今ドチャクソ熱い漫画『火ノ丸相撲』2018年3月13日

今『火ノ丸相撲』という漫画がめちゃんこアツいです。

 

火ノ丸相撲 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

火ノ丸相撲 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

火ノ丸相撲っていうのはジャンプで現在連載している相撲を題材にした漫画なんですけれども。数えてみればすでに19巻ですか。早いものです。連載が始まった当初は、相撲というややマイナーな(といったら良くないかもしれんですが)競技を扱った点から「ジャンプで連載が続けられるのか?」という疑問もありつつ、それでも連載当初から持っていたシンプルな『わかりやすさ』の強さで人気を獲得していった漫画のように捉えています。

 

連載当時からこれは続くだろうな、というか、続いて欲しい漫画だなと思っていたのでここまで人気が出たことは素直に喜ばしいのですが、いや、ここ最近のジャンプでの火ノ丸相撲の展開は本当に見事。もともと火ノ丸相撲は、ジャンプ漫画らしからぬ「気の届き方」にいつも驚かされていたのですが、特に今週は素晴らしかった。「なにかに命を捧げるために生きる者」の姿とその対立が、その構図が非常に見事に完成されている点。

これは、おそらくこの作者自身が抱える問題がそのまま表に出てきたものでしょう。先程も書きましたが、この漫画は「気の届き方」が非常に良いと思います(だから火ノ丸が教えるために弟子を殴った瞬間はコミカルな描き方ではあったもののこの作者が!?と思ってびっくりしたのですが、それが「ここ」に繋がるのかと非常に納得しました)。たとえば、作中にでてくるユウマというキャラクターは、かつて相撲部をぶっ潰そうとしていた不良でしたが、相撲部に入部し、その相撲の魅力を理解することで、かつて自分が相撲部を潰そうとしていたその行為とその醜さから罪の意識に苛まされるのですが、たぶんコレふつうのジャンプ漫画だとそんな描写は出てこないんですよ。たぶんアッサリと流して、相撲部の部長の小関と和解して終わる。いや、実際にこの漫画でも和解はすることはするんですが、その解決までの描写は非常に丁寧です。これは他のジャンプ漫画的なものではなかなか見られないもので、むしろ青年誌などの倫理観を問うような作家や立場でないと出てこない問題意識だと思うんですよね。もちろんこの漫画の掲載先はジャンプなので、あまりに込み入った描写はできないんですが、少年漫画らしい軽やかさと倫理的な認識の重さを同居させつつ、この作者は漫画を成立させている。これは明らかにこの作者が持つ特質だと思います。

そして今週の話。

題材としては、『相撲部屋内の暴力』……いや、この時期にこのネタを持ってくるとかあまりにもロックすぎでしょう(笑)。しかもそれを、見事に自身の作家性……つまり競技に命を掛けるならば何もかも捨てていいのか? というテーマに絡めて描いてゆくその手管には拍手です。ブラボー。

ここ最近はずっと、ジンオウという絶対最強の横綱が「そこに愛はあるのかね!?」という台詞を出してきたり、あるいはレイナとの明らかに結婚も視野にいれた恋愛描写(少年漫画ですよ!)を差し込んできたりと、いろいろなものを積み上げてきたのも、ここに結集するためかと膝を打ちました。横綱はなにかを愛して、すべてを投げ捨てるような相撲は取らない。故に奥さんともうまくやっているわけですが、であるならば、火ノ丸は? 彼はそうではない……というのが今週明らかになりました。火ノ丸が相撲に打ち込めば打ち込むほど、レイナという相手を置き去りにしていくのです。なぜならば火ノ丸は土俵で死ぬために生きているのだから。

私が考えていることですが、優れた作家の条件の一つに、自分が追い求めるテーマと真逆の結論を受け入れられるか?というものがあると思います。

何故なら、自分が追及する作品のテーマを、もっとも強く輝かせるためには、その真逆であるテーマと衝突させなければならないからです(古くは芸術の世界でも「対位法」とかいわれたりしますね)。あるテーマを描きたいとして、それと真っ向から対立するテーマをぶつけることが、実はそのテーマをもっとも魅力的に、深みを伴わせて描く手法なんです。これはすでに歴史的に明らかになっている手法です。

ただね……これは非常に難しいことなんです。

なぜなら、作家というものは得てして思い込みが強い生き物なので、自分の思い込み=自分のテーマと、正反対のものなんか受け入れられるわけがないんです(笑)。「人間はこうやって死ぬべきだ!!!!!!」という結論を持って生きている人間が、「いやそうではない、人間が生き方に殉ずるなんて間違っているんだ」という言葉を受け入れるのは、いわば自分のなかに毒を取り込むようなもので、とにかく非常に苦しいのです。

だから、「自分が描きたいテーマと真逆のものを描けばいい」という手法を知っていたとしても、それを実際に遂行することは非常に難しい。自分のなかに他者を飼いならす力がなければできないことなのに、作家という人種はそうじゃない特質(思い込みが激しい)を備えているからこそ成立する職業なので、そもそも難しいものなんです。そして『火ノ丸相撲』に話を戻しますが。

今の火ノ丸相撲はまさにそれをやっているんですね。作者はきっと「漫画に命を捧げる為に生きていて」「漫画のためなら何もかも捨てていい」と思っていますよ(笑)。実際、そう思わせるだけの漫画の力量を備えていると思うし、それが漫画全体からオーラとして溢れていると思う。

が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

にもかかわらず、それでもこの作者は、横綱ジンオウの「そこに愛はあるのかね?」やレイナとの恋愛を持ち出してきたり、そして今週の「命を捨てる覚悟のないものが土俵に上がるんじゃねえ」を描いたりなど、さっき自分が述べたようなテーマの止揚を描こうとしている。作者にとってみれば、ジンオウの言葉やレイナとの恋愛とか、たぶんきっと本質的にはめちゃくちゃどうでもいい(笑)ことなんだと思います。けど、それじゃあ良くないだろう!という思考もきっと同じく持ち合わせていると思うし、そこに葛藤を覚えているんだと思います(※全部自分の想像です)。でなければ、こんな展開は決してでてこないはずです。

いや、本当に見事。

ジャンプ漫画でここまで描ける作家はそういません。すでに傑作の風格を備えている漫画だと思いますが、きっとこの作者ならまだ先に行くこともできるでしょう。今週だけで終わるはずもありませんし、この先が本当に楽しみです。

みんなも読んでくれよな!!!!!!

 

火ノ丸相撲 コミック 1-18巻セット

火ノ丸相撲 コミック 1-18巻セット

 

 

C93お疲れ様でした

このブログは「なんかのテーマごとの記事を出したい時」用に使っていたんですが、渡辺さんのブログを見て「べつに日記みたいなことを書いてもいいか」と思ったので、たまには日記っぽい記事を書きます(というかそもそもブログというものが生まれた本来の目的はそっちだと思うが)。最近あったことなどつらつらと書きます。

 ■冬のコミックマーケット93、お疲れ様でした。

すでに一月が過ぎようとしておりますが、参加なさった方々、お疲れ様でした。今回のコミケ、GOオルタ上巻が炎上した件もあったので、悪意のある参加者から生卵をぶつけられるんじゃないかと半ば本気で心配していたのですが、全然そんなことはなく、むしろいつも以上に穏やかに終了いたしました。そんな度胸のあるやつはおらんかった。というかそれどころか、買いに来てくれた方々が「上巻が面白かったので下巻も書いに来ました!」と次々に言ってくれたり、炎上の件を心配してくださって、応援してることを告げてくれた方がいたりなど、むしろいつも以上にウチの本を手にとってくださる方々の暖かさが身に染みるイベントでした。まじで泣きそうでした。本当にありがとう……。あと、ななまるさんと赤羽さんの差し入れがめっちゃおいしかったです(唐突)。

下巻があの分厚さだったのと、下巻の告知ツイートが上巻の告知ツイートにくらべて伸びなかった(RT数が減った)ので、ちゃんと売れるのか心配だったのですが、頒布もお陰様で順調でした。なにもかもが「良かった」という安堵で満たされたイベントでした。

■GOオルタ下巻の内容について

普段はあんまり自作解題みたいな語りはしないんですが(恥ずかしいから)、まあ今回はそれなりに思い入れもあったのでちょっと書きます。わざわざこの記事を見てくれる人だからもう下巻は読んでると思うけれども、ネタバレなことも書くかもしれないから心配な人は回れ右してね。ちなみにどうでもいいけど「GOオルタ」って略称は自分で決めたんですけど、脳内で発語する際にいるも「GOオタル」って混同しかけて、GOオタル……Goおたる……小樽……観光に行きてえな……という気持ちになります。極めてどうでもいいですね。ごめんなさい。でもわたしどうしても言いたかったの。ごめんね。

■下巻で書きそびれたことについて

下巻……というかGOオルタは色々な意味で「手に余った」感があった話になったなー、とか思っていて、伏線をすべて回収しきれなかったというか(あえて回収しなかった伏線もかなりあります)、設定的にすべてをうまく畳きれなかった感じだったので、そこが若干心残りだなあという気持ちがあるようなないような、ないようなあるような……。チラ裏の話なので、べつに読まなくてもいいコトなんですが、具体的にいうと、家康のこととかはもっと書くべきだったなーーーーーーー!!!!というお気持ちがあり、後悔があるような気がしないでもありません。でも正直、おじいちゃんを書く趣味はないので、書いてもモチベーション上がらなかったよな……みたいなアレがあります。すまん家康。

今回は最終章(F-Evi No.10)がもっと盛り上がるはずだったのですが、下巻を手にとってもらえればご確認いただけます通り、最終章が始まった時点ですでに400Pを越えておりまして。自分が想定したとおりに最終章を書いてしまうと、おそらく650Pくらいになっていたと思うんですよね。

650P。

そんな小説、誰が読むんやねんという感じですね。俺だったら読まないです。そんな分厚い本読みたくないよ。ていうか持ちたくないやん。重いし。電子書籍で買いますわ。なので、家康に関するドラマは最低限で収めて、本筋であるオルガマリーの物語に注力せざるを得ませんでした。

だいたい650Pとかまでなっちゃうと、いっそ上・中・下巻にわけたほうが現実的だと思うんですが、そうなると、今度は「どこから下巻にするべきか?」という問題や「そもそも上中下巻構成においては中巻がまじで売れない」という元編集者のおともだち(ていうかろきさん)から頂いた助言もあったので、それは避けざるをえなかったのです。なんでも、上中下巻にすると、「上巻で話の概要を掴んで、下巻で結論だけ確認する」みたいな買い方をするユーザーが出てくるようで、おかげで中巻がぜんぜん売れないのだそうですね。まじかよ。そんな読み方するなんて小説読みの風上にも……絶対許せねぇ! 変身!(オレンジ) あとはアレですね、モチベーションの問題も非常に大きく、冬コミで中巻を出し、その次の夏コミ(8ヶ月後)に下巻となると、そこまで更にFGOに付き合うのかと考えるとただでさえ炎上で消耗していたのに、更に苦しくなりそうでしんどかったんですわ。なので、家康については色々とオミットして、話をまとめることを最優先しました。とはいえ、物語の根幹部分に関わるものはすべて回収したはずなので、これはこれで良かったと思ってます。

 ■家光について

そういうわけで今作もいつも通り、筆の暴走による良い意味での誤算はあったのですが、とりわけ一番良い方向に働いた誤算は家光についてでした。家光。いや、この際なので、彼のことはミッチーと呼ばせてもらいましょう。ミッチーは上巻の時点では「なんかこいつえらい中途半端なキャラだな……」とか作者である自分自身、首をかしげているところがあったのですが、とりあえず「しょうがないから」という極めて雑な理由で書き進めてみたところ、アラ不思議、後半のミッチーの内面シーンになった途端暴れ始めてマジかよという驚きがありました。特に「生まれながらに将軍とは、生まれながらに~」のくだりをミッチーが言い出した瞬間「お前そんなこと思っとったんか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」という作者ながらに純粋な驚きがありました。大変だったんだなミッチー。

あの一行を書いた瞬間「こいつは面白くなるぞ」と思ったもので、脳からアドレナリン太郎がじょばじょば出てきまして、その後は予想通りいい塩梅に盛り上げてくれました。あれのお陰でハンニバルとの対立構図がぐっと引き締まったので、本当にありがたかった。小説を書いていると、こういう自分も想像していなかった予想外のプラス作用がたまに起こったりするのですが、これが出たときが楽しいから、小説を書くのがやめられないところがあると思います。ハンニバルと家光が衝突するシーンは、おそらく読者の人々が予想している(?)とおり、一晩で一気に書き上げたのですが(もちろんプロットは事前に組んでます)、その日はアドレナリン次郎がジョボジョボでてきて興奮して寝られませんでした。ああいうのがあるから小説やめられない。

 ■執筆時期について

時期的なことについて言及すると、下巻の執筆を始めたのは2017年8月頃からで、そこから炎上する10月あたりまでに下巻の半分(アヴェンジャーとお月見するあたり)まで書いていました。で、炎上しててんやわんやになって執筆が完全に中断され、11月に入ってからようやく執筆が再開され、後半部分はすべてそこで書きました。その後12月2日に入稿しています。今考えると、よく後半部分を炎上後のあの時期に書けたなという感じですが、今考えると、よく後半部分を炎上後のあの時期に書けたなという感じですね……(同語反復)。極めて正常な精神状態で書いたつもりですが、振り返ると、なにか頭がおかしくなっていたのかもしれない。あとがきにも書きましたが、下巻を出さないというのは死んでもやりたくなかったので(※死んだらやれない)、とにかく必死だったとは思います。なんで書けたんだろう。わからん。なんもわからん。

ハンニバルについて

型月にふれた創作マンたるもの「ぼくのかんがえたさいきょうのさーゔぁんと」を妄想するのはもはや通過儀礼のようなものだと思っていますが、そのなかでもハンニバルは自分にとってのそれで、いつかFateの二次でなくとも、どこかで必ずハンニバルを題材になにか作品を作りたいと思っていました。初めてハンニバル・バルカに触れたのは極めてベタですが塩野七生さんのローマ人の物語ハンニバル戦記」なのですが、あれを読んだ瞬間「カッチョイイ!!!!!!!!!好き!!!!!!!!!!!」と思い、いつかハンニバルを題材すると決心したのでした。女の子になっちゃったけど。自由な彼女を書くのはとにかく楽しく、こいつのせいで会話文が無駄に長くなってしまい削るのに苦労した記憶があります(削りたくないけど削らないとページ数がふえる)。彼女がどんなキャラクターなのかはここでは書きませんが、自分のなかのハンニバル像をこれでもかと詰め込みました。象だけに(パオーン)。上巻下巻ともに大活躍する彼女ですが、彼女を書くのが好きでしょうがないのでどっかでまた書きたいな~~という気持ちがあります。とりあえず確定しているのはGWのコミック1で幕間の物語を書くことですが、それ以外にも何かしらの形で書きたいなぁ。……と思いつつも、彼女の物語についてはかなり「やりきった」感があるので、何を書けばええんじゃいという部分もあり。でも書きたいなー。ハンニバルがのびのびしてるとこまた見たいし。ハンニバルがピックアップされるまで頑張らなきゃ……(無理)。

 ■沖田さんについて

下巻でとにかく不憫な目に遭わせようと思っていました。でももっと残酷な展開にしたかったなー。でも概ね満足しています。上巻は好き放題ラブい感じで書いたんですが、下巻ではちょっと「これは沖ノブ派閥過激派に刺されるのでは???」みたいなことが頭を掠めてしまいやや控え気味になりました。チキンでごめんなさい。本当はもっとシロウと継承に絡んだ話をするつもりでした。原作FGOの沖田さんからすると人斬りに対してべつに悪いことともサッパリ思っていないのが普通の解釈にあたると思うのですが、そこであえて「人斬りはよくないことなのでは??」と気づいたなら(気づいてしまったなら)どうか?というところで書いたのがGOオルタでした。結果として、処理が難しくなってしまい、立香とのほのぼのシーンだけでよかったのではみたいな気持ちを反省がございます。でもまあ、かわいいからいいか。沖田さんすき。

■マシュオルタことアヴェンジャーについて

今作の一番キャッチーな部分を担当して頂いた鯖。GOオルタのコンセプトはいうまでもなくFGOの贋作であることであり、と同時にFGO原典並に高いクオリティであることだったんですが、それと同時に、そのコンセプトそれ自体を決定的に理解してもらう要素は不可欠でした。それにあたって、FGO最大の「顔」であり、FGOプレイヤーなら全員が知っており、と同時に誰も見たことがなく、しかも誰もが一度は考えたことがある……という要素をすべて満たすのは「マシュ・オルタ」しかありえず、彼女は企画をつくる初期段階から登場が決まっていました。上巻の表紙のもっとも目立つ位置に彼女がいますが、イラストを担当してくださったlackさんには、できるかぎりマシュだと一目で視認できるという点には十分注意してくださいとオーダーを出していました。作品のテーマを背負うのはハンニバルですが、もっとも企画を説明できるのはマシュオルタだったので。下巻の一番のポイントになっているのは、いうまでもなく「交換」のシーンなんですが、実はあれはプロットの初期段階では構想にいれてないものでした。あれは上巻執筆後に「ノワール」というアニメを見まして、あれのなかでミレイユ・ブーケが因縁の相手と凶器を交換して決闘するシーンがあり、それを見た瞬間にビビビビーーーッ!!!!!と「これだ!!!!!!!!」と思い、急遽展開に組み込むことになっていました。結果としては大成功で、本当に印象的なシーンに仕上げられたなあと思っています。ちなみに宝具の正体も初期には決まってませんでしたが、書いてる最中に「この設定ならこれしかありえないな」と追加された設定でした。

■師匠について

FGOにおけるワイカルデアの聖杯鯖は師匠と殺師匠と沖田さんの三人なのですが、師匠については原作での扱いに関して物足りない部分が多いので、その分「俺がやったろうやないの」という気持ちで書きました。本来もっと家康と絡む予定だったんですが、端折った関係であんな感じに。ロンギヌスオルタナティブを思いついたときはテンションが上がったのですが、冷静に考えて「ロンギヌスだけでもオリジナル要素でアレなのにさらに師匠のと混ぜたらさらにアレなのでは……??」と思い至り、やめようかなと思ったこともあります。が、最終的には「今更ためらってどーする」という開き直りのもとああなりました。師匠はもっとカワイイ感じに書きたかった。エロじゃない。カワイイ感じで。わかってほしいこの気持ち。外見はエロくてももっとかわいくしたい。あとめっちゃどうでもいい語りをしますが、師匠のエロ同人ってめちゃくちゃ大量にでていて、わたくし、それらにだいたい目を通しているのですが、いまだに納得できるものを見かけた記憶がなく、読み終わった瞬間にいつも「ちっがーーーーーーーーーーーーーーう!!!!!!!!!!!!!!!!!」とキレ散らかしています。どうでもいいですね。ごめんなさい。でもあたし、どうしても言いたかったの。ごめんね。

ところでこの記事、無駄にながくなっておりますが、その意図として「嫌いなやつが書いた長文記事など読まない」という行動を見越して、アンチ的な方がこの記事を読まないようにという意図が籠められています。アンチだと自称しつつこの記事を丁寧に読んでる人は粘着か変態かキチ◯イです。私にこだわるより、さっさと自分の人生を生きてくださいね(お父さんとの約束だぞ)。そして……読まれないように長々と前フリを書いたうえでやっと書けることですが、ありがたいことにGOオルタの売れ行きはたいへん順調でございますやったー!!!!!! 炎上の件があって、売れ行きにも影響がでるのかな……と危惧していたのですが、これマジで重要なので覚えておいて欲しいんですけれど「まっっっっっっったく影響なかった(!)」です。下巻も上巻も、炎上前後で売れるペースにまったく変動がなかったというか、メロンブックスで一度差し止めがあったときもそうでしたけど、販売が再開してからもまったく同じペースで売れています(これはサークルポータルページから確認できるのです)。なので「あぁ……炎上しようがしまいが、買う人は買うんだな。炎上に加わって騒いでいた人は、そもそも買わない人だったんだな」という知見が得られたのは、非常に有益でした。なんで、気にする必要まったくなし。これが理解できたのは本当によかったです。生卵ぶつけられなかったし。おかげさまでGOオルタは累計発行部数が4000部を超えまして、実売数でもすでに3000を超えています。これは漫画と比べてとにかく売れにくい同人小説本であることや、一冊あたりの単価を考慮すればとしては破格といっていい数字で、間違いなく大成功だったと思っています。ちなみにぼくはこうやって売れていくことに対してまったく悪いとは思いません。むしろ良いことだと思っています。だって売れる=儲かるということは、それだけ買った人達を喜ばせているということですからね。誰よりも自分が読みたかった本を自分が作って、それが誰かにとっても喜ばれるものだったということは、大変うれしいことです。今後も自分が楽しめるものをつくって、それで誰かが喜んでもらえるよう頑張りたいですね。たまに誤解されるのですが、私は売れる本が作りたいのではなく、自分が作りたい本が売れたらいいな、と思ってるだけですので(でも売れる本をつくるのが好きでもある)。

■コミック1について

すでにちらっと触れましたが、次のイベント参加はコミック1(4/30開催)になる予定です。何を出すのかというと……そう! Fateといえばアレ、シナリオが終わったら必ずでてくる「マテリアル」を作ろう(願望)と思っています。つまり「Alternative Material」としてオリジナルサーヴァントの設定集的なものを出そうかなと思っています。収録するのは、ハンニバルとマシュオルタのキャラクターデザイン画(初期案とかの本に収録していないやつとか)、あとキャラクター設定資料、用語集、ハンニバルの幕間の物語、とかその辺になります。「Alternative Material」は完全にうちの本を楽しんでくれた人向けにつくるので、少部数であんまり告知もかけない感じになると思います。作者からのありがとう感謝本みたいな位置づけです。あと俺が欲しいからつくる。やっぱりFateで二次創作やってここまでトレースしたなら、マテリアルまでやりきってこそでしょう。

とはいえ、実はすでに並行して動いてるものがこれ以外に2つあり、そっちに稼働が取られてしまうようなら作らないかもしれません。あくまで余裕があればやるぞ、という形で。ちなみに夏コミはまだ未定です。

  ■今後の活動について

コミック1と夏コミのことについては触れましたが、これ以外の活動についても触れておきますと、まだ公開できないけどやってる作業が一本あるのと、それとオリジナルでも小説書きたいなということで企画を作り始めているのが一本あります。前者はうまくいけば2018年中に公開できると思いますが、もしかしたらけっこう先になるかもしれません。後者のオリジナル小説つくるぞーーーというのについては、これも同人誌にするつもりですが、その前に小説家になろうで掲載してみようかなと考えています。小説家になろう。噂のあのサイトに……ぼくもついに……ではないのですが。昔ちょっとのっけたことありますけどね。ただ、なろうで小説書くといっても、最終的に同人誌にするわけなので、ただの同人誌を作る気はサラサラありません。今回も「ドゥフフ……」というオタク笑いが溢れる「自分が作りたい本」を作る予定です。ちなみに途中でほっぽり投げてるレトロミライではなく、完全に新規の企画になります(レトロミライはどうも自分の手に余りすぎた感があるので、いつかやりたいけどしばらく中断になりそうです寝……)。

2017年はGOオルタで世のオタクを仰天させたくて頑張りましたが(そして俺自身も仰天した感がある)、今年2018年はこいつで頑張りたいと思います。とにかく、創作活動は楽しくて好きなので、ずっと続けるでしょう。すでに今年は一月が過ぎましたが、それでは引き続きよろしくです。というかなんだこの記事は。よくわからん記事になってしまった……いつもだけど。まあいいや。そんじゃねー。

『ファンタジー』とは何か、に関する思考メモ。

冬コミの原稿も終わって若干の放心状態でしたが、それも過ぎ去ってぼちぼちと次回作について考えています。次は積年挑んでみたいと思っていたファンタジーをやりたいな~と考えているのですが(正確には4年前くらいに一度30万字ほど書いたのですが、自主的にお蔵入りさせたものがある)、それにあたって以下の記事が非常に面白かったので、自分なりの論点整理や思考をメモしておきます。

なお記事のタイトルがものすごい大上段に構えたアレですが、答えを出すつもりなどサラサラないうえに答えなんか出るわけがないので、そういうのを期待してはいけません。

news.denfaminicogamer.jp

記事には後編もあるようですが(執筆時点で未掲載)、こちらはイラストレーター側の対談企画のようなので、物語作りには関わるものではないっぽいのでスルーしておきます。

対談しているのは『ロードス島』の水野良氏と、『ペルソナ』シリーズディレクター橋野桂氏。両者とも紹介する必要のないほど著名ですが、今回の対談が実現したのは橋野氏率いるアトラスの次回作がガチガチの(?)ファンタジーということに由来する様子。対談のなかでも様々言及がありましたが、流石、『ペルソナ5』をプレイした当時も感じましたがよく勉強しているなと感心させられました(このコメントに他意はないです)。

大まかには、橋野氏がファンタジーの先達である水野氏にあれこれ質問するという形式なのですが、その質問がかなり鋭く良い点をついている。ファンタジーは完全に門外漢と自称する橋野氏ですが、わからないなりに重要な点はわかっているようにも感じました。(なお自分は別にファンタジーに詳しいわけではなく、むしろ橋野氏と同様に門外漢だと認識しています)

以下、議論を整理して要点を掲載します。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?
 ⇒異世界の魅力は「逃避」
  ただし現実の否定ではなく、自分の理想の投影先としての「逃避」
  【メモ】これはコインの両面に近いものだと思われる
 ⇒例:『指輪物語』は第二次大戦の戦争に絶望した故に、理想的な調和を描いた
・ファンタジーの良さは「純化」されている点
 ⇒ゴブリンを倒していた若者が最終的に世界を救うという話
  ファンタジーならできる、現代劇ではできない
 ⇒【メモ】時代小説と機能は同じっぽい
・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?
 ⇒共通知として利用でき、理解をショートカットできるから
 ⇒【メモ】なろう小説のガラパゴス化Jリーグの戦術ガラパゴス化
・魔法の言語体系

 ⇒魔法は独自の言語体系にするか、能力をストレートに説明する名前にするかの二択
 ⇒『ドラクエ』や『FF』は独自の言語体系
 ⇒どこからが現地の言語で、どこからが記号的につけるべきか、作法は?
 ⇒特にない。強いていえばセンス。
・ファンタジーのお作法、常識は「どこから」?
 ⇒ファンタジーに詳しい人は「気にしなくていい」と言うが、それは罠では?
 ⇒本当に気にしなくていい。ただし一定のセンスで選り分ける必要がある。
・現代は中世と似ている時代
 ⇒新大陸が見つかる前の閉塞した奪い合いの時代が中世
  ⇒植民地開拓時代が開始、現在グローバル化によって再び閉塞感が

 

 

以上です。詳しい発言の文脈にあたっては、元の記事を読んだほうがいいでしょう。では、幾つか自分なりの視点でもうすこし敷衍して書いてみます。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?

ファンタジーの重鎮たる水野氏がはっきりと(あっさりと)「逃避」と言ってのけたことは結構意義深いことだなと思います。実際自分も「逃避」だよな~と同意するのですが、記事のなかでは「現実の否定ではない」と言っているものの、現実の否定としての側面を機能させたファンタジーも実際かなり多いよなというのは否定できないところだと思います。

記事中に存在するように代表的には「なろう」系のファンタジーもそういう面は多少なりあると思いますし、そうでなくても現実世界から逃げたユートピアとしての異世界=架空世界というのは、読者の要望として、ありうるものだと思います。

ただ、上の要点整理でも書きましたが、「逃避」と「理想」の反映は、ファンタジーにおいてはコインの表裏みたいなもので、単なる描き方の違いに過ぎません。理想を反映させたものもあれば、「それは逃避だ」と糾弾するものもある。従って、異世界に転生するという機能を逆用して、そういった甘えた読者に過酷さを叩きつける系の異世界モノ、ファンタジーも存在しています。つまり「現実が辛いから異世界に逃げ込んでみたら、実は異世界のほうがもっとキツかった」系のやつですね。

で、この典型例はまさしく、小野不由美さんが書かれた小野不由美十二国記シリーズでしょう。ド傑作なのですが、これ1991年が初刊行で、その頃から学校でなんか辛いな~と思ってた女子高校生が異世界に飛ばされて王様をやるハメになったけど、そのせいで死にかけるような壮絶な困難に巻き込まれる……という、いかにも「なろう」じみた所から話が始まるので、あらためて考えるといやあすごいなーという感じですね。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

 

 その他にも、類例としては村上龍『五分後の世界』や、エロゲーマブラヴオルタネイティヴとかも近しい位置づけになると思います。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

 
マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

 

(リンク貼って初めて気づいたんですけど、マブラヴオルタ、いまPSVitaで遊べるんですね……) 

 こうした、ファンタジーを使って現実から「逃避」しようとする読者・受け手を告発する系の作品は一定周期でポツポツと出てくるようなんですが、こういう作品は批評的な能力の高く、かつ内面的に非常に激しいクリエーターが作りたいと考える傾向がどうもあるようで、だいたい出来上がった作品はやばいです(語彙力)。要するに異世界という「楽園の否定」を物語を通じて行っているわけですから、普通のメンタリティではありえないんでしょう。一歩間違えばこう……アレな感じのアレです(語彙力)。

 

・ファンタジーの良さは「純化」されている点

 これも非常に良い指摘だな~と思ったのですが、これは何もファンタジーだけではなく、時代小説でも同じような機能があるなと思ったので書いておきます。これもファンタジーと同じで、現代ではできない話を訴えることができるという点で共通でしょう。たとえば「人権とは何か」みたいな話を現代を舞台でやろうとすると、複雑な話にせざるをえず、お勉強みたいな話になりがちですが、時代小説なら人権を得るまでの歴史的転換点みたいなのを拾えばいいわけで(※例なので単純に言ってますが、実際はもっとたいへん)。

 物語はテーマに沿った舞台設定があるべきですが(基本的には)、そういう意味で、時代小説だからやりやすい話、ファンタジーだからやりやすい話、SFだからやりやすい話などそれぞれ特色があり、その点はあらかじめ把握しとかないとなと思います。

 

 ・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?

ようするに「便利だから。以上。」

という身も蓋もない感じなのですが、まあ世界的にもファンタジーというジャンルにおいてこれは共通なんでしょう。海外ファンタジーを見ても、オークとかエルフは普通に出てくるので、やっぱり理解をショートカットできるというのは社会を選ばず大きいのだと思います。

そういえばちょうど先日、作家の入江君人さんが「なろう」小説に関して似たような言及をしていましたね。

 自分も「リノリウムの床」って書いたことあるので、あーわかるー、と思いましたが(笑)。

「なろう」小説ではドラゴンクエストなどを始めとした「ゲーム」に関する基礎知識を前提として書かれたものが非常に多く、これは二つの面で理由があると思います。ひとつは「書き手側が下調べをしなくて済む(=ファンタジーはよく知らんけどゲームのことなら良く知ってる)」のと、もうひとつが「読み手もゲームのことならよく知ってる」ということ。なろうの功績の一つは「書き手になる敷居が非常に低い」ことにあって、それゆえに読者が作者に、作者が読者になるという双方向性があります。その点で、共通知である「ゲーム」は国内のファンタジー事情において非常に「便利」なのだと思います。

……まあこれは海外ファンタジーでもエルフやオークが多用されるのと理由としてはそう変わらないんでしょう。「便利さ」には勝てないようにできているのです、人間は。

しかし一方で「ゲーム」が便利に扱われるというそれは、インタビュー記事内でも『ヒックとドラゴン』の続編が上映されない!と水野氏が嘆いているように、ガチのハイファンタジーを受け入れる土壌が国内にあまりないという事情の裏返しでもあるように思います(ヒックとドラゴンめちゃくちゃおもしろくて完成度も高いんですけどね……)。「なろう」的なものが海外にもあるのかは知りませんが、まあ国内ファンタジーはけっこうガラパゴス化してるんじゃ?というのは読んでて感じました。

そこで感じたのは、まあサッカーのJリーグのことなんですけど(急激に話が跳ぶ)。

自分はわりとサッカーの記事を読むのが好きであちこち色々拾い読みするんですが、国内のサッカー状況と海外トップレベルのサッカーを取り巻く状況って、(当たり前ではあるんですが)非常に異なっているんですよね。

Jリーグでは通用するような戦術が、海外でいくとあまりにも基準が違いすぎてまったくもって通用しない……という話は、そこらじゅうのサッカーにお詳しい方のブログで読むのが嫌になるほどさんざん語られているのですが(笑)。

まあつまり、ようするに、Jリーグの戦術もガラパゴス化してるんですわ。で、国内ファンタジーも(なろうだけ切り取れば)ガラパゴス化が進んでいるように見えるけれども、果たしてこのままで大丈夫なのかなぁ……というのはちと心配になりました。まあ、そもそも小説漫画アニメの日本市場は非常に大きいので、これまでは完全に国内向けに作っていれば何も問題はなかったわけですが……しかしスマフォゲーム市場ではすでにワールドワイドの戦いが始まっているように、小説漫画アニメもこのままでいいとも思えないんですよね。そうなると、本当にこのままでいいのかな……というのはちょっと危惧したりしています。(でもそれじゃあ海外向けに作ればいいのか?というとそれもなんか違う気がするし、個人的にも悶々としているところです)。この辺りは、個人的に継続調査対象かな、という感じです。

 

だいたいこんな感じです。

ファンタジーについてはまだまだお勉強不足ですが、がんばって調べたいところですね。では。

妹尾ありか著『アカーシャの舷窓』感想

アカーシャの舷窓(ありや)の通販・購入はメロンブックス | メロンブックス

 

■まえがき

 お友達の妹尾ありかさんが今夏のコミックマーケットで頒布した、新刊『アカーシャの舷窓』についての感想記事です。実は自分(橋本しのぶ)が本作のカバー・表紙のデザインを担当しております。つい先日、中身の小説についても読み終わったので(※一応言っとくと概要と表題作については事前に読ませてもらっていました)、私の新刊(『Grand Order/Alternative』上巻)の告知サイト製作もしていただいたし、お礼も兼ねて感想をば。当然の如くネタバレ記事なので、未読の方はUターン推奨。

 本作は短編集となっており、表題作の『アカーシャの舷窓』『海の蜻蛉、妖精の幻』『ブルースフィア・サブマリンショウ』の三作で構成されているものです。それぞれ彼の既刊である『フィニクスフヴォースト』シリーズや『心造少女』シリーズと世界観を同一にするもので、各短編の主要キャラクターである龍驤、あきつ丸、皐月、曙、イムヤ、響、朝霜らを中心に描かれている。

 一読して、楽しませて貰いました。

 もともと彼の既刊は読んでいたので、十分楽しめるだろうと思っていたし、実際に十分楽しめたと思います。読んで損するということはまったくないと思います。お金を出す価値は十分にある。

 た・だ・し

 その感想は基本的にかわらないものの、僕は彼のことを非常に買っているので、どうせならもっと良い作品書いて欲しいな~~と思うので、色々と厳しいことを書こうと思います(えらそう)。なお、以下のことはだいたいの内容は実際に対面したときに既に彼に伝えているもので、これから書くのは自分自身にとっての整理のためが主な目的になります。その点、了承の上おねがいします。

 

■短編ということについて

 本作を一読して何より思ったのは「やっぱり基本的には長編をのびのび書いてたほうがいい人なんだなー」ということでした(※いきなりわりと酷い発言)。

 いや、決してつまらないとかって言いたいわけじゃないんですけど、彼の良さはやはり長編のほうが出やすいんでしょうね。基本的に世界の設定をつらつらと書いていたほうが筆が乗ってる感じがあるので、そうなると短編だとどうしても「一部を」「ちょこっとだけ」切り取ったような寸足らずな印象が強くなってしまうんでしょうね。

 彼がキャラクターも書ける人なのと、自分が個人的にキャラクターを中心に据えてよむことが多いからそっちに目が行きがちなこともあって、処女作の『フィニクスフヴォースト』を読んだときは「キャラクターが描きたい人なのかな???」と思っていたんですが……まあ改めてやっぱり見ると「やはりややマクロ(世界そのもの)寄り」な気がします。キャラクターそれ自体にもフェチズムは感じるし、実際に書けているとも思うんだけれども、基本的にまず世界があって、その上でキャラクターを仮想で走らせるとどうなるか?ということに興味がありそうな気がするので、やはりマクロ寄りなんでしょう。そういう意味では、作家としてただしくSF向きな資質な気がします。私の読んだ感じとしては、彼の興味の比率としては「キャラクター:世界=3:7」か「4:6」くらいだと思う。

 で、そういう前提の上で読むと、今回の短編は彼の資質や興味のバランスがそのまま表出した、やや微妙な塩梅の作品に仕上がっているような気がします。

 というのは「そもそも短編って何よ?」みたいな話から始めなければならないと思うのですが、(あくまで私見だとしておきますが)短編っていうのはまず第一に求められるのは「切れ味」だと思うんですよね。

  切れ味というのは、つまり言い換えると「アイデアの新鮮さ」となるでしょうか。つまりその短編それ自体に含まれる情報の新しさ、とか目新しさとか、そんな感じのアレです。具体的な定義についてはフワッとしておきます。 僕自身もあんまりちゃんと決めてないので。あと「お前もできてないやんけ」みたいなツッコミもなしで。僕そもそも長編しか書けない人なんで(へっぴり腰)。

 話を戻して。

 短編になぜ「切れ味」が求められるのか? というと、まあ簡単な話で単に「それを求めるしかないから」だと思います。物語というのは短くなるほど、単なる「情報」としての側面が強くなってしまうものです。そうなると価値の基準として情報それ自体の価値に焦点があたってしまう。

 ネットの記事とか想像すればいいんですが、知ってる情報には価値はないですよね。あるある的な共感はあるかもしれないですが、情報自体に価値はない。たとえば「毎日ちゃんと歯磨きをしたほうがいい」というのは誰でも知っていることで、改めてそんなことを言われてもべつにその記事に価値はない。だけど「寝る前に歯磨きをするのは害悪である」とか言われたら、そんなことは(真偽はともかく)大半のことは知らない情報でしょう。いや実際に害悪かどうかは関係なく、情報として「未知である」がゆえに価値が見出されるとか、そういうことです。

 じゃあ長編はどうなのか? というと、長編は求められるものが違います。長編になるほど物語には「体験」が求められる。それは情報としての価値を求めているわけではない。物語世界において何が起こり、それを追体験し、様々なキャラクターの目からそれを知るという「体験」にこそ価値がある。短編とはそもそも求めるものがまったく違うわけです。それは一人称だろうが三人称だろうが、基本的に視線の位置が変わるだけで不変のことです。長編においては、体験としての稀少さにまず第一の価値が置かれるものだと思います(私見です)。

 で、そういった価値判断基準の御託を述べたうえで、彼の短編について自分がどう感じたかですが――その点においては、三作とも短編でありながら「体験」を描こうとしている(というかその区別があんまりついてない)惜しい内容になってしまっていると思う。特に表題作の『アカーシャの舷窓』について。

 これは本人にも伝えましたが『アカーシャの舷窓』で描かれるさまざまなマクロ設定は、なるほどこれは彼にしか思いつかないだろうなというオリジナリティのあるアイデアなんですが、そのアイデアの使い方というか、見せ方が短編なのか長編なのか曖昧な処理になってしまっている。いうなれば物語の『ダイジェスト版』になってしまっていて、素材からすれば長編的な体験の積みかさねの果てに「こんな衝撃の新事実でしたドーン!!!!!!!!!!!!!」とやるのが効果的なアイデアなのに、短編ともどっち付かずの描き方なので、いまいち衝撃的に受け止められないというか。

 たぶん本人としてもまだ、短編の処理と長編の処理の違いについて腑に落ちてない段階なんだと思います(すごくえらそうな発言)。アイデア自体はすばらしくて、実際、デザイン関連の打合せをした際に「こんな感じの内容なんですけど……」と聞いたときはめちゃ面白そうに思ったので、やはりこれは小説の技術的な見せ方の問題でしょう。長編的な「体験としての新事実開陳」をすべきだったのか、それとも短編的な「サラリと重大事実を告げてトントンと話を畳む」方法でいくべきだったのか(他にもいろいろやりかたありますが)。何にせよ、そのあたりの方向が曖昧だったことが一番の問題なのではないかと思います。

 『アカーシャの舷窓』についていえば、個人的には長編的な情報開示と、短編的な情報開示、どっちでやるのもありなネタだとは思うのですが、いかんせん彼が「描きたいもの」としては「長編的な体験」のほうだと思うんですよね。 それを短編で実現させようとしてしまったが故に、中途半端な描き方になってしまってるなあと。おそらく、この内容を(アカーシャの舷窓の内容を)そのまま圧縮せず長編として書いていたなら相当おもしろい話になっていたでしょうが、まあそこはそれというか、長編でも短編でも常に百点満点をだせる作家など存在しないので、今回はこれで良かったのだと思います。むしろ、彼の小説書きのキャリアとして考えるなら「このレベルの失敗」をこの段階(書き始めて数年)でできるのは素晴らしいことで、今回の短編チャレンジは全然大成功だとすら割と本気で思います。 この一作で、長編向きの資質の持ち主だということは明らかになったと思うので、今後の身の振り方としても必ず役に立ちますしね(えらそう)。

 なお『海の蜻蛉、妖精の幻』『ブルースフィア・サブマリンショウ』の2短編はリズム感もそれほど悪くなくて、ちゃんと短編として成立していると思います。なので面白かったのですが、だから余計に表題作における題材と描き方のコンフリクト感?というか、チグハグ感が目立ったんでしょうね。

 

 §

 

  微妙に話がつながっていないので、前フリを回収しておくと、そもそも本当は短編でいくなら、キャラクター重視でいくのか、世界観・世界設定重視でいくのかの舵取りも事前に決めておくべきだったのだと思います。

 ありかさんの場合、興味関心がどちらにも向いていると思うのですが、しかしどちらも十分に満たしながら短編を処理するのはこれは非常に難しいと思うんですよね。基本的にキャラクターと世界というのは排反しがちなもので、どちらかと書けばどちらかが足りなくなる傾向が強いものなんです。長編ならばその辺りを尺の長さで解決できたりするのですが、短編だとやはりどちらかに全振りしないと難しい。その点、収録している三作ともキャラクター:世界=3:7とか4:6そのまま全部そんな感じだったので、それは確かに処理しきるのは難しいよな、みたいに思いました。世界設定自体が十分に魅力的なものにできていると思うので、たぶん僕以外の読者的にも、世界の設定開陳がメインの短編を書いたとしても割りと受け容れられそうな辺りは、彼の強みだと思います。

 

■まとめ

 偉そうに色々書きましたが、まあ実際難しいんですよね。僕も短編とか上手く書けないし(えー)。とはいえ、長編というのも結局は「短編の集合体」でしかない面もあり、短編のスキルは確実に長編にも活かされるものです(逆に、長編ばっかり書いていてもなんだかんだで短編的なスキルも身についたりするものだと思います。手前味噌ですが、実際自分は、以前は短い話まったく書けなかったけどなんとか書けるようになったし)。そんなわけでまあ、厳しいこともちょいちょい書いたのですが、彼ならば問題なく乗り越えられることでしょう(えらそう)。

 あとこれは余談なのですが、彼の書く小説からは……なんだろう? 何故なのかいつも猛烈な男性不信(というのか?)を感じるのがいつもすごく不思議で驚かされるんですよね。心造少女もそうだし、ブルースフィア(略)もそういう話だったので、なんでこういう認識になるんだろう……といつも目を丸くさせられます。まあ、このあたりは『心造少女』が「まさに!」という題材だと思うので(マルドゥクシリーズが土台になっているようですが)、なるほど目の付け所が良いなと思うとこでもあります。以前の記事でも書きましたが、『フィニクスフヴォースト』シリーズは3巻の物語の処理の仕方がちょっとうまくなかったので、『心造少女』ではそれが題材として十全に描ききれることを期待したいですね。

 では、このあたりで。

企画の立て方についてのメモ

■企画作りの方法論を求める経緯

 えー、僕は同人小説書きなわけですが、企画の作り方については人並みに(?)悩まされてきた方でして。

 企画作りっていうのは、なかなか難しいもんなんですよ。ここでいう「企画」とは、ざっくりと「どんな作品にするか?」くらいの意味です。小説を書くまえに「じゃあどんな話を作ろうかな?」と頭をひねらせるわけですが、なかなかどうしてどっかで見たことのある「あんまおもしろくない企画」ばかりが出来上がってしまう。ありふれたパクリばっかになってしまって。

 なのに色んなしがらみもあり、〆切りもあり、いまいちな企画でもとりあえず書き始めなきゃいけないということはままあります。だから結果として「あまりよくない企画だけど完成した作品」というのは、世の中にはわりとけっこうあるんだろうな、なんて思うんですけど。

 そんなふうに「あんまり良くない企画だ」と思いつつも、とりあえずいっぱい小説書いていればそのうち良い企画も作れるようになるだろ~ガハハ! と楽観的に考えていた時期もあったんですが、すでに十数本長編を完成させた経験からいって、そんなことはなかった(つらいですね)。

 こうした経験から得たのは、良い企画を作るためには、良い企画を作るための方法論をちゃんと学ばないとできるようにはならないのだ、というごく当たり前の知見です。愚者なので経験からしか学べませんでした。なんてこった。

 だけど一言言わせてもらえるなら、世の中には「良い企画」=人気が出る=需要がある企画を作る方法論は、特に物語製作についてはほぼまったくノウハウ化されていないと思うんですよね。これたぶん出し惜しみとかじゃなくて、本当にみんなよくわかってないんだと思う。単純にそういう学べる教材それ自体がない。

 だってさ……僕はこれでもけっこうな数の創作系の本を読みましたけど(「こうやってシナリオを作る!」みたいな本。ハリウッドのあれとか)、企画の作り方ってほとんど書かれてないんですよ。いや恨みつらみじゃなくて事実としてそうなんですって。本当にないの。正確にいえば、エッセンスとしてそういった「良い企画」につながりそうな要素が書かれていることはあるんだけど、それだけを理解しても決して良い企画にはなりえないというか。そういうのばっかりなんですよ。おこですよおこ。激おこぷんぷん丸です。いやまあ、そもそも企画作りというものが自由度が高い作業なのでメソッド化するのが難しいんでしょうけれど。

 根本的な(主語のデカイいっそ炎上してしまいそうな)話をすると、これって日本企業が抱える構造的な問題なんだと思います。日本企業って、以前から品質を高めることは得意だけど、「求められる製品」を作るのって苦手じゃないですか。箱庭的に一つの商品を性能はそのままでパワーアップすることは大得意だけど、まったく別の新しい価値を作るのは苦手というか。だからそもそも良い企画の作り方を理解できる人のほうが少ないんだろうと。(といっても、海外のシナリオ作法本とか読んでもダメなのはダメなので、あんまり関係ないかもですが)

 

イノベーションについて調べ始める

 話を戻して、そういうわけで既存の創作本を読む限りでは、良い企画を作るのは難しい!という限界を、かつて私は感じたわけです。なので視点をもっと広げて、ビジネスの世界で良い企画(良い製品)の作り方を探せば、何か使えるノウハウがあるのではないか???と当時の僕は考え始めました。

  いま振り返って考えてみれば、この考え方は正解だったと思います。たしかにビジネスの世界では「どんな話を作るか」よりも更に応用的な企画作りのノウハウが転がっていました。それもそのはずで、だいたいビジネスの世界だとサプライチェーンを考えれば明らかだと思いますが、モノを作るだけで完結するということはまずありえない。その商品をどんなふうに画期的なのか説明し、どんな風に流通させ、どんな風に客を囲い込むか……という戦略まで含めて考えなければ利益なんて出るはずもないからです。とくに現代においてはそう。

 「どんな話を作るか」だけでは考ええないことが大量にあり、その解法もまた幾らでも存在する。創作だけの視野狭窄なままではわからなかったことなので、ここは非常に正しいアプローチだったと自画自賛します(いえーい)。

 で、当時の自分が企画作りにおいて、何をまず調べ始めたのかというと、イノベーションについてでした。

  イノベーションってなんかカッコいい響きですよね。つよそうだし。なんかオサレ感あるじゃないですか。なので、いやっふーこれはもう勉強するしかないぞう! ……という、よこしまな理由だけで勉強したわけじゃないです(笑)。いやちょっとはあるけど。

 当時考えたのは、本当の意味で優れた製品なら当然それはイノベーションを引き起こすものだろう、と考えたから。当時はiPhoneとか出始めたばかりでしたし、それまでのケータイ文化からするとiPhoneって革命的だったじゃないですか。言葉にできなくとも画期的なことが直感的にわかるという。指でこう、すい~~~ってやるのかよすげー!みたいな。

 そういう背景もあって、とりあえずイノベーションについて勉強し始めたんですが……残念ながら、ここでもすぐに良いノウハウが得られたわけじゃありませんでした。ジョブズの本とか、他のイノベーションとはどう起こすのか?みたいな小難しい本も色々読んでみましたけど、読んだ感想としては「小難しい!!!!!!!!」というものをでなくて、果たして創作でそのまま使えるかというと、まあ使えないよねというものばかりでした。

 なぜそれらの本が使えないのか? 理由は明白で、それらはイノベーティブな案件の「条件」については記載されているけれど、ではどうやってそれらを作るのかについては記載されていないからです。

 つまりイノベーティブだった製品を結果から振り返って「こういうところが優れていたよね」と指摘しているだけで、ではそれらはどうやって引き起こすのか?というプロセスについては指摘できていないものばかりだったんです。あるいはジョブズの関連でいうなら、「こういう天才だから発想できた」みたいな、方法論として全く機能しないものばかりで、じゃあ結局どうやりゃいいんだよ!!!!!!!!!!という気持ちが蓄積するものばかりだったわけです。

 大概それらのイノベーション関連の書籍って、ではどうするのかという点については、ブレインストーミングとか既存のアイデア出しの方法論で「なんか頑張って」、イノベーティブな条件に達するまで粘る、くらいしか書かれていない。どう頑張りゃええねん。いや、それはそれで間違いではないと思うのですが、どうにも狐につままれたような気持ちは拭えません。頑張ればそれでいいの? 本当に? アイデアを出そうとするだけでイノベーティブなものが出来るの……? 良い企画って作れるものなの……? と。そんなふうに納得できないまま更に一年くらい経った気がします。

 

イノベーションの方法論について、だいぶ納得してくるの巻

  なんだかエッセイ?みたくなってきてしまいましたね。でも小説書きだからこういった文体になるのはある程度しかたないんです。ダラダラ書いて申し訳ないけれども、そもそも自分用のメモというのが第一の目的なので、その辺については勘弁願いたい。しっかり構成する苦労を味わうのは小説だけで十分なんで……。

 で。

 そんなわけで「イノベーションって本当にそんなんでできるの……?」と懐疑的な気持ちのまま日々を過ごしていたわけですが、青天の霹靂のごとく「あっ、これだ!」と思えるものを見つけることもできました。ブログやツイッターでもちょこちょこ言及したりしていますが、濱口秀司さんの提唱?するイノベーション関連の理論ですね。 

diamond.jp

 

  初めて目にしたのは↑の記事です。

 ちきりんさんとの対談中では具体的なイノベーションについての方法論は語っていないのですが、他の記事を見ればいろいろと言及があります。

logmi.jp

 この記事とか。 

diamond.jp

 以前も貼りましたけど、この記事とか。あとTEDのプレゼン動画とかも公開されており、そちらも非常におもしろかった。

 若干キモいレベルで濱口さんのネット上の記事を検索してまわっているので、ほぼ全ての発言について舐めるように見たのですが、それぞれ微妙に発言内容が変わっております。あと最近だとハーバードビジネスレビューにて「SHIFT」という連載記事を書かれているので、そちらも読んだりなどしています。

 んで。

 そこまで色々読むのは、これまで調べてきたイノベーション絡みの説明において、氏の説明がもっとも納得感が高かったからなんですよね。

 どの記事での言及だったかはわすれましたが、イノベーティブな発想というのは、ただのアイデア出しでは絶対に生まれないと断言しているんですよね。何故か? それは既存の思考法から生まれたアイデアは必ず思い込み(バイアス)に汚染されてしまっているので、本当の意味で画期的なものになりえないから。

 ようは、本当に画期的なものは、自分の頭のなかの「思い込み」を壊すことでしか達成できないので(考えてみれば当たり前なんですけど)、既存の思考フレームを使ってアイデアを出そうとしている段階で、そもそも既に思考に偏りが生まれているんだから、優れた発想=イノベーティブなアイデアが出るわけがないという。

 まあここで詳細を論じることに意味はないので、とりあえずそーゆーものだということで話を進めます。詳細は実際に彼の主張を見たほうがいいでしょうし。

 氏の主張は、僕にとってメタ視点でアイデア発想法それ自体にダメ出ししている点からいっても、非常に納得感の高いもので「なるほどな!!!!!」と膝を打ちました。その他の記事も面白いんですよね。初めてHBRに掲載された「デザイン思考を超えるデザイン思考」っていう記事なんか、デザイン思考なんかでイノベーション起こせるわけねーだろ(意訳)と真正面からバッサリ切って捨ててて、あまりのロックさにめちゃくちゃ笑いました。よほど自信がないとできないことです。(実際、その自信に見合うだけの、大量のイノベーションを引き起こしてきた実績が凄まじいのですが……勝率おそらく100%?)

 

■なんで単著出さないの?

 そういうわけで、より深くその方法論について知りたいと思い、ネット上の記事やら何やらを漁っていったわけなんですが……。

 そもそも、なんでネット記事なの? と。

 そもそも、書籍とかあるなら読めばいいじゃん? と。

 普通はそう思うじゃないですか。そりゃそうです。だけど、濱口秀司さんって驚くことに一冊も著作されていないみたいなんですよ(!)。読むべきものがネット上の記事しかない(笑)。なのでやむなくネット上の記事を読んだりしていました。不思議なのは、彼の著作を読みたいであろう人は明らかにかなり多そうで、恐らくは出版社も声を掛けていると思うのに、それでも待てども暮せども本が出てこないということ。なんでなんだろう? とずっと不思議だったのですが、先日Newspicksの有料記事を読んでやっとその謎は氷解しました。

 彼がそうした単著を書かないのは、ようは育成を考えてのことらしいんですね。私の言葉でざっくり説明しますが、彼がいうに育成には二種類あって「言語化できるもの」と「言語化できないもの」があると。直接「これこれこうやればいい」とマニュアルとして伝えるのは言語化できるもの。そしてその分野における文化や背景・文脈に関する知識やスキルは言語化できないものになる。で、育成にはこの両方が必要になる。

 学校の義務教育などは前者の「言語化できるもの」に相当します。書籍によって伝え記すものもこれに該当します。この方法のメリットは伝達効率が非常に良いことですが、デメリットとしては教えられる側(生徒)は、教える側(教師)を絶対に超えられないという点がある。

 対して、文化や背景についてべったり付き添って教える非言語的なものを伝える育成は、例として挙げるのは刀鍛冶だとか。刀匠は弟子入りしてもすぐに刀を打てるわけじゃなくて、最初のうちはただ見てるだけ、雑巾がけするだけ。それで10年くらいたってやっと「とりあえず一回鉄叩いてみる?」とようやくなる。刀鍛冶の文化を学んでから(つまり文脈や背景・師匠の抱える問題点などを予め分析しおえた状態から)始める。この方法のメリットは、学ぶ側が師匠を超える確率が高いという点。そして、デメリットは非常に時間が掛かるという点になります。

 濱口さんが本を出さないのはこれが理由のようです。つまり、自分を超える人材を育成しようと思ったら、べったりと教育させてはいけないのです。

 実際には、なかなか十年なんて待ってられないので、言語的なものと非言語的なものを上手く行き来しながら教えるようですが、そういう理由もあって、濱口さんは意図してすべての方法論を開陳することはしていないらしいんですね。自身の作業については完全に方法論として体系化を済ませているようですが、その理屈を一部のみしか公開していないと。

 ここで私はまた壁にあたったわけです。全部わかんないなら学びきってるわけじゃねーんです!???!??!??!(????)っていう。

 

■本当の方法論は自分で見つけなければならない

 いや、しかし濱口さんの仰ることは自分にとって、なにか伏線を回収された(笑)ような気持ちがありました。

 というのも、たしかに濱口さんの述べる方法論、理論はあくまで理論でしかなく、じゃあ具体的な、実践的な場で即座に使えるかというと、そうではないからなんです。なぜなら、その理論というのは実施者のスキルが伴って初めて有用なものであって、身についてなければ壁に書いたオモチと変わらないわけなんですよ。たとえば彼のイノベーションの方法でいけば、一度出したアイデアからバイアスとなる共通した「軸」を取り出すのが重要になります。ただ、それは非常に難しい。センスが必要になる。

 たとえば先に掲載したUSBメモリを開発した経緯についても、「物理的に持ち運び可能かどうか」という軸と、「データ容量の大小」を軸にとってバイアスを壊そうとしている。けれど、この軸を取り出すこと自体が訓練を経ないと(=非言語的なスキル習得を経ないと)非常に難しいんです。これは実際に自分自身でこの数年間、企画作りで同様の方法論を用いてチャレンジしてみてわかったこと。良い軸を出すのはなにか学習がないと(自分なりに腑に落ちる経験がないと)上手くできない。正直今もうまくできてるとは言い難いです。

 えー、というわけで。

 ここからようやく、最近の自分が学習したことについての記述になるわけですが(全日本前置き長すぎ太郎左衛門)、ここから先は氏の発言を分析しつつ、自分で手探りしていくしかなかったわけです。ただガイドラインはすでに貰っているわけなので、あとは自分なりに深めていけばいい。ちょっとずつ自分なりに理論を深めていこうというのがここ一年くらいの状況でした。

 それでわかった重要な点は、大まかに以下の2つです。 

  • 企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)
  • 共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 自分のなかで概念を整理するために書いているところがありますので、若干面倒なんですがひとつずつ書いていこうと思います。

 

■企画自由度について(小説を書くのにマーケティングやデザインって必要なの???)

 必要でした(結論)。いや……なんかすごく当たり前の話ですが……。でもたぶん一般的に考えられているマーケやデザインとは微妙に異なる考えでもあると思いますが。

 まず自由度について書いておきたいのですが、自分は小説書きなので、そもそも濱口さんの理論についても漠然と「ビジネスの点はよくわかんけど、企画作りだけでも流用できればいいや~~(笑)」なんてお気楽に考えていたんですが、どうもそれだけでは上手くいかないらしいぞということがわかってきたんですね。

 というのも、小説というのも結局は一つのコンテンツに過ぎないわけで、それを読者に届けるところまで考えなければ作品は完結しないわけじゃないですか(本当か?)。そう考えると、当たり前だけど普通のビジネスとやることはなんら変わらんわけですよ。つまりその作品を「どんなふうに届けて」「(小説なりなんなりを通して)どんな体験をさせるか」まで考えなきゃ、小説を作ってるとはいえないのでは……?とかそういうことを考えはじめたわけです。

 しかも小説「だけ」考えていては、良い企画って、もし仮に作れたとしてもヒットできるほどになるかといえばならない確率は高いんですよね、というか高そうなんですよ。そもそもの話として「良い企画は必ずヒットする」というのは幻想であって、百パーセント的中するわけではないという前提があります。濱口さんの理論でも、できるのは的中率を「高める」ことであって、必中ではない。ただ企画を作る以外の部分でうまく差分を作っていく(導入させる=マーケティングさせる)ことで、的中率を必中に近いところまで高めていくことはできる……ということらしい。

 つまり何が言いたいかというと、少なくとも現在の世界においては、良い商品を作るだけでそれが商業的に成功が得られるかというと、全然まったくそんなことはないということです。ということは、もともと自分が考えていた「小説だし良い企画さえ作れればええじゃろ、ガハハ!」という考えはまったくもって間違いだということです。そもそもそんな考えは良い企画をつくったとはいえない。かなしい。

 すでにちょっと触れましたが、じゃあどうやって的中率を高めるのかというと、濱口さんの場合は幾つかの要素に狙いをつけて、それぞれで苦労して(?)的中率を高めているらしい。それが記事でいくつか触れている「ストーリー」や「デザイン」や「機能」、そして「社内マーケティング」「社外マーケティング」の部分らしい、ということまで関連性がわかってきました。

 前述した3つ(ストーリー・デザイン・機能)については、濱口さんの記事を見ればいいとして、マーケティングについてここでは触れておきたいと思います。また社内・社外の区分けは一旦おいておきます。

 そもそも、マーケティングとはなんぞや??????

 といわれて、けっこう昔の私(10年前くらい)はなんとなく「売れるための技術……???」と考えていたことを思い出します(上記でいえば社外に対応)。だってマーケティングってお客さんのことを調べて、そのお客さんが求めてるものを売るって仕組みのことを指してるんでしょ……だったらつまりそれって売れることじゃない……ねぇ、ミァハはどう思う……(?)と考えていたんです。

 が、これは間違いなのです。

 なのです、と断言しちゃうとやや不安ですが、自分はそういう理解をしています。自分の言葉で説明すると、マーケティングというのはある側面では「企業の延命技術」であり、そしてもっと本質的なことをいえば「導入」にすぎないのです。たぶん。思い切ったことを言っちゃったね。こわいよう。

 えー、昔聞いた話をします。人から聞いた話をそのまま話しているだけなので、真偽のほどは自分で判断してください&細部は間違ってる可能性が大なのでそこは理解してくださいね、という逃げ道を作ってから話します。というか書きます。

 とあるレコード会社の話です(たしかエイ◯ックスだったと思いますが違ったかもしれません)。仮にA社といっておきます。A社は一時期、マーケティングを使って音楽業界における地位向上・及び利益向上を目指したことがあったそうです。どうマーケティングを使ったのかというと、消費者の動向分析を行って「どんな曲がどんなタイミングで流行るのか」の調査を行ったらしいんですね。

 そこで明らかになったのは、例えばしっとりした曲調のバラードが流行ったあとは、今度はアップテンポのリズミカルな曲が流行り、そしてその後はふたたびしっとりしたバラードが来て、そしてその次はまたアップテンポの……といったような、曲調の流行り廃りの波のようなものが存在するということでした。一時期小室哲哉がヒットメーカーとして名を馳せましたが、彼がやっていたのと似たようなこと(というか同じ?)です。ようは次にどういう曲が売れるのかを分析し、更にそれに合致する曲を提供することで、売上を確保し、さらには市場を独占しようと試みたわけですね。

 このチャレンジの結果、A社は見事にヒット作を連発しました。

 出す曲が次々にヒットし、目論見通りに市場の売上は独占。マーケティングの作戦は大成功した……かのように見えました。しかし、結果として何が起こったのかというと、市場の縮小が起こったそうです。つまりたしかにヒット作はいっぱい出たんだけど、その代償として、自分が参加しているフィールド自体があっという間にしぼんでしまって、業界の総体的には売上が下がってしまったんです。マーケティングを駆使したはずなのに。結果として、A社の先行きの見通しは暗いものとなってしまったそうです。

 ……以上、実際にあったらしい話です。

 つまりこれが何を示唆しているのかというとマーケティングでは企業は成長することはできない」ということだと思うんですよね。これを知ったとき私はとてもびっくりしました。売れるための技術だと思っていたマーケティングでは、予測された売上しか出すことができない、単なる延命処置にすぎないってことなんですから。

 でも考えてみればわかるような気もします。たしかに日本のレコードメーカーって、定期的に「どこかで聞いたような、でも心地いい曲」って出してくるじゃないですか。なんとなくわかってくれると思いますけど。それを聞くたびに「ああ、いいなー」とはたしかに思うんだけども、同時になんか「飽きてる」のも感じるというか。たとえ次に何が欲しいのかがわかっても、消費者が飽きてしまうという状況は避け得ないということなんでしょうね。面白いですね。

 なお、この話にはもう少し続きがあって、こうした狙ってヒットを作る小室哲哉とミリオン連発は当たり前のミスターチルドレン桜井和寿さんが対談したことがあったらしくて(これだけでもうおもしろいんですが)、

 その時の話の噛み合わなさがすごかったそうです。小室さんが「ここをこうやって作ればヒットになりますよね」と理論から曲作りについて語っていたそうなのですが、そこで小室さんは桜井さんに聞いたそうです。「あなたの場合はどうやって作っているのですか?」と。すると桜井さんはこう答えたそうです「いや……なんか気持ちいい曲を……」と(笑)。

 初めてこの話を聞いたときはそらもう笑いました。ですがこの両者の比較で重要なのは、真にイノベーティブな企画は計算できないということです。桜井さんが素晴らしい曲を書くのは明らかですが、自身が「飽きて」いないことについても疑いの余地はありません。ようは、消費者が要求する「波」は定期的に繰り返すものだけれども、その「次の波」は「前回の波」とは異なっているということで、その計算は普通はできない。桜井さんはたぶん自身が消費者でもあるからなんでしょうけど、その次に欲しい「波」を感覚的に掴んで「気持ちいい」形として表現する才能に長けているということなのだと思います(余談ですが、そうした企画を作る人間=イノベーティブな企画を作れる人材には何が必要か? という観点から、更にその人物の持つ「狂気」が必要という話つながっていくのですが、それはまた機会があれば)

 話が盛大に逸れていますので、ちょっと路線を戻します。

 マーケティング(=小室さんのやったこと)は「企業の延命技術」にすぎないと言いいましたが、その意味はちょっとは伝わったでしょうか。すくなくとも僕はそう認識しているという話ですが。で、じゃあ企業ってどうやって成長するの?というとイノベーションを起こすことによって(=桜井さんのやったこと)成長するわけで、マーケティングとはつまり「次のイノベーションを起こすための場繋ぎ」でしかないんですね。そもそもだから僕はイノベーションについて調べ始めたわけなんですけども(以上、10年前の話でした)。

 そういうわけで、僕はこれまでけっこうマーケティング軽視をしてたというか、マーケティングを学んでも売れる企画なんて作れないんだ! 意味ないじゃん!! なんて思っていたんですけど、ここ最近その認識が少しずつ変わりつつあります。それが濱口さんの理論を経由したからなんですけれども。

 ようやくしたかった話に繋げられましたが、なぜ認識が変わってきつつあるかというと、マーケティングってつまり「導入」なんだなと理解できてきたからです。あるいは誘導といってもいいかもしれません。

 イノベーティブな企画はただそれだけで成功するか、という問いを立ててみましょう。その問いには「否」という答えが返ってくると思います。なぜならば、たとえばiPhoneは誰が見てもイノベーティブな製品ですが、それをたとえばアマゾンの未開の原住民に渡したところで、彼らはその有用性を理解できないでしょう。つまり、その製品がどれだけ有用だったとしても、それは「特定の消費者のゾーンのなかで」のことであって、必ずしもすべての人類に共通しているとは言えません(実際にどうなのかは製品次第なところがあると思います)。

  そういうわけで、良い企画を作ったとしてもただそれだけではいけない。それをユーザーに伝えるための導入が必要だ……ということで、濱口さんもマーケティングを重要視しておられるのではないかなーと考えたわけです。そういうわけで自分自身もこの二度目のパラダイムシフトによって、もう一度マーケティングについて見直さないといけないなと考えているのがここ最近の状況なのでした。(自分の同人誌についていえば、そういうわけでデザインをこれまで以上に重視しはじめているのはそういう理由もあります。)

 

■補足:企画自由度について

 更に、まだこの記事で「企画自由度」について全然触れられていないのですが、これについても書いておきます(企画自由度というのは僕の造語です)。

 濱口さんの理論では、既存のバイアスを特定し、それを壊すことでイノベーティブな発想を見つけるというプロセスを取るのですが、壊す対象のフィールドが狭いほど壊せる範囲は狭くなる=インパクトが弱くなる、ということについて考えています。

 たとえばビジネスの「業界」単位でイノベーティブなアイデアを作るのと、一地方の村のなかでイノベーティブなアイデアを作るのとでは、企画として出来る範囲(=バイアスを壊せる自由度)が違うのではないかと思うんですよね。

 僕が思考実験でよく考えるのは(ついでに実益もその気になればありそうなので考えているのが)、『小説家になろう』で人気の出る企画はどう作るか?ということなんですけど、これは案外、ややこしい気がしています。だってそもそも「小説家になろう」という共通フォーマット内で戦うというルールを強いられているので、その内部で勝とうとすると壊せるバイアスが少なく(=小さく)なってしまう。

 濱口さんの理論で考えれば、そもそも「ウェブ小説」という媒体レベルでもっとバイアスを破壊することを考えるのが向いていると思うんです。たとえば、現段階でも小説家になろう内では様々バイアスがあると思うけれども、そもそもあのHPに掲載しないとか(笑)、そういう手のほうが効果は高い気がする。当然「なろう小説とは、小説家になろうに掲載されている小説のこと」という思い込み=バイアスがあるので、その前提を崩したほうが効果が大きいでしょう。

 けど、たぶん一般的には、そういったルールを守った上で成功したいという人のほうが多そうな気がします(自分はあんまり気にしないですが、というか気にしなくなりましたが、たぶんそういう人のほうが多いでしょう。たぶん)。

  というわけでこれはまだ仮説ですけど、狭いフィールドでの成功を目指すほうが却って難しい(=偶然性に強く左右される)のかもしれません。これについてはまだまだ研究中といった感じです。

 

共通無意識の存在とは? 「破壊すべき」バイアスの存在

 えー、やっと最近学んだことの二つ目に移れるんですが(笑)。

 濱口さんの理論を知った時に気にかかっていたことが実は一つあったんです。「その手があったかーー!」と膝は打ったものの、微妙に喉に骨が引っかかってる的な? そういう感じが。

 その一つが「共通無意識」というものの存在でした。あるいはそれは「時代の空気」とか言われたり、みんなが「薄々感じていたこと」と呼ばれたりします。小室哲哉さんの項で触れた「波」についても同質のものでしょう。濱口さんの理論(ネット上に掲載されているもの)だけでは、その点について取りこぼしてしまうような、あるいは、拾いきれていないような、そんな気がしていたんです。

 気になっていたのは、それが非常に重要なことのように思えてならなかったからです。だってヒットメーカーは異口同音にいうんですよね。時代の波に乗った的なことを。そしてそれは一消費者としてもそんな感じはわからないでもないんですよ。たしかに「そういうもの」はあるだろうという実感はあった。たとえば、以下のインタビュー記事でも触れられています。

diamond.jp

 川村元気さんといえば、新海誠監督の『君の名は』のプロデューサーを勤めたことで有名になりました。その他にも自身も小説を書かれており、それが映画化されたりなど自分自身もヒットメーカーであることが非常に興味深い方です。

 上記のインタビューでは『「ポストの上のクマ」を探している』という言及があります。みんなが気になっているんだけど、なかなか言い出せずにいたこと=クマ、そういうものを探すということですね。

 これはさっき述べた「時代の波」だったり「共通無意識」だったりと同質のものであろうことは、読んだときにすぐにわかりました。日本のヒットメーカーに多いんですよね、これを言う方は。というか国内でしか見たことない気もしますが。そしてこれが重要だというのは感覚的にわかる。

 ちょっと前に『僕は友だちが少ない』というライトノベルがありましたが、僕の感覚からするとこのラノベもうまく共通無意識を汲み取ったものだと思うんですよね。何よりタイトルが秀逸だった。「僕は友だちが少ない」と聞いて「俺も少ない!!!!!!!!!!!!!!!!!!」ってつい思ってしまったし(笑)、そう感じる人はけっこう多かったと思うんですよ。みんななんとなく思っていた点をうまくすくい取っていたと感じます。

 そういうわけで、以前から「ポスト上のクマ」は僕も気になっていたんです。だけど濱口さんの理論ではそこに触れない。どうしてなんだろう? というのはずっと気になっていたんです。結論からいえば、やはり関係はあったわけですが。

 それはつまり、バイアスの特定にポイントがありました。端的にいえば、共通無意識にあるバイアスをこそ壊すべきだったんです。

 すでに述べたように、僕は定期的に濱口さんの記事を読み返すんですが(笑)、そこで見逃していた(というか当時は重要性に気づけていなかった)のは、バイアスというのはただ壊せばいいというものではなくて、ボトルネックになっているバイアスを壊すべきだと言っているんです。

 ボトルネックとは、つまりまあ「不満」とかってことですよね。川村元気さんは共通無意識としてすくい上げたものに「恋愛感情が喪失していくこと」を上げていましたが、これも見事だと思うんですよ。これってまさに「僕は友だちが少ない」というのとまったく同質の社会構造から引き出される、共通的な事象ですよね(他人との関係が希薄になってしまう都市社会が抱える固有の問題。村上春樹が売れるのと一緒)。うまいこと世の中の人達が抱えている不満、意識できていない問題を拾い上げている。

 もう一つ、ボトルネックとなっているバイアスを壊した例として、最近遊びすぎて辛いゲームである『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』を挙げたいと思います。

 このゲーム死ぬほど最高なんですが、何が良いって、従来のオープンワールドゲームが抱えていた(=ボトルネックとなっていた)問題を解決している点にあります。要点は2つ。「従来のオープンワールドに比べても更に世界が広い」そして「どこでも行けると言っておきつつ、実際には意外といけるとこ少ないじゃん問題を解決している」という点です。いや他にもいいとこめちゃくちゃいっぱいあるんですが、とりあえずこの2つで(笑)。

  それまでのオープンワールドゲーって、たしかに世の中に出始めた当時は「うわーーーどこまでも行けて広いなあ!」と感心したものでしたが、それも数年以上が流れて、ちょっと遊べば意外と簡単に端から端までいけちゃうことに気がつくんですよね(笑)。せいぜい一時間も走れば、世界の端から端までいける。それに馴れてくると「やっぱりゲーム内の世界か……」と思ってしまうのですが、その点ゼルダは、今の最先端のオープンワールドとくらべても更に数倍以上世界が広い。端から端まで、徒歩で移動しようと思ったら本気で1日がかりになってしまう。しかも途中で大量のイベントも発生するから、ますます広く感じる。その「本当に世界は広いんだ!」という感覚をふたたび再現させた点に、最新ゼルダの凄みがあります。

 そして何よりもう一つが「本当の意味でほぼ全ての箇所に行ける」ということ。これは実際にゲームを遊べば一発で分かることですが、これまでのオープンワールドは「この広い世界のどこにでもいける!」とか言っておきつつ、家の屋根の上とか、山の頂点とか、意外といけないとこばっかりなんですよね。だけどブレスオブザワイルドは、本当にどこにでも行けてしまう。つまりオープンワールドって言っても、山の上とか海の上とか行けないところばっかりなんだよな」という、ユーザが抱えていた無意識的な不満=ボトルネックを見事に解決している。前者よりむしろこっちの方が重要かもしれません。初めてこのゲームを遊んだ人間にとっては、いや、コアゲーマーほどバイアスが強い分衝撃的だったはずです。

 以上のように、濱口イノベーション理論と共通無意識の問題は、実は矛盾しない。それどころか積極的に意識すべきだという点が、僕にとっては重要な発見でした。これまでの企画でも、わかっておらずそこが失敗している点はたくさんありましたとも……。

 これは余談ですが、僕が企画していたオリジナル作品で「レトロミライ/シンギュラリティ」というのがあって、プレビュー版として作ってもいたのですが、これは江戸時代という過去と、遠未来という概念について、通常ならば別個のジャンルとして普通は考える(=バイアス)ものを、融合させてバイアスを壊そうという目的で企画したものでした。が、別個のジャンルになっていることが共通的な問題=ボトルネックになっているわけではないな、と気がついてしまい、なるほどこれは(全くダメというわけでもないのでしょうが)企画としては良くないな……と思い至った次第でした。企画作るのやっぱり難しいです……けどまあいい勉強になりました。これはこれでポジティブに受け止めたいと思います。

 

★この記事のまとめ★

  ちょっと長くなりすぎましたね……(約一万五千字のようです)。

 というわけでこんな感じが、今の自分の企画作りの研究成果といったところです。色々と進展はあったのですが、確実にヒットできるような手管については、作品外のマーケティング要素について理解を深めたり、スキルとしてバイアスの軸を取り出す腕を磨いたりなど、まだまだ鍛えるべき点は多そうです。

 他にも濱口さん自身もまだ研究段階にあるらしいプロダクトやメーカー自身の背景にある「ストーリー」についても、学んでいるところです。学ぶことがあるというのは、楽しいですね。小説を作ることだけでもまだまだ頂点は遠いですが、楽しいこといっぱいあるな~~~って感じです。

 では長すぎてごめんねということで、おさらばなのです。

  以上、橋本しのぶでした。 ってなんかあとがきみたくなってしまった(笑)。

 

 

ユーザー許容の点から見た『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』の比較

先日『ニーア・オートマタ』と『ニューダンガンロンパV3』をクリアしました。それと一緒に『ゲンロン0』を読み終えたのですが、それらを統合して色々と思うところがあったので記事にしています。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

 

 

 えー、『ニューダンガンロンパV3』については単純に「面白かった」と述べるのはやや抵抗があるのですが、『ニーア・オートマタ』については非常に面白かった……というか、興味深かったです。この両作品に共通しているのは、どちらも受け手に対して倫理的な態度を求めている、ということです。

 ちょうど先日、奈須きのこさんが竹箒日記で両作品に言及していました。

思えば昨年から「ユーザーに娯楽との接し方を問いかける」作品が多く出てきたと思います。
大衆の総意と自己の正義を対決させた『P5』、
『娯楽』を楽しむ事の露悪的な本質と、その先にある救いと意味を描ききった『ニューダンガンロンパV3』、
虚構であれ、物語中に生まれた知性の容認と、物語を変革する為にはこれほどの覚悟が必要なのだと叩きつけてきた『ニーア・オートマタ』。

http://www.typemoon.org/bbb/diary/log/201703.html

  本記事は「そもそもなんでそんな傾向(=ユーザーに倫理的態度を求める)が出てきたのか?」について自分なりに考えたことをメモしておくためのものです。当然のようにネタバレしますので、気にするかたはリターンしてくださいね(注意勧告)。

 まずは『ニューダンガンロンパV3』(以下V3で省略)について簡単にまとめておきますと、本作は『ダンガンロンパ』『スーパーダンガンロンパ2』『絶対絶望少女』に連なるシリーズ最新作として先日リリースされたものですが、内容は16人のコロシアイ(殺し合い)を強いられる生徒たちが、そのコロシアイ=バトルロイヤルに巻き込まれつつも、そのルール自体に逆らうために閉鎖環境の謎を解き明かしていくというもの。結果として明らかになるのが、

「このコロシアイ自体がエンターテイメントとして世界中に放映される番組だった」

「参加者である各キャラクターたちは記憶を失っているが、全員自らの意志でそのコロシアイゲームに参加しており、コロシアイゲームの一員となって番組に参加することに憧れている(つまり過去作とは違い、各キャラクターたちは超高校級でもなんでもないただの一般人)」

 ……というもの。

 シナリオとしては非常に優れています。作中のコロシアイはやがて暴かれていきますが、途中で自分たちがただの超高校級でもなんでもないただのパンピーだと気づいた各キャラクターたちは、アイデンティティ・クライシスを引き起こします。記憶を上書きされ、仲間たちと一緒にコロシアイを避けるために営まれたキャラクター同士の掛け合いややりとりが、ただの偽りのものでしかない、と暴かれるわけです。

 作中でひどい殺し合いが行われるので、「こんなコロシアイは間違っている!」とキャラクターたちはさんざん主張するのですが、そのコロシアイ自体はかつて記憶を失う前に自分の意志で参加を決めたものだった、というのが明かされてしまうため、強い自己矛盾を引き起こすんですね。そして何より、それらのコロシアイゲーム・番組を見物する「観客」は、イコール、ゲームを進めるプレイヤーと完全に一致する。

 最終的に各キャラクターたちは「こんなひどい殺し合いゲームを、エンターテイメントとして消費する態度それ自体が間違っている!!」とごもっともな主張をして観客を強く否定し、コロシアイゲーム自体を『台無し』にすることで物語を終えるのですが、ここで重要なのは、この作中キャラクターたちから「観客」に向けられる批判は、そのままゲームプレイヤーへの批判とまったく同じく通用するものなのですね。

 つまり『V3』の主張は、ゲームプレイヤーへの倫理的態度への批判そのものといっていい。

 こんなコロシアイゲームを愉しむこと自体がおかしい。こんな人の死に様を鑑賞する態度は間違っているじゃないか。そんな主張を、薄っぺらなその場のキャラクターを強要された作中人物たちは、こちらを糾弾してきます。

 しかも『V3』の巧みさは、全6チャプターで構成されるシナリオと、導入である第1チャプターがまったく同じテーマの反復になっている点でしょう。第1チャプターではコロシアイゲームの真実こそ明かされませんが、主張したいメッセージ自体はまったく同じものです。すなわち、ゲームプレイヤーが持つ倫理的態度への攻撃です。

 それもそのはず、『V3』チャプター1ではお馴染みの殺人事件が引き起こされますが、その殺人犯はゲームの視点キャラクター……つまりプレイヤーの代替人物・操作する人物である主人公だと思われていた赤松楓なんですね

 第1チャプターからすでに、つまり自分は観客だと思い安心しきっているプレイヤーに対する攻撃は始まっているわけです。「お前こそが犯人なんだ」「お前が殺した(殺させた)んだ」とそう言いたいかのように。これはミステリにおける叙述トリックとしても優れていますが、何より全体のメッセージを予め匂わせる秀逸な導入としても機能しています。(ちなみに赤松楓ちゃん非常に良いキャラクターで、しかも後に主人公役を譲る最原くんとの関係が非常に良かっただけに、ここで犯人となって物語から退場したことで自分のテンションは半分以下に落ちました。ある意味で正しく演出効果を受け取っている…)

 さて、過去においてこの手の「観客への攻撃」の形式を取ったフィクションは存在していました。

 もっとも有名な例でいえば当然TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』が挙げられるでしょうし、その他にも『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』など、最終的にエンターテイメントとして消費している観客それ自体を批判するような作品として比較できると思われます。

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  『V3』は、手法的にはこれらの作品と系譜的に連なるものと見ていい。本作におけるプレイヤーの攻撃手法は、正直さして目新しいものではありません。むしろ使い古された手法ですらある。特に「視点キャラクターが犯人」というミステリは挙げればきりがないほど存在するでしょうし、たとえばバトルロイヤルがエンターテイメントとして消費されるというモチーフが、さして新しいとは思いません。悪くいってしまえば、これらは非常に「古臭い」。

  ただ、だからといって自分は、本作をただたんに「古いからダメ」などというつもりはありません。問題は「何故今になってそんな形式を求めたのか?」ということです。

 参考例をあげた通り『バニラ・スカイ』や『トゥルーマン・ショー』は90年代末頃の作品です。これらは自意識の肥大化が招いたがゆえ、自分が誰かに見られているのではないか(他者の視線の内面化)という疑念ゆえに求められた作品形式だと捉えています。

 まあそれが本当かどうかはさておき(へたれ)、ひとまず当時はそういうものだった認識しており、ようするに私は「わざわざ今やることなのか……?」と、ゲームをクリアした時は不思議でしょうがなかったんですね。だってそんなの、十数年前にもうみんな通り過ぎたことなんじゃないの? と。

 ですがここまでやったわけですから……『V3』のこのシナリオは、相当入念な、強い執念がなければ成し遂げられない強度を持っています。これはゲームをやった人間にしかわからないものがあるでしょうが、壮絶かつものすごい執念によって『V3』は「お前ら=プレイヤーは間違っている!!!!!!」と主張してくるんですよ。これはちょっとやそっとのことじゃ書けないと思うんです。

 そこには何かしらの背景があるはずだ、と思いつつも、なかなかそれを納得する道筋がわからなかったわけです。

 先に結論を先取りすると、この答えは『ゲンロン0』で説明されたように感じました。つまり、『V3』のこの主張は、二次創作における受容のされかたを受けた結果なのではないか? 製作サイドの「うんざり」が招いた結果なのではないか? と。

 ダンガンロンパシリーズというのは非常に二次創作が活況な作品です。(でした?)というか私自身、『スーパーダンガンロンパ2』の二次創作小説を書いたくらいで、それは基本的には製作サイドにとっては良いことしかないと思っていました。そもそも今のコンテンツ製作は二次創作されることがツイッターなどのユーザ間で重要度を高めることに繋がるため、ほぼすべてのフィクションがそこを折込済で狙ってくるものだと思うんですよ。

 だからわからなかったけど、案外製作サイドとしても、それはフラストレーションのたまることでもあったのかもしれません(考えてみれば当たり前のことではありますが)。だからこそ「観光客」=身勝手にキャラクター性の書き換えまでも行いゆるく消費し続けるユーザたちに怒りを感じてしまったのかもしれません。実態としてどうなのかは作者にしかわかりませんが。

 でもね……やっぱり『V3』の態度は、間違っていると思います。いや、あるいは、言いたいことがあるにしても、きっとその伝え方を間違っていたのだと思います。

 誤解はして欲しくないのですが、一人のクリエイターが作った作品としての『V3』はとても素晴らしいものだと思います。メッセージの内容はともかく、あの完成度と出来は、真摯に創作に向き合った人間でなければ決して成し得ない。それは自分自身、創作をやっているからこそわかります。作品を書き上げるっていうのは簡単なことじゃないんです。そこに偽りは存在していないと思います。

 ただ作品は製作者の手を離れた時点で、製作者のものではないんですよ。そこから先はユーザーと共有して育てていくものになってしまう。手を離れた後に上書かれて怒るのは、気持ちとしては理解できるけど、正しい主張ではない。 

 というわけで、V3については全般的に否定的なスタンスを自分はとっています。だって、そうしたユーザーとの共生関係についても、上手く対応した製作サイドだって実際にあるんですから。……という具体例として、次の項目、ニーアオートマタについて触れたいと思います。

 

 ・『ニーア・オートマタ』の大人としての主張

 すでに記事が長くなりすぎているので、端折りつついきたいのですが、ニーアオートマタというのはちょこちょこと不出来な点も多かったなと思っているんですよ。なので、完全に肯定しているわけではない。だけど、それでも本作は良い作品だったな、と思うのは、作品を締めくくるエンディングが非常に素晴らしかったから。

 ニーアオートマタというのはポストアポカリプスで人間が消え失せ、アンドロイドが人類側の主流になった世界観でして、地球は宇宙からやってきたエイリアンが構築した機械生命体にほとんど占領されてしまっており、アンドロイド達(主人公たち)は地球奪還のための戦いを挑んでいる……というのが基本的なストーリーラインです。

 で、話が進むにつれて徐々に世界の全容が明らかになっていくんですが、どうやら既に「人間」は滅びてしまっており、アンドロイドしか残されていない。しかも機械生命体と同じコアを流用して創られたのがアンドロイドであり、戦っている相手とほとんど同じ存在だった。……ということが明かされます。つまり、主人公たちの死闘にはなんの意味もなかったことが暴かれていく(解体されていく)、というのが最大のテーマです。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ - PS4

 

  そしてニーアオートマタでは、その暴かれたところ、で物語が終了してしまうんですね。つまり端的にいえばこの作品はいわゆる「バッドエンド」というやつで、シナリオ分岐こそあるものの、基本的な筋としてこれは変わらない。主人公の2Bや9Sは無意味さに晒されて苦悩したままアンドロイドとしての死を迎えます。

 この結末について、私は製作者たちの「美学」と捉えています。つまり、これが彼らのやりたかったことだということです。

 このエンディングがユーザー達にとってあまり喜ばしく受け取られないであろうことは明らかです。ユーザーは自分の分身である主人公の死を見たいわけじゃないと思うんですよ。もちろん見たい人、この美学に共感する人は一定数いると思うけれど、それは大多数ではない。大半の人は、バッドエンドは好ましくないと思っていると思います。それを理解した上で、この製作者たちは「これがやりたい!!」と思ったからこのエンディングを設定したんじゃないかなと思うわけですね。

 ただ、ニーアオートマタが興味深いのは、ゲームデザインによってこの「美学」と、ユーザの要望(バッドエンドじゃなくてハッピーなものが見たい)を共存させることに成功した点にあります。

 ニーアオートマタがシナリオ上の最後のエンディングを迎えると、スタッフロールが開始されるんですが、ここで主人公たちと一緒に行動していたポッドというサポートマシンみたいなやつが言い出すのです。「我々はこの結末を許容していいのだろうか?」と。ここでいう「我々」がユーザーを同時に指していることは明らかです。つまりゲーム側でユーザーに問いかけるんですね。「あなたはこのエンディングで満足ですか?」と。

 そこで満足しない、と答えると、ならば抵抗するがいいと更にゲームが継続されます。そして開始されるのがシューティングゲームなのですが、ここで非常に面白いのは、シューティングする標的=破壊する対象がスタッフ名になっている、というところなんですね。つまり「このゲームのエンディングに満足しないなら、このゲームを作った製作者たちを倒せ!!!」というメッセージが明らかに込められている。

 でまあ、このシューティングゲームは非常に難しいんですが、敵を倒しつづけて最後の方にいくと、東方のシューティングかよってくらいクリア不可能だろう、という弾幕を浴びせられます。そこで、PS4のネットワーク機能を利用して、更に他ユーザーからの支援(無限ライフと無敵性能と射撃強化という形)を募ることができます。ようは、このエンディングに満足できない他のユーザーと一緒に俺達を倒してくれ、ということ。

 このシューティングを終えると、更に追加でエンディングシーンが表示され、死んだはずの主人公たちは(アンドロイドなので)記憶は失っているけれども、この世界で蘇生して死を繰り返さないようになるんじゃないか?という希望が描かれて、物語が終了することになります。

 ただユーザー側にもリスクがないわけではない。物語を書き換えるということには強い覚悟が必要だ……ということで、このシューティングに挑んでクリアすれば、ゲームのセーブデータがすべて削除されると通告されます。数十時間掛けて遊んだ記録をすべて消す。そこまでの決意があって、初めて製作者と対等になれるんだぞ、と。

 でも、これは非常に成熟した態度だ、と思うんですよね。製作者は美学を貫いた。けれども、それに納得しない人もいることは理解している。なので、ゲームシステム・デザインの側でその想いを満たせるようにしようという仕組みになっているわけです。メッセージを押し付けるだけで終わらせていない。ユーザーを説教相手じゃなくて、対等な相手だと認めている。

 

・まとめ

 えー、まとめです。観光客の哲学についてさっぱり触れられなかったのですが、この記事を書き始めて2ヶ月放置してしまい、とりあえずまとめるだけでもまとめたいのでまとめます(乱暴)。(大人になれ?といっておきつつこの体たらく……)

 ここでずっと論じてきた「ニューダンガンロンパV3」についてもう一度振り返ってみると、作品に込められたメッセージを伝えるだけで(=押し付けるだけで)終わってしまっているように思えてならないんですよね。そのメッセージ自体は否定できるものではないけれど、単なる押しつけになってしまっている。それは本当にそれでいいのか?と私なんかは思ってしまうわけです。その点で、ニーアオートマタは優れたゲームデザインになっていて素晴らしいと思います。スタッフロールをシューティングゲームで破壊するというアイデアは本当に見事でした。

 V3がダメなわけではないんですが(というか非常に出来が良いくらいなんですが)、どうしても最後の倫理を求める態度というか、求め方自体に疑問を感じてしまうなあ……と。そういうことが言いたい記事だったのでした。ちゃんちゃん。

フィクションが「現実を拡張する」という画期的なコンセプト

 知人かつ友人の渡辺零さんが、コミックマーケット91で頒布する新刊同人小説『ordinary346』の告知をしました。

 彼が主催するサークル「渡辺書房」の同人小説は『電脳軍事探偵あきつ丸』を始めとして、コンセプトがいずれも非常に優れており興味深いのですが、前著の『宮本フレデリカさんのこと』から連なる今回の新刊は、殊更コンセプト的に非常に興味深いものがあります。個人的にもいろいろと発見があったので、思考をまとめるためにちょっと文章に起こそうと思い記事を書くに到りました。

 

・フィクションが現実を「拡張」する

  前回もそうですが、彼の企画で優れている点としてなるほどと膝を打つのは「フィクションが現実を拡張する」という概念を物語の世界に持ち込んでいる点だと思います。これはたとえばライトノベルの世界や漫画の世界でも、おそらくほとんど持ち込まれていない概念で、非常に画期的なコンセプトです。

 どういうことか簡単にまとめてみます。前作の『宮本フレデリカさんのこと』といい今回の新刊といい、加えて彼や彼の周囲が日頃からTwitterで呟いていることといい、共通しているのは、架空のキャラクターがあたかもこの現実に実際に存在しているかのように思考している、という点です。

 たとえば彼らはアイドルマスターシンデレラガールズに登場する少女たち・アイドルが、現実のテレビ番組――たとえば『「笑っていいとも」に出演してタモさんに恒例の「髪切った?」と聞かれた』だとか『オールナイトニッポン(ラジオ番組)でパーソナリティを勤めておりこんな話題を持ち出した』だとか、そんなふうに現実に宮本フレデリカだとか速水奏だとかが、実際にぼくらがいる世界に存在しているかのように想像力を働かせています。

 彼らがそんなことで与太話をしているのを横で眺めながら、当初は私も「はー、まあそんなことになってたらおもしろいよねー」くらいにしか考えていなかったのですが(※節穴)、その概念がインストールされてくるにつれ、なるほどこれは画期的なコンセプトだったんだなと理解できるようになってきました。端的に言えば、彼らはつまり「拡張現実(AR)」をフィクションで実現させている

 繰り返しますが、正直私はこのテーマで彼らがキャッフキャッフとはしゃぐ理由がさっぱりわかっていませんでした。概念のコアが理解できていなかったんですね。漠然とはわかっていたような気もしますが、そこまで面白いものか?と思っていた。ただこれが拡張現実的なものなのだと理解して初めて「あ、面白い!」と感じるようになりました。これまで漫画でも小説でも、そういった概念で構築されたフィクションはほとんど存在していないからです。

 

・IFではなくAR(たぶん)

  ポイントはこれは「IF(もしも~だったならば)とは違う」という点でしょう。もしこの世界に速水奏宮本フレデリカがいればどうなっていただろう? という発想で描かれているのではなく、彼らは事実として現実に宮本フレデリカがいるという前提でものを考えている。書いてて私も何をいっているのかさっぱりわかりませんが(笑)、でも、どうやら彼らがそういうふうに思考しているのだから仕方ない。

 「IF」というのは事実の組み換えですが、拡張現実=ARは文字通り、現実を広げるという概念です。彼らはこの世界を組み替えて架空のアイドルがいるということがしたいのではなく、この世界にアイドルがいたという世界に広げたいのです(たぶん)。説明がむずかしいところですが、おそらく明らかに「IF」を志向しているコンセプトではないと思います。

 二次創作にはさまざまなパターンが存在します。それはたとえばIFだとか、時間逆行だとか、関係だけにフォーカスしたものだとか、いろいろありますが、殆どは類型化できるものです。ただそのなかに「AR」っていうのはたぶんなかった。その点でも非常に画期的だと思います。

 

・文脈としての新規性

 

 概念としてはだいたい上記の通りだと思いますが(誤解している点もありそうですが)、これの何が新しいって、フィクションはフィクション、現実は現実、とぱっきりと二色に描かれていた世界が融合することを示しているからだと思うんですね。

 たぶんつぶさに見ていけば、そういうことを考えたフィクションはあったのだろうと思います。ただ、そもそも「アイドル」の文脈でそれをやろうとした例は非常に少なかっただろうことと、アイドルというものそれ自体の性質が、この「フィクションによるAR」と親和性が高かったことが大きいのでしょう。

 まあ一応付け加えておくと、そもそも『アイドルマスターシンデレラガールズ』自体が、SMAP中居正広がゲームに登場したり広告として出てきたりなど、元からそういった現実とフィクションの融合的志向を持っていたコンテンツだということもあって、さすがに彼がゼロから考えだしたコンセプトではないとは思いますが(※若干余計な一言感)。といっても、たぶんシンデレラガールズのほうはこのコンセプトを理解して展開しているコンテンツではない気がしますが。

 

・ハイコンテクストゆえの問題点

 この「フィクションによるAR」という概念自体は非常に新しいコンセプトだと思いますが、同時に問題点もあるといえるので、それについても触れておきます。端的にいえば、このコンセプトは非常に「わかりづらい」。

 渡辺さんがこの概念に気づき始めたのは1年前あたりからだと思いますが、私なんかはもとからアイドルものがそんな好きじゃないこともあって、概念をインストールするまでイコール1年かかっているわけですよね。友達のゆうやくんに小一時間説明されて、実際に『宮本フレデリカさんのこと』を軽く読んでみて、それでも一年掛かってるんだものw

 つまり、それだけハイコンテクスト(ようするにわかりづらい)な概念だということです。たぶん概念の核までちゃんと理解している人は現状そんなに多くないでしょう。理解されないということはつまり、多くの人に届かないということでもある。それがちょっと勿体無いなーと思ったりします。

 たとえばUSBメモリの話をしましょう。

 いまでは誰でもあたりまえに使うUSBメモリですが、これが開発される当初は、経営陣にコンセプトがさっぱり理解されなかったといわれています。当時はFTPをもちいてファイルをやりとりするのが一般的で、フロッピーディスクも存在し、わざわざUSBを使う理由が理解できなかったというのが理解まで時間がかかった大きな理由のようです。

 詳細は以下リンクから見るとよくわかりますが、この濱口秀司さんのUSBメモリの開発過程=イノベーションの実現過程は非常に面白いのでおすすめです。濱口秀司さんのイノベーションを「意図的に」設計する過程は創作でもなんでも、企画づくりにおいて非常に役立つ理論です。めっちゃべんり。

diamond.jp

 今ではもはや常識にさえなったUSBメモリですが(というかすでに古びつつありますが)、これが経営陣に理解されるまで「2日間必死に説明して、ようやくすごいと言ってもらえるところまで辿り着いた」そうです。この一例だけでも新しいコンセプトを受け入れられるのは簡単なことではないとわかりますよね。新しい概念というのは、それだけ理解するのが難しいんです。

  たとえばiPhoneとかもそうですよね。発表当時は何が騒ぎで何があたらしいのかよくわかりませんでした。一度触れば一発でわかりましたが、どれだけ説明されても、画期的かどうかは実際の手触りを含めて理解されるものなので、非常に受け入れられるのが難しい。

 「 フィクションによるAR」というのは非常にあたらしいコンセプトだと思うし、かなりの鉱脈だとも思います。が、更に一般化するにはもっと大きなところの手を借りないと難しい気がします(もっとも彼がそれを望んでいるのかはわかりませんが)。個人的にはせっかくいいコンセプトなんだから、もっと多くの人に認められ評価されるべきだと思いますが。

 出版社とかがうまく関われば最低でも十万部レベルで売れる企画になりうると個人的には思いますが、編集者はどう見ているのか気になるところです。……つっても、出版編集たちはどうも同人小説界にまったく興味関心を向けていないようですが。