ユーザー許容の点から見た『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』の比較

先日『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』をクリアしました。それと一緒に『ゲンロン0』を読み終えたのですが、それらを統合して色々と思うところがあったので記事にしています。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

 

 

 えー、『ニューダンガンロンパV3』については単純に「面白かった」と述べるのはやや抵抗があるのですが、『ニーア・オートマタ』については非常に面白かった……というか、興味深かったです。この両作品に共通しているのは、どちらも受け手に対して倫理的な態度を求めている、ということです。

 ちょうど先日、奈須きのこさんが竹箒日記で両作品に言及していました。

思えば昨年から「ユーザーに娯楽との接し方を問いかける」作品が多く出てきたと思います。
大衆の総意と自己の正義を対決させた『P5』、
『娯楽』を楽しむ事の露悪的な本質と、その先にある救いと意味を描ききった『ニューダンガンロンパV3』、
虚構であれ、物語中に生まれた知性の容認と、物語を変革する為にはこれほどの覚悟が必要なのだと叩きつけてきた『ニーア・オートマタ』。

http://www.typemoon.org/bbb/diary/log/201703.html

  本記事は「そもそもなんでそんな傾向(=ユーザーに倫理的態度を求める)が出てきたのか?」について自分なりに考えたことをメモしておくためのものです。当然のようにネタバレしますので、気にするかたはリターンしてくださいね(注意勧告)。

 まずは『ニューダンガンロンパV3』(以下V3で省略)について簡単にまとめておきますと、本作は『ダンガンロンパ』『スーパーダンガンロンパ2』『絶対絶望少女』に連なるシリーズ最新作として先日リリースされたものですが、内容は16人のコロシアイ(殺し合い)を強いられる生徒たちが、そのコロシアイ=バトルロイヤルに巻き込まれつつも、そのルール自体に逆らうために閉鎖環境の謎を解き明かしていくというもの。結果として明らかになるのが、

「このコロシアイ自体がエンターテイメントとして世界中に放映される番組だった」

「参加者である各キャラクターたちは記憶を失っているが、全員自らの意志でそのコロシアイゲームに参加しており、コロシアイゲームの一員となって番組に参加することに憧れている(つまり過去作とは違い、各キャラクターたちは超高校級でもなんでもないただの一般人)」

 ……というもの。

 シナリオとしては非常に優れています。作中のコロシアイはやがて暴かれていきますが、途中で自分たちがただの超高校級でもなんでもないただのパンピーだと気づいた各キャラクターたちは、アイデンティティ・クライシスを引き起こします。記憶を上書きされ、仲間たちと一緒にコロシアイを避けるために営まれたキャラクター同士の掛け合いややりとりが、ただの偽りのものでしかない、と暴かれるわけです。

 作中でひどい殺し合いが行われるので、「こんなコロシアイは間違っている!」とキャラクターたちはさんざん主張するのですが、そのコロシアイ自体はかつて記憶を失う前に自分の意志で参加を決めたものだった、というのが明かされてしまうため、強い自己矛盾を引き起こすんですね。そして何より、それらのコロシアイゲーム・番組を見物する「観客」は、イコール、ゲームを進めるプレイヤーと完全に一致する。

 最終的に各キャラクターたちは「こんなひどい殺し合いゲームを、エンターテイメントとして消費する態度それ自体が間違っている!!」とごもっともな主張をして観客を強く否定し、コロシアイゲーム自体を『台無し』にすることで物語を終えるのですが、ここで重要なのは、この作中キャラクターたちから「観客」に向けられる批判は、そのままゲームプレイヤーへの批判とまったく同じく通用するものなのですね。

 つまり『V3』の主張は、ゲームプレイヤーへの倫理的態度への批判そのものといっていい。

 こんなコロシアイゲームを愉しむこと自体がおかしい。こんな人の死に様を鑑賞する態度は間違っているじゃないか。そんな主張を、薄っぺらなその場のキャラクターを強要された作中人物たちは、こちらを糾弾してきます。

 しかも『V3』の巧みさは、全6チャプターで構成されるシナリオと、導入である第1チャプターがまったく同じテーマの反復になっている点でしょう。第1チャプターではコロシアイゲームの真実こそ明かされませんが、主張したいメッセージ自体はまったく同じものです。すなわち、ゲームプレイヤーが持つ倫理的態度への攻撃です。

 それもそのはず、『V3』チャプター1ではお馴染みの殺人事件が引き起こされますが、その殺人犯はゲームの視点キャラクター……つまりプレイヤーの代替人物・操作する人物である主人公だと思われていた赤松楓なんですね

 第1チャプターからすでに、つまり自分は観客だと思い安心しきっているプレイヤーに対する攻撃は始まっているわけです。「お前こそが犯人なんだ」「お前が殺した(殺させた)んだ」とそう言いたいかのように。これはミステリにおける叙述トリックとしても優れていますが、何より全体のメッセージを予め匂わせる秀逸な導入としても機能しています。(ちなみに赤松楓ちゃん非常に良いキャラクターで、しかも後に主人公役を譲る最原くんとの関係が非常に良かっただけに、ここで犯人となって物語から退場したことで自分のテンションは半分以下に落ちました。ある意味で正しく演出効果を受け取っている…)

 さて、過去においてこの手の「観客への攻撃」の形式を取ったフィクションは存在していました。

 もっとも有名な例でいえば当然TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』が挙げられるでしょうし、その他にも『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』など、最終的にエンターテイメントとして消費している観客それ自体を批判するような作品として比較できると思われます。

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  『V3』は、手法的にはこれらの作品と系譜的に連なるものと見ていい。本作におけるプレイヤーの攻撃手法は、正直さして目新しいものではありません。むしろ使い古された手法ですらある。特に「視点キャラクターが犯人」というミステリは挙げればきりがないほど存在するでしょうし、たとえばバトルロイヤルがエンターテイメントとして消費されるというモチーフが、さして新しいとは思いません。悪くいってしまえば、これらは非常に「古臭い」。

  ただ、だからといって自分は、本作をただたんに「古いからダメ」などというつもりはありません。問題は「何故今になってそんな形式を求めたのか?」ということです。

 参考例をあげた通り『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』は90年代末頃の作品です。これらは自意識の肥大化が招いたがゆえ、自分が誰かに見られているのではないか(他者の視線の内面化)という疑念ゆえに求められた作品形式だと捉えています。

 まあそれが本当かどうかはさておき(へたれ)、ひとまず当時はそういうものだった認識しており、ようするに私は「わざわざ今やることなのか……?」と、ゲームをクリアした時は不思議でしょうがなかったんですね。だってそんなの、十数年前にもうみんな通り過ぎたことなんじゃないの? と。

 ですがここまでやったわけですから……『V3』のこのシナリオは、相当入念な、強い執念がなければ成し遂げられない強度を持っています。これはゲームをやった人間にしかわからないものがあるでしょうが、壮絶かつものすごい執念によって『V3』は「お前ら=プレイヤーは間違っている!!!!!!」と主張してくるんですよ。これはちょっとやそっとのことじゃ書けないと思うんです。

 そこには何かしらの背景があるはずだ、と思いつつも、なかなかそれを納得する道筋がわからなかったわけです。

 先に結論を先取りすると、この答えは『ゲンロン0』で説明されたように感じました。つまり、『V3』のこの主張は、二次創作における受容のされかたを受けた結果なのではないか? 製作サイドの「うんざり」が招いた結果なのではないか? と。

 ダンガンロンパシリーズというのは非常に二次創作が活況な作品です。(でした?)というか私自身、『スーパーダンガンロンパ2』の二次創作小説を書いたくらいで、それは基本的には製作サイドにとっては良いことしかないと思っていました。そもそも今のコンテンツ製作は二次創作されることがツイッターなどのユーザ間で重要度を高めることに繋がるため、ほぼすべてのフィクションがそこを折込済で狙ってくるものだと思うんですよ。

 だからわからなかったけど、案外製作サイドとしても、それはフラストレーションのたまることでもあったのかもしれません(考えてみれば当たり前のことではありますが)。だからこそ「観光客」=身勝手にキャラクター性の書き換えまでも行いゆるく消費し続けるユーザたちに怒りを感じてしまったのかもしれません。実態としてどうなのかは作者にしかわかりませんが。

 でもね……やっぱり『V3』の態度は、間違っていると思います。いや、あるいは、言いたいことがあるにしても、きっとその伝え方を間違っていたのだと思います。

 誤解はして欲しくないのですが、一人のクリエイターが作った作品としての『V3』はとても素晴らしいものだと思います。メッセージの内容はともかく、あの完成度と出来は、真摯に創作に向き合った人間でなければ決して成し得ない。それは自分自身、創作をやっているからこそわかります。作品を書き上げるっていうのは簡単なことじゃないんです。そこに偽りは存在していないと思います。

 ただ作品は製作者の手を離れた時点で、製作者のものではないんですよ。そこから先はユーザーと共有して育てていくものになってしまう。手を離れた後に上書かれて怒るのは、気持ちとしては理解できるけど、正しい主張ではない。 

 というわけで、V3については全般的に否定的なスタンスを自分はとっています。だって、そうしたユーザーとの共生関係についても、上手く対応した製作サイドだって実際にあるんですから。……という具体例として、次の項目、ニーアオートマタについて触れたいと思います。

 

 ・『ニーア・オートマタ』の大人としての主張

 すでに記事が長くなりすぎているので、端折りつついきたいのですが、ニーアオートマタというのはちょこちょこと不出来な点も多かったなと思っているんですよ。なので、完全に肯定しているわけではない。だけど、それでも本作は良い作品だったな、と思うのは、作品を締めくくるエンディングが非常に素晴らしかったから。

 ニーアオートマタというのはポストアポカリプスで人間が消え失せ、アンドロイドが人類側の主流になった世界観でして、地球は宇宙からやってきたエイリアンが構築した機械生命体にほとんど占領されてしまっており、アンドロイド達(主人公たち)は地球奪還のための戦いを挑んでいる……というのが基本的なストーリーラインです。

 で、話が進むにつれて徐々に世界の全容が明らかになっていくんですが、どうやら既に「人間」は滅びてしまっており、アンドロイドしか残されていない。しかも機械生命体と同じコアを流用して創られたのがアンドロイドであり、戦っている相手とほとんど同じ存在だった。……ということが明かされます。つまり、主人公たちの死闘にはなんの意味もなかったことが暴かれていく(解体されていく)、というのが最大のテーマです。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

  そしてニーアオートマタでは、その暴かれたところ、で物語が終了してしまうんですね。つまり端的にいえばこの作品はいわゆる「バッドエンド」というやつで、シナリオ分岐こそあるものの、基本的な筋としてこれは変わらない。主人公の2Bや9Sは無意味さに晒されて苦悩したままアンドロイドとしての死を迎えます。

 この結末について、私は製作者たちの「美学」と捉えています。つまり、これが彼らのやりたかったことだということです。

 このエンディングがユーザー達にとってあまり喜ばしく受け取られないであろうことは明らかです。ユーザーは自分の分身である主人公の死を見たいわけじゃないと思うんですよ。もちろん見たい人、この美学に共感する人は一定数いると思うけれど、それは大多数ではない。大半の人は、バッドエンドは好ましくないと思っていると思います。それを理解した上で、この製作者たちは「これがやりたい!!」と思ったからこのエンディングを設定したんじゃないかなと思うわけですね。

 ただ、ニーアオートマタが興味深いのは、ゲームデザインによってこの「美学」と、ユーザの要望(バッドエンドじゃなくてハッピーなものが見たい)を共存させることに成功した点にあります。

 ニーアオートマタがシナリオ上の最後のエンディングを迎えると、スタッフロールが開始されるんですが、ここで主人公たちと一緒に行動していたポッドというサポートマシンみたいなやつが言い出すのです。「我々はこの結末を許容していいのだろうか?」と。ここでいう「我々」がユーザーを同時に指していることは明らかです。つまりゲーム側でユーザーに問いかけるんですね。「あなたはこのエンディングで満足ですか?」と。

 そこで満足しない、と答えると、ならば抵抗するがいいと更にゲームが継続されます。そして開始されるのがシューティングゲームなのですが、ここで非常に面白いのは、シューティングする標的=破壊する対象がスタッフ名になっている、というところなんですね。つまり「このゲームのエンディングに満足しないなら、このゲームを作った製作者たちを倒せ!!!」というメッセージが明らかに込められている。

 でまあ、このシューティングゲームは非常に難しいんですが、敵を倒しつづけて最後の方にいくと、東方のシューティングかよってくらいクリア不可能だろう、という弾幕を浴びせられます。そこで、PS4のネットワーク機能を利用して、更に他ユーザーからの支援(無限ライフと無敵性能と射撃強化という形)を募ることができます。ようは、このエンディングに満足できない他のユーザーと一緒に俺達を倒してくれ、ということ。

 このシューティングを終えると、更に追加でエンディングシーンが表示され、死んだはずの主人公たちは(アンドロイドなので)記憶は失っているけれども、この世界で蘇生して死を繰り返さないようになるんじゃないか?という希望が描かれて、物語が終了することになります。

 ただユーザー側にもリスクがないわけではない。物語を書き換えるということには強い覚悟が必要だ……ということで、このシューティングに挑んでクリアすれば、ゲームのセーブデータがすべて削除されると通告されます。数十時間掛けて遊んだ記録をすべて消す。そこまでの決意があって、初めて製作者と対等になれるんだぞ、と。

 でも、これは非常に成熟した態度だ、と思うんですよね。製作者は美学を貫いた。けれども、それに納得しない人もいることは理解している。なので、ゲームシステム・デザインの側でその想いを満たせるようにしようという仕組みになっているわけです。メッセージを押し付けるだけで終わらせていない。ユーザーを説教相手じゃなくて、対等な相手だと認めている。

 

・まとめ

 えー、まとめです。観光客の哲学についてさっぱり触れられなかったのですが、この記事を書き始めて2ヶ月放置してしまい、とりあえずまとめるだけでもまとめたいのでまとめます(乱暴)。(大人になれ?といっておきつつこの体たらく……)

 ここでずっと論じてきた「ニューダンガンロンパV3」についてもう一度振り返ってみると、作品に込められたメッセージを伝えるだけで(=押し付けるだけで)終わってしまっているように思えてならないんですよね。そのメッセージ自体は否定できるものではないけれど、単なる押しつけになってしまっている。それは本当にそれでいいのか?と私なんかは思ってしまうわけです。その点で、ニーアオートマタは優れたゲームデザインになっていて素晴らしいと思います。スタッフロールをシューティングゲームで破壊するというアイデアは本当に見事でした。

 V3がダメなわけではないんですが(というか非常に出来が良いくらいなんですが)、どうしても最後の倫理を求める態度というか、求め方自体に疑問を感じてしまうなあ……と。そういうことが言いたい記事だったのでした。ちゃんちゃん。