギリギリのところだったはずでしょうし。そうでなくたって、ニート一人いるだけでも生活は間違いなく大変なわけで。そこで生み出されたのが、割礼などに代表される「儀式(イニシエーション)」だそうです。キャンベルは「儀式は神話の再現です。人は儀式に参加することによって、神話に参加しているのです。」とした上で、こんなことを語っています。

 

キャンベル:(洞窟について)学者たちは、ハンターになろうとする少年たちのイニシエーションに関係があったと推測しています。少年たちは狩りの仕方だけでなく、相手の動物をどのようにして敬うべきか、どういう儀式を行うべきか、また自分の生活において、子供からおとなになるためにはどうしたらいいかを学びます。(略)オーストラリアの原住民が(少年から大人になるために)やっていることはわかっています。そこでは、男の子がちょっと手に負えなくなると、その子のところにある日突然、男たちがやってきます。(略)少年は母親にかばってもらおうとします。そして、母親は息子を守ろうとするふりをしますが、男たちは子供を母親からあっさり引き離す。それ以後、母親は彼のためにならないというわけですね。おまえは〈母親〉のもとに戻るわけにはいかない。もはや別の分野に出ていくのだから。

 そこで、少年たちは男たちの聖なる場所に連れて行かれ、そこで本格的な試練を受けるのです――包皮を切る割礼、陰茎下部の尿道まで切開する儀式、男たちの血を飲ませる儀式などなど。(略)彼らはおとなになるわけです。これが行われているあいだに、偉大な神話のいかにも神話らしいエピソードが少年たちの目の前で演じられます。種族の神話を教えられるわけです。それが終わると、彼らは村に連れ戻される。そのときには、彼らのそれぞれの結婚相手となる娘がもう選ばれている。彼らはいまや一人前のおとなとして戻ってきたのです。

 彼らは子供の状態から切り離された。肉体にメスが入れられ、割礼と尿道切開とが施され、おとなの体になった。そういうショーのあとでは、少年に舞い戻るチャンスなどありえないのです。(『神話の力』p.186-188 強調筆者)

 

 割礼というと、正直なところ「未開の部族社会が行う残酷な行為」……というステレオタイプなイメージを多少なりとも抱いていたのですが、これらの記述を読んでかなり見方が変わりました。要するに彼らのなかでは割礼とは「大人になるための必須となる行為」であり、避けえないものだったわけです。人体を切り刻むわけですから、肉体的には不可逆なことが起こる。そしてそれ自体が、子供から大人になったことをどうしようもなく象徴している……。余裕のない部族社会で、子どもから大人に強制敵に変化させるための、社会的な手続きだったんですね。そしてその合理性をつけるために神話というフィクションが求められた、ということでしょう。

 さて、ひるがえって視点を現代に戻すと、すでに述べたように現代社会ではこのような「儀式」は存在していません。成人式は儀式としては割礼とくらべるとあまりにも優しい。意識の変革を起こすほどの厳しい体験は、もはや現代社会では執り行うことができません。なので、少年が「大人」になるにあたっては、それぞれがそれぞれのイニシエーションを経るしかなく、その筋道を学ぶ手段として、逆説的に神話=物語の価値は現在も生きていると言えると思います。

 ただしこれには問題もあります。現代では神話の代替としてフィクション(漫画・アニメ・ゲーム・映画)があるわけだけれども、それらは商業主義に侵されているものでもあります。つまり「大人になるための教育装置」としての側面が剥ぎ取られてしまい、ただ金を儲けることができればいい、という作品も無数に生み出されかねない……というか事実そういう作品はたくさんある、ということです。具体例はあげませんけど、まあそれなりにありますよね……まあ……。

 と同時に、だからこそ神話的な……人の成長を促す側面のある物語には、いまだからこそ価値があるなとも言えると思います。複雑すぎる現代社会において大人になるのは、とても難しい。その学習手段としての物語は今も求められていると思いますが、こればかりは時代性もあるだけに、難しい面も多そうです。

 とはいえキャンベルが『千の顔を持つ英雄』で語るように、それでも神話的なものを語る上では、絶対に外せないキーポイントは幾つかあると思います。その一つが、父と母の存在ではないかと読んでて感じました。

 

 ■社会が見る夢としての神話

  すでに書きましたが『千の顔を持つ英雄』が書かれたのは約70年前、つまり戦後直後あたりなわけで、それなりに前のことです。で、その頃はというとまだまだ精神分析の力が残っていた時代で、キャンベルもその影響下にあったようです。彼はユングフロイトらの夢精神分析にヒントを得るところが多かったようで、神話とは社会が見る夢なのだと語っています。

 ざっくりいうと夢分析というのは、その人が持つ無意識に抑圧する願望や不満感が、夢となって現れている……という考え方です(雑すぎるかもしれない)。なので夢を分析することでその人が抱えているものが見えてくる……というわけなのですが、神話はその夢をみる主体が個人ではなく、社会なのだとキャンベルは主張しています。まあ、わからんでもないですね。

 私が二冊を読み終えて感じたのは、その社会における大人になるための旅路が英雄譚となり、神話となるんだなということ。個別に社会のありかたは変わるわけなので、大人になるための過程や経験は変わる。なので神話はそれぞれにローカライズされ、異なった形で表出するわけです。それを「夢」といった形で表現するのは、まさしく隠喩を多用する神話というものの語り手らしいなという気がします。(余談ですが、隠喩といえば村上春樹、ということで村上春樹さんもキャンベルの本は好きで読んでいたみたいですね)。

 けれどそれら千差万別の社会のなかでも、絶対に唯一どの社会でも変わらないものは、父親と母親の存在です。どの国でもどの地域でも、人は父親と母親の間に生まれるものだからです。先に例をあげた儀式でもそうでしたが、だからこそ、母親の愛を拒絶(といっていいでしょう)して、父親を乗り越えるという物語は、どの神話でも共通している要素のようです。この二つの要素なくして、大人になる=自立するということはありえないと思います。

 『千の顔を持つ英雄』では、神話において英雄が辿る典型的な旅をいくつかの要素に分解して説明していますが、そのなかでも「父」と「母」の存在は頻出です。父は世界の謎そのものを担っている存在として、越えるべき対象として説明されていますし、母親については英雄を惑わして、英雄としての成長を阻害し邪魔する者として立ち現れます。英雄が英雄となるために(子供が大人になるために)、両親を超克することは必須なのでしょう。

 これはシンクロニシティでしょうが、たまたま富野由悠季監督の初代ガンダム(いわゆるファーストね。劇場版はすでに視聴済)のテレビシリーズを見始めているのですが、この母の愛の拒絶と、父の秘密を暴いて乗り越えるということがそのまんま描かれていて、ああそりゃあヒットするわけだよなあと納得してしまいました。ガンダム設計者の父を持つアムロが、ガンダムそれ自体に乗って英雄になっていく話……途中には、見事なまでに母の愛を拒絶するエピソードがあります(「母さんは僕を愛してないの」という有名な台詞がある!)。まあ、どこまで『千の顔を持つ英雄』を参照しているのかはわからないですけどね。自覚的に引用している例というと、すでに挙げましたが『魔法先生ネギま!』は明らかにこの父親との対峙を物語の主軸に組み込んでいますよね。母親についてはそうでもないですが、この英雄の旅路(ヒーローズ・ジャーニー)をかなり意識して組み込んだ作品として典型に挙げられるでしょう。

 

■まとめ

 二冊で語られている神話の機能や特徴についてはまだまだいっぱいあるのですが、その骨子についての自分なりの理解はこんなところです。

 神話とは、その社会において子供が大人になるための旅路の隠喩であり、その過程で得られる経験を物語と化したもの。社会によって求められるものは変わるため、その表層はいくらでも変わるが、特に父母の超克といったテーマは人間の生物学的な制約から頻出するテーマとなっている。……といった感じでしょうか。

 最後にちょっと現代における神話についても書いておきます。

 そもそも神話とは、神秘がなければ発生しないものです。神秘とはつまり「わからないもの」のことです。つまり解明されていないもの。原始社会ではたとえば、太陽がなぜ地平線から昇るのかといったことに対して、科学的な説明は持たなかった。けど人間はそうした「よくわからんこと」をそのままにするのが、どうも嫌いな生き物のようです。なので、その太陽の動きを神話として合理化して説明しようとし、その結果として超越的な存在=神が生まれたということです。

 となれば、現代においても神話にはまだ余地があるのだと思います。今でもよくわかっていないことってそれなりにありますからね。特に宇宙論は神話が入り込む余地が非常に残されている分野だと感じます。ダークマターに、ダークエネルギー。最近ではマルチバースによる多世界解釈も真剣に検討され始めているわけで、『神話』の入り込む余地……「なんだかよくわからないもの」はまだもう少しありそうだなと感じます。心の分野は、脳科学研究が進んでしまってかなり神秘が剥ぎ取られてしまったなという感じ。AIについては、ブラックボックス化が進んでくれれば、新しい神秘になりうるかなと思っています。

 ただし合理的・科学的な説明がなければ納得しない現代人に対して、効力のある神話を提示するのは、やはりとてもハードルが高い。すでに明らかにされているものを科学的に・説得的に描写できなければ、神秘が神秘として認識されないと思うんですよね。そういう点でとても難しい。ファンタジーはもはやそのままでは神秘=神話としては機能しないため、寓話・童話として扱われることになっているなあ~と感じます。一筋縄ではいきませんね。

 書くべきことはもっとありますが、記事も長くなってしまったのでこの辺で。そんでは。