『UQ HOLDER!』完結によせて

 

先日、赤松健さんの『UQ HOLDER!』が完結し、最終巻となる28巻が出たので最後まで読み切った。とても面白かったです。と同時にやっぱり連載中から感じていた色々な問題点は解決されないまま残ったな、とも感じたので、考えたことをひととおり文章にまとめておきたいと思います。

そもそも感想を記事としてまとめること自体がもはや数年ぶりで、正直かなり面倒な気持ちもあるのだが、赤松健漫画は自分の人生にも大きく関わった存在でもあり、さすがに一つの区切りとして書かないわけにはいかなかった。なにしろ前前作である『ラブひな』から『UQホルダー』にかけての20年以上、氏の漫画を読んできたのだ。影響がないとはとても言えない。俺はネギくんと一緒に苦しみや喜びを共有しながら生きてきたという拭いがたい『実感』がある。俺にとってネギくんは実在する友人となんら変わりない。

赤松健さんはなぜかクリエイターとして安く見られがちな風潮があると思っているが(それがアニメ化などのメディアミックスでことごとく悲惨な作品を作られてしまったことの一因にもなっていると思う)、赤松健さんの漫画にさして興味のない人も、少なくとも一個人にこうして大きな影響を与えるだけの存在だったことは覚えていってほしい。

以下、目次の通り全体のテーマについて軽く触れたあと、作品にまつわる自分が感じた問題点について論じたい。……いやまあ、論じたいとかいっても所詮は『感想』の域を出ていない個人の意見なんで、あー、まあこういう意見もあるのねくらいに見てもらえると幸いです。なお基本的に既読者を想定して書いているので、前提となる説明はいろいろ省いている。

 

マクロのテーマとミクロのテーマ

格差社会』による「虐げられる人々の怨嗟」と、エヴァンジェリンの救済

まず『UQホルダー』の根幹となっているテーマについて触れたいが、これは大きく政治・国家の次元(つまりマクロの次元)では『富裕層と貧困層の巨大な格差が生み出す虐げられた人々の怒り、呪いにどう答えるか』だし、登場人物個人の次元(つまりミクロの次元)ではエヴァンジェリン・AK・マクダウェルという不死者の内面的救済』が作品の根幹になっていると思う。

UQホルダー』は、一応は別の時間軸、別の世界線として前作である『魔法先生ネギま!』とは異なる世界のお話として説明されているが、まあ事実上の続編となっている作品だ。なので『ネギま!』で語り残した要素、回収しきれなかった設定などを拾う形で物語ができている。

特に『エヴァンジェリンの救済』というのがそうで、前作『ネギま!』ではヒロインではあったが主人公に選ばれるわけでもなく、特に救われるわけでもなく、なんとなく終わっていたエヴァンジェリンというキャラクターの『不死の吸血鬼』であるという設定に目をつけ、『不死者たちの物語』として仕上げたのが『UQホルダー』になっている。ここにニュースでももはや(残念ながら)おなじみになってしまった『格差』というキーワードをもとに物語世界全体を構成している。

そういえば2015年ごろに『UQホルダー』が少年マガジンで連載が始まって第一話を読んだとき、「やべえ、こりゃ傑作が始まってしまったのでは……!」と震えたのを覚えている(※オタク、良質な第一話を見ると過剰に期待しがち)。

格差の問題は今後かならず重要になるとも思っていたし、さまざまな不死者たちの生き様を扱う……特に不死として死なずに生きることを肯定的に描く作品というのはかなり少数で、かつおそらく主流だった「死に様を決める」という描き方のカウンターにもなっていて、しかも漫画としてもすばらしくよくできている。それに加えて、個人的に前作『魔法先生ネギま!』の終わり方には納得できずにいたことも大きかった。一応作中における解決すべき課題には一通りケリをつけたのは理解できたのだが、父親を追いかける作品でありながら、父親との直接対決をちゃんと描写することなく物語が終わってしまったことがとりわけ非常に残念だった(これはのちにUQホルダーで回収されることになる要素だが)。そんな事情もあったので、思わず「こりゃ傑作では……!?」と期待したわけだ。いやまあ結果として、最終話まで読み切った今、正直なとこ「なんかそうでもなかった」ぐらいの気持ちなのですが……(漫画読みのめちゃくちゃあるあるで切ない……)、まあそれでも良い作品なのは間違いないと思う。そこはちゃんといっておく。UQホルダーは良い作品です。

 

『佐々木三太、小夜子』編が素晴らしかった

特に自分がそれだけ期待してしまったのは単行本5巻・6巻で描かれた『佐々木三太・小夜子』編がめちゃくちゃ素晴らしかったからだ。三太はいわゆるすでに死んだ人間、幽鬼(レブナント)として後にUQホルダーメンバーに加わる不死者だが、彼が死んだ理由がまさに格差社会の歪み」によるもので、虐げられた弱者であるがゆえに不死人となった存在だ。その三太に寄り添う形で、同じく弱者の側にたつ小夜子が、弱者を痛めつけ続ける世界への復讐という形で、世界そのものを滅ぼそうとする……というのが全体の流れだ。

三太や小夜子ががどうしようもなく悲惨の渦に飲み込まれていった姿は心を痛めずにはいられなかったし、それをなんとも思わずむしろ当然のこととして嘲笑う『勝ち組』の姿には不愉快さを抱いた。つまり漫画としてテーマをよく描けているのだ。

特にこの時期は漫画としてのキレが一味違っていたと思う。率直に言うなら処女作の『AIとま』から『ラブひな』『ネギま!』『UQホルダー』のなかでもおそらく作家的なピークにあったとすら思う。コマ割りやら絵的な表現やらもそうだが、とりわけセリフ一つ一つの言葉の切れ味がすさまじく、読んでて何度も唸らされました。

特に秀逸だと感じたのは以下のシーンだ。

 

 

上記の黒髪の少年が「佐々木三太」で、金髪の男は端的にいうと富裕層側の人間……つまり強者の側の存在だ。三太は弱者の側。三太は不死者であることをいいことに、『ホームレス狩り』なるクズ行為をして遊んでいる金髪を狩って腹いせにしていた(だから「ホームレス狩り狩り」)。だがこのシーンでは、その金髪の登場によって三太は助けられているし、その三太によって金髪は世界の危機から救われてもいる。

三太に言わせれば金髪は『クズ』だが、そのクズによって三太は助けられている。「朝から晩まで一生クズって訳じゃない」のだ。今風にいえば『クソデカ主語』でクズは死んでもクズですべて一緒くたにされがちだが、事実はそうではない。そしてそれはおそらく三太自身もわかっている。だがそれでも納得できないからこそ「この世から消し去るしかないどうしようもないやつはいると思うぜ」というセリフが出てくる。この矛盾。どうしようもなさ。まさに格差社会の歪みそのものが漫画として描き出されていると思いませんか? 俺は読んでてめちゃくちゃ興奮しました。こんなものが週刊少年漫画として毎週連載されてたんだぜ。すごくない?

 

なお余談。勢いあまって「作家的ピーク」とまでのたまってしまったが、実際のとこはどうかはよくわからない。なぜなら、おそらく伝え聞くかぎりUQホルダーは赤松健さんが主導というよりも、たぶんチーフアシスタントである「まぎぃ」さんが主導で製作されている漫画だからだ。今ではもう『表現の自由を守る政治家』としてのほうが有名になった感がある赤松健さんだが、氏がそういう表現を守る活動をし始めたのがUQホルダーの連載が始まってからだ。当然ながらそういった政治的活動と激務中の激務である週刊漫画連載の両立はおそらく難しく、メインの製作はまぎぃさんに任せて、赤松健さんは最終的な監督を行うという立場だったのだと思う(これはあくまで推測です。念のため)。以前ツイッターでまぎぃさんの奥様である綾永らんさんがUQホルダーの連載が始まってから旦那(まぎぃさん)がネギまのとき以上の激務になったという発言をしてらっしゃったのを覚えている(ネギまのとき以上って……週刊連載こわすぎる……)。

そもそも『格差による弱者の怒り』というテーマ設定自体がどちらかというとネアカな赤松健さんらしくない感もあるし(?)、こうしてUQホルダーがちょっと異質なのはまぎぃさんがメインで作ってたからというのはあったのかもしれない。いや繰り返すがあくまで実際のとこどうなのかはわからないということは繰り返し念押ししておく。ただの推測。

 

ともあれ、こうした「弱者の怒り」というテーマと、エヴァンジェリンの救済(これはネギまから引き継いだ課題)をテーマとしてUQホルダーは物語が進行していたわけですが、完結を迎えた今、なんか微妙にしっくり来てない感を俺は読んでて感じました。理由は色々あると思われるのですが、その大きな要因になっているのがおそらく主人公『近衛刀太』だ。なので、これに続いて刀太についてもう少し所感を書き連ねたい。

 

『近衛刀太』という特異点

なぜ近衛刀太というキャラクターが生まれたのか

結論から言うと、UQホルダーは近衛刀太がいたために色々と問題が発生し、作品として歪んでしまったと思う。これはおそらく間違いない。刀太は「明るくまっすぐな、いかにも少年漫画主人公らしい少年」として描かれているのだが、であるにもかかわらず、なぜ作品の歪みの原因となったのだろうか?

それを考えるにあたって、そもそもなぜ刀太というキャラクターを主人公に据えるに至ったかを考える必要があるが、それは端的にいうと前作『魔法先生ネギま!』の反省があったからだと考えられる。

詳しくは語らないが『ネギま!』は「王道の週刊少年漫画」として作られた作品で、主人公である「ネギ少年の成長」を主軸として描かれている。そしてこのネギくんは当時世界中で人気を博していた『ハリー・ポッター』を参考にデザインされており(これはネギくんの生い立ちとも関与してかなりの部分を参照している)、10歳ながら教師として女子中学生に授業ができる天才少年として描かれている。

だがこのネギくんの設定は「王道の少年漫画」としてはあまりそぐわないものだった。なぜならば、賢いがゆえに目の前の問題に直面した際に「じゃあどうすればいいんだろう……?」と足踏みして考えこんでしまい、自分の行動の正しさを直感的に信じられないからだ。これは「少年漫画の主人公」としてはあまり適切だったとはいえない。ジャンプ漫画を読んでいる人ならおおよそ理解できると思うが、こうして悩んだり考えたりするやつは人間としてのだいたいが「器が大きい」とはいえないのだ。いや器が大きいことはありえるのだが(事実ネギくんはのちに英雄的人物となる)、器が大きい人物である、と理解されづらいのだ。そしてそれは神話的な構造をベースとする少年漫画にはあまり適したキャラクターとはいえない。

しかもなにか物語上の障害があるたびに一度立ち止まるため、展開のテンポもどうしても遅くなりがちだという欠点まで抱えている。『ネギま』は王道の少年漫画を志向しながらも、王道の少年漫画らしくない主人公を据えてしまったという捻じれがあったのだ(だが、今思えば「それ」こそが作品の面白さであり核だったのだが……)。

おそらく『UQホルダー』はその反省をもって、主人公の刀太には、いかにも少年漫画の主人公らしい人物像にしようということになったのだと思う。だが、その選択こそが結果的に『ネギま!』のとき以上に作品を歪ませる原因になってしまったと思う。一体どういうことだろうか?

 

物語世界とマッチしない主人公像

刀太が作品を歪ませた理由はいくつかある。

主な原因は以下の3つだ。

 

①マクロのテーマである「虐げられる弱者の怨嗟」に対する主人公としてあまり機能していない

②そもそも作者の個性とマッチした主人公とはいえない

③後のハーレム展開によって内面の空虚さが一気に加速し、まったく共感できないキャラクターになってしまったこと

 

①マクロのテーマである「虐げられる弱者の怨嗟」に対する主人公としてあまり機能していない

UQホルダー』の大きなテーマが「巨大な格差によって生み出された弱者が踏みにじられ続けていること」に対してどう答えるか?だということはすでに書いた。答えの出し方や回答そのものは、反駁しうる一つの意見にすぎないので価値平等なのだが、その描き方には問題がある。答えを提示する主体である主人公=刀太が、そもそも「虐げられる弱者」の代弁者としてあまり適格とはいえないからだ。

なぜなら、刀太はべつに社会的弱者でもないし、何なら不死者として俯瞰視点で人間社会を観測する側の存在だからだ。ようはどちらかといえば強者の側にいる。素朴に考えて答えを出すなら弱者側に立つ誰かであるのが望ましいのは言うまでもないだろう。いやまあUQホルダーという作品がそうしたように、べつにその立場からでもテーマ的な回答をだすのはかまわないのだが、どんな回答をしようとも、どうしても「いやでもお前恵まれてんじゃん」というツッコミが生まれてしまう。これは作品のテーマの打ち出し方としては良いとはいえない。刀太はそもそも明るいキャラクターなので、虐げられた存在に対して(すくなくとも表面上は理解を示すが)共感していたとは感じられない。魂の本性が共感できてないというか……。もうこれは構造的な問題なのでどうしようもないともいえるが、歪みであるのは間違いない。

 

②そもそも作者の個性とマッチした主人公とはいえない

ネギま!』からそうだし『UQホルダー』もそうだが、概して赤松健さんの漫画は基本的に理屈っぽい漫画だ。作中の展開にも細かく説明をつけるし、社会がどんな状況にあるのかも細かく丁寧に説明してくれる。毎度毎度キリエの能力に対して「今回はリスタートできないよ!」と涙ぐましい努力のもと説明をしてくれるくらいに。几帳面だともいえるだろう。

そうした作品全体の基調と、根がアホで一直線な刀太の性質がそもそもあまりマッチしていたとはいえなかったと思う。というか、結局刀太も悩むところは悩むシーンがあったりするし、であれば最初からネギくん的な主人公で良かったじゃんという気がしてならない。後に説明するが、刀太は最後まで内面がなくよくわからないキャラクターだったし、製作サイド側も困っていたんじゃないかという気がする。

 

③後のハーレム展開によって内面の空虚さが一気に加速し、まったく共感できないキャラクターになってしまったこと

上記でふたつ問題点をあげたが、とりわけもっとも巨大な問題だったのはこれだと思う。さっきも書いたが、俺は最後の最後まで近衛刀太というキャラクターに共感できませんでした。そして、そういう読者はかなり多かったと思う。これは少年漫画であるか否かにかかわらずとてつもなく巨大な瑕疵だと思う。

 

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 「ディズニーランドのジャングルクルーズでたとえるなら、皆さんが乗ってるボートこそが主人公キャラクターです。キャラクターは読者の想いを乗せて動く分身。だから、読者が主人公を自分のことのように考えて好きになれないと物語にのめり込めないんです」と話し、キャラクターがストーリー以上に大切であることを説いた。

 

まあ引用を貼らずともわざわざこの文章を読みにきてる人は「共感できる主人公像は大切!」なんて理解してると思うけど……w というか描いてる製作サイドも当然のように理解していると思うけど、それでも言いたくなるくらい、刀太は本当に共感できない主人公だった。まじで。全然。

そもそも共感されうる主人公像・キャラクターってどこか作者の内面的な「写し」の部分があるからだと思うんですよね。作者自身の人生や経験の血肉の部分が入り込んでいるからこそ、生々しい実在感のあるキャラクターになるということ。『ネギま』の主人公ネギくんにはそれがあったと思う。赤松さん自身とはさほど近接していない人物だったかもしれないけど、それでも随所にはやはりそういう要素があったように感じる。そもそも悩みがちなネギくんと読者が共鳴しがちだったのかもしれない。でも刀太にはほとんどそれを感じなかったんですよね……残念ながら。おそらくそれは、刀太のほうがより計算で生み出されたキャラクターだからだと思う。

それでも序盤~中盤は刀太の内面のなさはさほど気にならなかったんだけど、それがUQホルダー後半にいくにつれてその傾向は加速していったと思う。その原因は作中の大きな方針転換だと思う。具体的なネギまでもあったようなハーレム化だ。

 

ハーレム方向に舵を取った結果、刀太の内面が希薄になってしまった

いやまあ「内面がない」ってどんな作品だろうと言えてしまうマジックワード的な批判なので正直ほんとに使いたくない言葉なのだが、さすがに刀太に関してはこう評さざるをえないと思う。マジで内面がないのだ。こいつ何考えてんのマジで? 俺は最後まで理解できんかった。少女漫画に出てくるイケメンと本質的に一緒なんですよ。当然、共感もできない。共感できる主人公というのは、物語のブースト装置みたいなもので、どんなにショボい展開だったとしても主人公に共感できるだけでそれは読者の疑似体験として輝かしい価値を持つ。逆にそうでないならあくまでただの「他人事」で終わってしまう。極論、物語の価値は共感できるキャラクターがいるかどうかで決まるとすらいっていい(なんなら共感できさえすれば主人公でなくてもいい)。

だのに、なぜ刀太はこんなことになったのだろうか……? その主な原因はハーレム方向に物語が舵を取ったことだと思う。

そもそもUQホルダーは当初、女性受けも考えて企画されていた作品だったと思う。これまでの『ラブひな』や『ネギま』に比較して、序盤から顔のいい男性キャラクターが多く登場するあたりからもそれはうかがえるし、夏凜が最初は塩対応で刀太には一切興味がなかった、というあたりからもそれは察せられる。相棒である九郎丸も男女どちらにもなれる中性の存在だったのもそうだ。ようはこれまで以上に女性受けを狙った作品にするけれども、もしもそれでうまくいかないようなら従来どおりの男性向け(ハーレム化)を進めよう、という構想だったのだと思う。

そして、当初の期待とは異なって女性には受けなかったのだろう。10巻あたりからキリエがどんどんヒロイン化していき、九郎丸はもはや完全に女になってしまい、あの塩対応鉄面皮女だった夏凜までもがメス堕ち(コラ)してしまった。

その結果として刀太はいくつもの女をたらしこむプレイボーイになってしまったわけだが、たんなるプレイボーイならまだしも、刀太は3人のヒロインも、雪姫(エヴァンジェリン)もみんな本気で好きという意味不明なことを言い出すことになってしまった。いや本気で好きと言っているが、読者には到底「本気で好き」には見えないというのが問題というか……。ていうか女三人にむかって「好きだぜ」とか真顔で言い放つ男に共感できると思う? イカれてるって思うでしょ普通。

いや、そもそもハーレムもので男性主人公が複数のヒロインを本気で好き、というのはもはや今では珍しくもなんともない。ないのだが、刀太に関してはカラッとした性格の上で全ヒロインが好きだったりするので、一層何を考えてるのかよくわからないキャラクターになってしまっている。

これは作劇的・創作技術的な話になるけれども、ちゃんと説得力をもってヒロインが全員好きであると読者に受け入れさせるのは、本当に難しいことだ。なにがそれを成立させているかは、正直けっこう「偶然」に成り立っていることが多い気がする。具体例をあげれば、たとえば『なろう小説』の筆頭として、最近アニメ化もされた『無職転生 ~異世界行ったら本気出す~』とかはハーレムとして複数のヒロインを抱え込むことになる。

 

 

じゃあ『無職転生』の主人公であるルーデウスに対して「内面がない」と感じるかといえば、全然そんなことはない。ルーデウスがハーレムを成立して、複数のヒロインと結ばれるのは多くの読者・視聴者がちゃんと納得できると思う。それはルーデウススケベだからというのがまずそうだし(あらためて考えると実に上手い設定)、もとが苦悩を多く抱えた生々しい人物であるというのがちゃんと描写されているからだ。でも正直なところ、原作者がそれを最初から狙って計算してやったとは思えない。たぶん偶然だろう。それでも計算づくのUQホルダーに比して、ちゃんと成立しているのは『無職転生』のほうだと思う。まあここが創作の難しいところなのだが……。

なんで無職転生のほうが成立しているかといえば、それはやはり作者の内面の切り売りが発生しているからだろう。対して、刀太には……どうしても人間らしさが感じられない。それは「少年漫画主人公」という機能から逆算して設計されたキャラクターだからなのだと思う。決して間違っていない。間違っていないのに……間違っているのだ。計算だけじゃ駄目なだな……と俺は読んでて思わず考え込まされました。

 

そもそもハーレム化を図ったのは、不死人たちの「集団」として生きていく結末を想定していたからだというのもわかるんですよ。一万年を超える『悠久』を生きる存在にとって、パートナーである存在が「男と女」の一対一である必要はどこにも存在しないわけで、それを描写する上でも複数のヒロインを抱え込むという判断は論理的に納得できる……し『複数の女を受け入れられる度量の広い人物=英雄的人物』の表現としてこういう選択をしたのも理解できる。それがエンターテイメント史における「ハーレム」文脈の先端的表現として挑戦したというのも、ちゃんと理解できる。

だけどその演出意図はやっぱり成功しなかったと思う。少女漫画のモテるイケメンを見て「英雄だ……!」と感じないのと一緒。最後まで刀太は(ネギくんとは違って)『他人』だったし、その決断に対してもどうでもいいという気持ちがどこかつきまとってしまった。そこが読んで自分自身すごく残念だった。

しかもUQホルダーのエロコメ描写は、見てて本当にキツかった。

そして……もうここがね、なんというか……ある種すべてかもしれない。『ラブひな』『ネギま』の頃にはある種、当時最先端だったギャルゲー文法の絵柄の輸入という側面があり、そういう絵でエロが少年誌で見られるというのがある種の価値になっていたように思うが、現在のようにインターネットが普及し、PixivやTwitterを漁ればいくらでも超クオリティのイラストを見られる……それこそ、UQホルダーに登場する女性キャラよりも遥かにエロくて興奮するイラストが無料でいくらでも見られる時代に、古風なエロコメディ描写を見るのは、本当に、本当に、ガチできつかった……。セックス描写とかもね……必要なのも理解できる! できるんだけど! なくてよかったなぁという気持ちが強い。どうにかならんかったのだろうか。10代20代はそもそもエロをUQホルダー以外で充足するし、旧来のファンはそもそも加齢でエロに対する欲求が減衰しているだろうしで、誰も得しない描写になっていたんじゃないかなと思う。残念ながら。

 

話が逸れた。

とにかく一番言いたいのは、。こうした「中身のない人間」が「虐げられた弱者の怒り」はびこる世界を救ったのを見て、そりゃあ心が動かされることはないよなあ……ということ。5・6巻がすごく感動したのは、やはりあのあたりは刀太ではなく三太が主人公だったからということなんだと思う。

 

時代性に即した物語にした結果、時代にそぐわない作品になってしまった

優等生的な結論のつまらなさ

ずっと主人公・近衛刀太の問題を書き連ねてきたが、それと連結する形で最終的な物語の結論にも納得できたとは言いがたい。UQホルダーは、『完全なる世界』としてすべての人類を幸福な微睡みに落とそうとする(ようは人類補完計画みたいなもんだ。違うけど)造物主ヨルダ・バオトと、それを阻止しようとする不死者たちの対決というのが全体的な物語の構造になっている。最終的に刀太たちはヨルダの計画を阻止し、「たしかに今は格差があり貧困の苦しみはある。だけどそれでも人類は漸進的にゆっくりずつ良くなっていってるよね、これでいいよね」と締めるのが物語的な帰結だ。

この結論それ自体に不服はない。というかそりゃそうだろうな、とすら思う。

だが正直、物語としてはあまりに優等生的な結論でつまらないなと感じたのも正直なところだ。

なぜならそれは単なる現状維持にすぎないというのがまず一点。そしてもう一点が、その結論を下しているのが「虐げられた弱者の側」ではなく、永遠の命を持つ悠久の不死者たちというのが一点だ。これは刀太の造形について語ったとこでも述べたとおり、その結論を出すべきなのは人類の側であって、不死者たちではないと思う。ようは単なる価値観の押し付けになってしまっているわけだ。加えて、ごくシンプルにあまりに優等生的でつまらないというのもある。さらに言えば、今の時代に合わない結論だな、とも思う。

時代に合わせて、時代遅れ

UQホルダーは時代を読んで、先取りして「格差」を扱って、刀太という明るい結論を導きうるキャラクターを主人公を据えたのだが、連載が長期化した結果、時代にそぐわない結論を出さざるをえない主人公になってしまったなと思う。

そもそも今の時代に合ったものは何?というと、今は「ワルイコトをする優等生の時代」だというのが自分の認識だ。

それをもっとも端的に表現しているのが、2020年にリリースされた『うっせぇわ』という歌だ。

youtu.be

 

この曲は、論理的・効率的に正しいことに邁進しそれを勧められる優等生が、心のなかで「んなコトてめえに言われなくてもわかってんだよボケが」とキレ散らかす歌なのだが、これこそが現代の10代~20代の内面をもっとも代弁していると思う(いやまあUQホルダーを読む10~20代はおらんだろうが……)。

現在10代のいわゆる「Z世代」は優等生が多く、その考え方を正しいと感じる一方でその屈託を抱え込んでしまっているこじれた世代なのだと思う。そうした内面の叫びを発散する形で、優等生が、非優等生的なことをしでかす(そしてそれが弱者の代弁んという形でも現れる)のが今なのかなと感じています。

それは『うっせぇわ』という歌だけじゃなく、すでに物語作品でもあちこちで現れていると思う。最近上映された『バットマン』は、先日の『ジョーカー』と同様にあまりにも社会の恨みをそのまま提示するダークな物語だったし、『天気の子』や『シン・エヴァ』はすべてが終わった「しでかしてしまった」世界でどう生きるかの話だし、それは2020年のゲームオブザイヤーにも選ばれた超傑作『Last of Us PartⅡ』でもそう。一つ突き抜けたどうしようもなく崩壊した後の世界が支持されるようになっている。

そこの対してUQホルダーは(超一級の作品との比較は酷とはいえ)あまりにも優等生な結論すぎる。「たしかに今は格差があり貧困の苦しみはある。だけどそれでも人類は漸進的にゆっくりずつ良くなっていってるよね、これでいいよね」だと? 「んなコトてめえに言われなくてもわかってんだよボケが」と『弱者が』叫ぶのが今の時代なのだ

なので、UQホルダーが出した結論は、それはそれで正しいし間違っていないとも思うのだが、物足りないなあ……と感じてしまった。そしてそれは主人公が近衛刀太だったせいで、そうせざるをえなかった、という事情もあると思う。刀太には弱者の代弁をできるようなポテンシャルはない。

 

批判ばかりなので建設的?な意見も提示してみる。

もし自分が、現代風にUQホルダーの結末を作るのだとすれば『みんな平等に不幸』な結末にしただろうなと思う。たとえばそれは、あの世界における魔法という存在そのものを消滅させるという形になると思う。

あの世界は魔法によって世界が発展しているため、あらゆる既得権益は魔法の存在をベースに構築されている。ほとんどの人類は魔法をもとに利益を享受しており、それは貧困層もかわらないが、富裕層はより多くの利益を得ていると思われる。なので、魔法の存在がなくなったらおそらくよりダメージを被るのは富裕層・権力者の側だろう。全員不幸になるが、権力者のほうがより不幸になるわけだ。

そしてそれは世界の構造そのものをリセットするという大暴挙でもある。

間違いなく死人は大量に発生するだろうし、世界中は大混乱に見舞われるだろう。だが魔法自体が消滅したことでヨルダの企みは完全に失敗し、世界が完全にリセットされる。つまりあらゆる機会が全人類に「平等に」訪れる。

そもそも『格差』とは何が不平等なのか?といえば、それは『機会の不平等』が原因なので(金があれば学んだり、挑戦できるチャンスが、貧乏人には存在しない。機会そのものがない)、魔法そのものを廃絶することで、皆があらたな挑戦をしなければならなくなるというわけだ。

おそらく地獄が生まれるだろうが、それは同時に希望でもある……という感じで自分は考えるんじゃないかなーと思った。もちろん、この結論に説得力を持たせるために、刀太には記憶を失って貧困の屈辱的生活をしばらく送ってもらったりするんだろうな。まあ、あくまで個人的な妄想ですが、自分だったらこうするだろうなということで。

 

おわりに ~それでも『UQ HOLDER!』は良い作品だと考える

さて、さんざんに『UQホルダー』という作品をくさして文句をたれてきた。

だがそれでも基本的には『UQホルダー』は良い作品だと思っていることはちゃんと主張しておきたい。間違いなく、良い作品です。古いけど。エロコメは見ててしんどいし、刀太にはちっとも共感できないけど、それでも良い作品だと思う。

そもそもこれだけ緻密に背景が描かれ、太陽系スケールで古今東西さまざまな不死者を題材に超能力バトルを繰り広げる作品は、他にほとんど類例がないんじゃないかと思う。あとは『ネギま!』を読んでた人間としては、エヴァンジェリンが孤独ではなく、いくつもの関わりのなか未来を生きていけるようになったのはシンプルに嬉しかった。良かったねエヴァ……。やっぱ刀太よりも全然おまえのほうが親身になれるよw

そして……何より、今度こそちゃんとネギまを終わらせてくれたことに、個人的には感謝したい。

すでに書いたが、週刊少年マガジンに連載されていた当時に『魔法先生ネギま!』は個人的にあまり納得できる終わり方ではなかった。「なんでナギと戦わねーまま終わるんだよ……! ちくしょう……!!」と当時ぶつぶつ不満をもらしていたものです。それが別の並行世界とはいえ、今後はちゃんと結末をつけてくれたことにはなにか胸のつかえが降りたような感覚があります。ああ、終わったんだなぁ……という感慨深さはたしかにある。

そもそも、なんですか? こんなアホみたいな長い文章をしたためてる時点で俺にとっては巨大感情作品なんですよ。現時点で12800字ですって。アホなのかマジで。こんなに書いてどうするんだ。ほとんど誰も読むわけもないのに。それでもどこかに咆哮せずにはいられないくらい、自分の人生にとって『魔法先生ネギま!』という作品はひどく密接にかかわっていたんですよ。『ネギま!』を通じてたくさんの友人ができたし、今でも関わりがある人はたくさんいます。20年ですよ。それだけの時間をちょっとずつ重ねたんだから、こんなにくさしていても、それでも嫌いでいられるわけがないんですよ。

 

だから、最後までこの作品を描いてくれてありがとうございました。

赤松健さん含め、編集および製作スタッフのみなさん、本当にお疲れ様でした。そして、繰り返しになりますが、本当にありがとうございました。

 

赤松さんは今後、政治家として表現の自由を守る活動をしていくと思われます。今後は一有権者として、赤松さんの活動を見守りたいと思います。現在、政治を扱った漫画を描いたとして色々言われていますが、政治家としては武器が不足している現状を考えれば漫画を「使う」のは当然の判断だろうと思うので、それ自体には違和感は感じません。そもそもその漫画読んでないから自分にはなんとも。ただ、それが間違った方向に用いられるのであれば、批判を受けるのは当然だと思いますし、私も有権者として批判するつもりでいます。

現時点で、漫画界と政治界を結ぶ影響力をもった存在としてはほとんど唯一の存在に赤松さんはなっていると思います。SNS上でフェミやらなんやらたわわで騒ぐ現状において、表現の自由を守る活動を、私は基本的には支持します。もちろん問題があれば、手心を加えず「政治家として」批判されるべきだと思います。

なぜか最後に政治の話になってしまったけど……w ともあれ、UQホルダーが無事に完結したことそれ自体は喜ばしいことだと思います。

 

何度も繰り返しますが、本当にお疲れ様でした。

そしてありがとうございました。……20年以上読ませて頂いたんです。たった13600字の文句くらいは許してください(笑)。

十二国記『白銀の墟 玄の月』はやっぱりすごかった!(たぶんあんまりネタバレしてない感想)

 ■十二国記シリーズ最新作が18年ぶりに発売!!

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 ご存知の方も多いでしょうが、国産中華風ファンタジーの大傑作『十二国記』の最新作が18年ぶりに発売されました。超がつくほど有名な作品なので、どんな作品なのかはあえてここには書きません。今回は4冊分発売で、先程読み終えたわけですが、良かったか悪かったかでいうと、超々々々々々々々々々よかったです。ていうか完璧か? ド傑作だったんだが。小野不由美の筆力、いささかも衰えることなし。どころか、ますますその絶筆は冴え渡っておりました。ひえー。

 そもそも私が十二国記に触れ合ったのは、ちょうどYom yomに『落照の獄』(『丕緒の鳥』に収録)という十二国記の短編が掲載される数年前あたりだったんですが、シリーズを一通り読み終えたあたりで『十二国記シリーズ、最新作短編が○年ぶりに掲載!』と銘打たれて『落照の獄』が掲載されてておりまして、「おっ、ということはシリーズの続きが出るのもそう遠くないな!」なんて思っていたわけなんですが、よもやそこから10年近く待たされるとは思いもしませんでした。いや、ちゃんと続きが出たからいいんですけど。

 

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

 

 

 で、最新作の『白銀の墟、玄の月』なんですが、長編シリーズとしてはこれまで最新刊だった『黄昏の岸、暁の天』で主題となっていた戴国を舞台に、直接の続編が描かれた作品です。そんで実際に読んでみて『白銀の墟』はめちゃくちゃおもしろかったわけですが、一読してみてわかったのは、「まあこれはたしかに18年かかるよな……」ということで……。いや実際はどうだったのかわからないですけど(ぶっちゃけサボってた時期もあると思う、人間だもの)、すくなくとも一年やそこらで書けるものではなかったと思います。そんな生なかな内容でゎない……。

 というのも、『白銀の墟』の設定の目の眩むような細かさ!ですよ。どの役所にはどういう役職があって、その役職の上下関係はこうなっていて、部署間はこういう間柄で、それはどういう場所にあって、その東西南北にはこういう地理になっていて……。そういった世界を定める設定がこれでもか!!!!!オラ!!!!!!これでもか!!!!とばかりに出てくる。読んでて正直「そんなたくさん言われても覚えられんがな」とじゃっかん嫌になるくらい出てくる。四巻のうち半分くらいは設定の説明してるんですよ。マジかよ。

 加えて、登場人物がめちゃくちゃ多い。英伝か?*1いやもうほんと多くて、軽く数十人は当然として、百人は……いってないと思いますが、それぐらいとにかく戴のキャラクターがでてくる。しかも全キャラクターが物語中の役割が違う。とんでもない数が出てくる。これらをすべて統御して物語に落とし込もうとするなら、そりゃあ猛烈な労力がかかるわけで……しかも小説は基本的に個人制作。年単位の時間がかかろうものです。

 

■けどなんでそんな大変な物語にしようと思ったの??

 しかし素朴な疑問として、じゃあなんでそんな大変なお話を書こうと思ったんや?? もっと小規模な話にしてもよかったやんけ、と思うのが普通だと思います。実際、著者である小野不由美の小説家としての力量を考えれば、一冊でまとめること自体はけっして不可能ではなかっただろうと思います。それは十二国記シリーズの短編の完璧な(完璧すぎる)構成を見てもあきらかですよね。著者はやむをえない事情があって、こんな大著を記したのだと思います。ていうか著者自身、短くて済むならそっちのがよかったんじゃなかろうか。大変だし。

 ではなぜわざわざ、大量の設定、大量の人物を用意して『白銀の墟』を描いたのかといえば、それは戴の民衆たちによる自助努力による国の復興を描かなければならなかったからにほかならないと思います。つまり、どこか誰かの英雄による国の救済ではなく、その国の権力を持たない(失った)多数の人間たち・民衆によって国が救われる過程を描くこと、それ自体が『白銀の墟』を書く最大の目的だったからなんじゃないかなと。というのも、直接の前巻にあたる『黄昏の岸 暁の天』では、戴国がおかれた絶望的な状況が徹底的に開陳されます。

 

 

① その国の王を選ぶ天命を帯びた存在=麒麟がそもそも国にいない。蝕によって蓬莱という異世界に飛ばされてしまっていて、行方不明。かつ蓬莱に行く手段はごく限られており、探すことはおろか、行くことすら困難。

② 戴国はクーデターによって、政府を掌握されており、王国軍も完全に押さえられている。その状態で王は行方不明で失踪している。

③ 行方不明の麒麟は、角を王位簒奪者(阿選)に切られている。これによって行方不明の王を探すこともできない。

④ 麒麟はふつう金髪だが、泰麒(戴国の麒麟)は髪の毛が黒い「黒麒」であり、ひと目で麒麟と一般人の見分けが付かない。なので民衆に対して視覚的に訴えることが困難。

⑤ 十二国記の世界は、王も麒麟もいない状態だと天候が荒れまくって、農作物とかの収穫が落ちる上、妖魔という化け物もあちこちに出現するようになる。加えて、戴国はもともと北国なので、冬の寒さが厳しく、ただでさえ生きるのが困難な地域。

 

要するに、一言でいうと、国として「詰んでる」状況なわけで、まあ『黄昏の岸』を読んだ人は「え……もうだめなのでは……これは……????」と思うくらい国として傾きまくってる状況なわけです。『黄昏の岸』では、他国の王の協力を得て、ようやく麒麟・泰麒を探すことに成功して終わるわけですが、戴国じたいは阿選という偽物の王が支配している状況でした。これに加えて『黄昏の岸』では、テーマとして掲げているのは「自分は自分で救うしかない」ということ。ここまで詰んでて、どうしようもない状況であるにもかかわらず、十二国記世界の神の人々は、なぜ戴を救わないのか!と天上世界の者たちに怒りをあらわにする李斎に対して、陽子が返した言葉がとにかく強く印象に残っています。

 

 思った瞬間、目眩を感じた。――では、李斎のこの叫びは、民の叫びだ。

確かに陽子はかつて、これに似た叫びを慶の街で聞いた。

「李斎……私はその問いに答えられない。けれども一つだけ、今、わかったことがある」

「わかったこと?」

「もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」

 李斎は不思議そうに首を傾げる。

「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」

「それは……どういう……」

「人は自らを救うしかない、ということなんだ――李斎」

(――「黄昏の岸、暁の天」より、強調引用者)

 

初めてこれ読んだときは「き、厳しーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」と悲鳴をあげてしまったんですが、つまり『黄昏の岸』で一つ結論づけられていたのは、ここまで絶望的な戴の国状であっても、天にすがるのではなく自分たちの力で国の問題を解決しなければならない、ということなんですね。

しかし、実際それではどうやって解決するのか? という具体的な部分については保留する形で『黄昏の岸 暁の天』は終えていました。次の作品でそれが描かれるのだろうという余韻を残して……そして18年の月日が流れました。そして『白銀の墟 玄の月』では、その18年越しの宿題をついに片付けたわけです。

とはいえ戴という国を自分たちの力だけで救うという過程を、物語の次元に落とし込むのは決して簡単なことではなかったんだと思います。すでに述べましたが、誰か一人の英雄にとって国が救われるのではなく(本来そういう役割を担う王たる存在、驍宗は行方不明になっているし、王の相方である麒麟麒麟としての力を失っている)、国をなす人々だけの力で解決する過程を描くのは、大変です。

というかそもそも、十二国記は死なない一人の英雄=王によって国が常に整えられていくことが可能なような設定が組まれているわけなんですが、それをあえて否定した脱英雄譚として物語が構成されていることが実に興味深いです。そういう意味ではとても現代的な作品だといえましょう。そういえば先日完結したばかりの『ゲーム・オブ・スローンズ』も脱英雄譚的な締めくくりだったことが印象深いですが。

ともあれ、ちゃんと戴国の物語にひとつケリがつけられたのがとにかく良かったです。感慨深いとしかいいようがありません。

 

■では、十二国記シリーズはこれで終わりなの??

たぶん終わんないんじゃないですかね。たぶんですけど。

今作で十二国記世界におけるさまざまな謎の一部が解決されたことは事実だと思いますが、まだ未解決の大きな謎が残っています。そう「天とは何か」という部分です。神として世界に存在しているにもかかわらず、戴国の窮状にたいして結局最後まで大したことができなかった「天」ですが、『白銀の墟』においても、最後の最後まで結局なにもしませんでした(笑)。いやしないだろうなと思っていましたけど。

ようするに十二国記世界の、もっとも根幹たる部分の謎がまだ明かされていないんですよね。ファンタジー的にいえば「なぜこの世界が作られたのか?」ということになるんでしょうか。私はべつにファンタジーに明るいわけではないですが、蓬莱=現実の我々の世界とどうしてつながるのかといった点や、『落照の獄』で王が病んでいったのも『白銀の墟』で起こったのと同じ理由によるものなのかといったところなど、未解決の問題はまだ残っていると思います。なので、続きを作ろうと思えば問題なく作れるんじゃないでしょうか。

といってもまあ、それは「作ることが可能」といっているだけで、作者自身がどう思っているかはまったく別問題なので。出てくることもあれば、出てこないこともあるでしょう。幸い、短編はすぐに出てくるらしいので、長編としての続きがふたたび刊行されることも期待していいのかもしれません。18年かかるかもしれませんが。(ちゃんと生きてるかな……自分……)

ともあれ今は2019年を代表する一つの傑作が生み出されたことを、素直に喜んでおきましょう。『白銀の墟 玄の月』、本当に素晴らしかったです。小野不由美先生、ありがとうございました! 続きも楽しみしています!(←

 

 

*1:実際、十二国記の構想には銀英伝がアイデアとして重要だったようですが、ここでは触れません

【ネタバレ】PS4『Detroit: Become Human』レビュー:アンドロイドが「人種」として扱われていること

PS4ゲーム『Detroit: Become Human』をクリアしました。

一週目は特に攻略など見ずにそのままクリア、その後二週目で全員生存エンディングを見たところです。東京ゲームショウ2018開催に伴ってセール販売中だったのと、以前から良い評判を聞いていたため興味を持っていました。また自分自身が次に考えている話でも人工知能を出したいな~と思っていたので。結果、非常に面白かったです。製作会社はクアンティック・ドリームというフランスのゲームメーカーで、恥ずかしながら初めて聞いたメーカーだったのですが、たいへんよく出来ていたゲームだったと思います。

 

 

■どんなゲーム?

どんなゲームかというと、まさに「遊ぶ映画」「遊ぶハリウッド」と言うべきもので、映画をコントーラーで操作しながら物語を進めていく内容になっています。ほとんどムービーと見分けがつかない高精細な3Dモデルで、キャラクターを操作できるのはもちろん、椅子に座る、立つ、ゴミを集める、手を差し伸べる、ドアを開ける、といった細かな動作に左スティックや各ボタンが、時間制限のあるリアルタイムで割り振られ、画面表示にあわせて進行させていきます。要するにビジュアルノベルにおけるクリックの代わりに○×△□などのボタンやスティックを操作して映画を進行させていく感じですね。ノベルゲームにおけるメディア論的には「1クリックごとに感情移入は促されていく」という考え方がありそれに通じるものを感じますが、それ以上の没入感があるように思いました。文章では伝わりづらいかもしれませんが、実際にやってみるとなかなかあまりないゲーム体験だったので、そういう意味でも非常によかったと思います。

物語は2038年、アンドロイドが実用化されたアメリカ社会デトロイトにおいて、アンドロイドが自身の自由を勝ち取るために蜂起する(しないルートもある)といったもの。

作中ではアンドロイドがすでにチューリングテストを突破しており(※人工知能関連では知らないとモグリ扱いされるほど超有名な話。作中にも出てくる。詳しくはググってね)、公園の掃除や家事手伝い、売店の売り子などにおいてすでに実用化が果たされている状態です。その余波で世界的に失業率が急上昇(失業率30%以上になっている)、アンドロイドに職を奪われた人間たちから多くの反感を集め、ピリピリした状態になっていて……という感じ。

ちなみに現実の社会でも、人工知能によって人間の職業は奪われていくだろうという予測は立てられており、そういう意味では、アンドロイドの実用化にともなって失業率増加⇒ヘイトが高まる……というのはリアリティのある設定だなと感じます。 

2050年の世界―英『エコノミスト』誌は予測する

2050年の世界―英『エコノミスト』誌は予測する

 

 ↑このへんにもそういうの書かれてた記憶があります。興味があると読めばいいかも。

特に本作では、芸術文化の方面でもアンドロイドが人間以上の活躍をしはじめているという点が非常に大きいのかなと思います。スポーツにおけるアンドロイド選手の登場は簡単に予想できるものですよね。現在でも義手義足アスリートの方が、一般の健常者アスリートよりも好記録を出し始めているので、ある意味当然ではありますが、芸術分野はある意味で人間にとっての「聖域」なんです。それだけにそこで人工知能に劣ってしまうというのは、種としての敗北に等しい(にもかかわらずアンドロイドが事実上の「奴隷」として扱われていることに、このゲームが主張する問題意識が含まれているわけですが)。つってもまあ、現実のわたし達の世界でも、すでに人工知能の小説が実現されていることを考えると、その聖域も確実とはいえないわけですが……まあそれはさておき。

以下の本なんかでもそのあたりの、人工知能によって人類が職を奪われるのは仕方ないが、いまだに人工知能では「アート」についてはどうにもならないと触れていた記憶があります。聖域だって話ですね。

 

 

それはともかく、一通り遊んでみて「非常によくできた秀作」といった印象を受けました。

傑作というほど衝撃的ではないけれども、大変満足のいく内容という感じ。特に脚本の質が高いのがよかった。脚本がだめだと、わたくし、それだけでめちゃんこ萎え太郎になってしまうのですが、デトロイトは最後まで脚本のレベルが高い水準で安定していました。脚本担当がこの物語のポテンシャルをよく理解しているのが物語序盤から伝わってきたため、最後まで安心して見られたのは本当にありがたかった。おそらくハリウッド系の脚本術の影響下にあるストーリーだと思うのですが、それ系の脚本にありがちな「感情を操作されているちょっとした不快感」みたいなの……は多少感じるものの、全体としては最後まで中だるみせずにストーリーが駆動していたのは好印象です。複数本に連なる大長編映画を見たような充実感、満足感があります。

また先に少しふれましたが、本作はいわゆるビジュアルノベルの系譜に連ねてもいいゲームだと思われます。自分はそういう風に捉えました。幹となるストーリーは固定されているため大きなルート分岐はありませんが、枝葉の分岐の仕方などは、あきらかに日本のビジュアルノベルを彷彿とさせるものがあります。そういう点ではかなり意外でした。もともと自分はゼロ年代エロゲー諸作はもちろん、『弟切草』やら『かまいたちの夜』あたりから始まるビジュアルノベルが好きだったので、まさか海外産のゲームでそういうのが出てくるとは思いもせず、良い意味で期待を裏切られて嬉しかったですね。

news.denfaminicogamer.jp

 

↑この記事ではまさに、日本のノベルゲームの第一人者といっても過言ではないイシイジロウ氏がデトロイトに対して抱いた所感があきらかにされているのですが、その感想は興味深いですね。イシイ氏は日本のノベルゲームが持つメタな各ルートの等価性を見ていて、それだけにデトロイトに否定的な評価を下しつつも、そういう評価しかできない日本ノベルゲーム文脈の限界を感じ取ってもいます。これはかなりうなずける話。

そもそも西洋社会だと一神教的世界観なので、日本の多神教世界観的な複数ルートが並列されている状況が馴染まないのかもしれません。どうしても正解を求める傾向にあるのが西洋文明にはあるので。

 

さて……では、以下からは完全にネタバレ……ストーリーの核心部分まで全部明らかにして書きますので、その点ご了承ください。すでにゲームをクリアした方か、もしくはゲームを遊ぶ気はないけどネタバレ込みで内容は把握しておきたい、という人向けです。そう、つまり君のことだぞ(?)。本当にマジのマジで全部書いちゃうから、勘弁してね。

 

■コナーについて

まず本作は、三人の主要人物の視点が絡み合う多視点モノだということを述べておくべきでしょう。その三人とは、すなわちゲームタイトルにも表示されているアンドロイド……『コナー』『カーラ』『マーカス』の三人です。本作は彼らの視点が交代しながら進んでいき、やがてクライマックスで交わる……といった筋立てになっているのです。

で、この三人の設定がまた「この脚本家、よくわかってるな!!!!!!!」という感じでめちゃんこ良いんですわ。この三人をそれぞれ個別に見ていきましょう。

 

まずはコナーについて。パッケージの右上にいる男のアンドロイドです。彼は主要人物三人のなかではもっとも「アンドロイドらしいアンドロイド」という役割を与えられているキャラクターです。ルートの選び方によっては、彼は数十回死ぬことが可能ですが、そのたびに別個体にメモリーを委譲することで何事もなかったかのように蘇ってきます。「私はコナー。サイバーライフ社のアンドロイドです」。こわい。

作中ではアンドロイド生産を『サイバーライフ』という大手メーカーが独占している状態です。コナーはそのサイバーライフ社における最新鋭の個体。犯罪対策に特化したアンドロイドとして、デトロイト市警のベテランであるハンク・アンダーソン警部補とパートナーを組み、捜査を行っていくことになります。しかもその捜査担当は、主にアンドロイド絡みのもの。つまりコナーは「アンドロイドを捕まえるためのアンドロイド」なんですね。Fateでいうところの「アサシンを殺すアサシン」などのようなメタ的存在なんですな。しかも本作では、人類とアンドロイドとの対立が重要なテーマになっていくのですが、そのなかでコナーはその中間に立つ存在として揺れ動いていくことになります。ふたつの種族のどちらに立つのかを求められるアンドロイド……それがコナーだというわけです。

通常、アンドロイドは人間の命令に完全に従うようにプログラミングされています。なので普通に生活する上では問題を起こすことなどないのですが、作中のデトロイトでは、さまざまなことをきっかけにアンドロイドが自分の意思に目覚める……つまり「変異する」。そしてその変異を起こした「変異体」は、大概の場合、アンドロイドの所有者との諍いという形で出現することになります。コナーはその変異体について、発生原因の特定ないし解決を求められています。

そして……コナーがアンドロイド犯罪の捜査にあたってパートナーを組むことになるハンク・アンダーソン警部補というヒゲが生えたやさぐれたオッサンがまた良くてですね……。

ハンクはアンドロイドを毛嫌いしている人物です。何かとコナーに対して「アンドロイドのくせに」「近寄ってくんじゃねえ」「ひょこひょこ金魚のフンみてえについてきやがって」などとつっかかってきます。

彼はもともと非常にすぐれた警官で、レッドアイスと呼ばれる新型麻薬の摘発事件に関連して、もとはデトロイトでもっとも優れた警官であるとして表彰されていた人物です。しかしその彼は……これはまさにハンクの設定の核心部分ですが、かつて事故で唯一の息子が大怪我を負ってしまい、息子の手術を行ったアンドロイド医の手術失敗によって最愛の息子を失ってしまっています。しかもその背景には、病院にいる人間の医者が全員レッドアイスによって酩酊状態にあったため、手術できるのがアンドロイドしかいなかったという強烈な皮肉があります。ハンクが為したレッドアイス摘発はまったくの無意味だったわけです。その結果、どうしようもなくハンクはアンドロイドを憎むようになってしまった……というわけですね。

で、そんなハンク・アンダーソン警部補は、コナーとでこぼこコンビを組むことになります。当初はちぐはぐだった関係も事件解決に協力していくにつれて、ハンクはコナーに理解を示すようになり、またコナーも人間らしい「感情」を理解していくことになるのです。ただし、ハンクの危機を無視して事件解決に走ったり、ハンクの命令を無視してアンドロイドを捕まえようとしたりすると、ハンクとコナーの関係に完全に亀裂が走ります。結果としてハンクが相棒コナーを銃殺する、なんていう展開もあったりする(そしてその後、コナーは別の個体にメモリを移し替えて何事もなかったかのように現れたりするのがまた良い)。

とはいえ、ですよ。そういった展開は何にせよこのハンクとコナーの組み合わせは……この世界のエンターテイメントを楽しむオタクなら理解頂けることかと思いますが、経験の浅い新人刑事と、やさぐれたベテラン刑事の組み合わせが嫌いな人間はいません(断言)。いやコナーはアンドロイドだけど。ミステリーにおけるホームズとワトソンの関係性然り、この手の組み合わせはエンターテイメントにおける鉄板です。脚本家よくわかってる! いや初歩といえば初歩だけど、アンドロイドの捜査補佐官というのはあまりない設定だけに、おもしろかった。 まあ欲をいえばもうちょっと会話のチグハグ感がほしかったところではありますが。

それと余談。すでに書いたように、コナーはサイバーライフ社の最新鋭アンドロイドです。そのため、変異体事件の解明を強く求められています。選択肢の選び方によっては、アンドロイドの側(変異体の側)につかずに、最後までサイバーライフ社の「猟犬」であることを選び続けるエンディングも可能なのですが、その場合、すべての事件を見事に解決し、アンドロイドの蜂起を完全に鎮圧させたあと、廃棄されます。しかもその捨てられ方がいい。管理者であるアマンダに「コナー、今までありがとう。見てくれ、君の新バージョンが開発されたんだ。かっこいいだろう?(目の前の新型を見せびらかす) そんなわけだから君はもうここでおわり。それじゃあね」みたいな感じで超あっさり捨てられます。どこまでいっても犬は犬、奴隷は奴隷というわけですね。クール。脚本家はよくわかってる。こういうとこが好きなんですよね~。

 

■カーラについて

三人の主人公のうち、唯一の女性アンドロイド。パッケージの中央で女の子と一緒に移っているキャラクターです。このキャラクターもまた良くてですね……このカーラはいわゆる「家事手伝いモデル」というやつでして、家に配置されれば、掃除洗濯炊事子どもの相手まで何でもござれのアンドロイドです。

そんなカーラが購入された先はトッドという男のもとなのですが、こいつがまさに絵に描いたような典型的なDVクズ親父なんですね。メンテナンスを終え、一度メモリ消去を行ったカーラが連れられたトッドの家は、めちゃくちゃに荒れています。あちこちに空の酒瓶がちらばり、テーブルの上にはピザを注文した空き箱が積み上げられ、台所には汚れた皿が散らばっています。洗濯もろくに行われていない。そんな父を見て、娘であるアリスは怯えたようにトッドから逃げ回っています。

どうやらトッドはアンドロイドの社会進出の影響をもろに受けて失業状態。仕事にありつけていません。妻にも見捨てられて逃げられています。そのくせ、家では酒を飲み、その憂さを晴らすために娘のアリスには暴力をふるっています。さらに極めつけにこのトッドという男、なんとレッドアイスの常習者でもあります。カーラが家事を手伝う横で、トッドがレッドアイスをキメるシーンがあるんですが、それなんてもう鳥肌モノですよ。薬を決めて「あっ……おっ、おっ、ぉっ……ぁ……」みたいなトッドの超キモいあえぎ声が聞かされる横で、暴力にアリスは震えているっていう。しかもどうやら、カーラがメンテナンスに出されていたのは、トッドによる八つ当たりにとって破損していた(頭部が引きちぎられた)からだったということまで明らかになるのです。

 

家事手伝いアンドロイドであるカーラ……すなわちプレイヤーに対してこのゲームは、「そんなDVクズ野郎トッドと、暴力に怯え、殺されかけているアリスを前にしてそのまま見過ごすことができるのか? 救わないのか?」と問いかけてます。こうした極限の問いかけがこの後もいくつも登場するのですが、それゆえに、このゲームはある種の心理テスト的な側面があります。各チャプターをクリア後に、このデトロイトを遊んだ全世界のプレイヤーの選択肢の比率がパーセント表示されるのですが、それがまたなかなか興味深いんですよ(ここでアリスを見捨てるという選択をするユーザーもそこそこいます)。とはいえ、大半のプレイヤーは見過ごすことができないでしょう。ここらへんの脚本の巧みさは見事ですね。以下の本とかそういうテクニック書いてるんですが、まさに典型って感じです。

 

「感情」から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方

「感情」から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方

 

 

激昂するトッドからアリスを救うことで、カーラはアンドロイドとして「変異」します。展開によっては「トッドからアリスを守って逃げる」「トッドをカーラが射殺して逃げる」「トッドをアリスが射殺して、カーラと逃げる」「トッドもアリスも殺される」など細かくさまざまに分岐していきます。

そんなこんなで、母親代わりとなったアンドロイドのカーラと、アリスとの逃亡劇が始まるのですが……いや~~~これがまた、とにかく不憫極まりないんですわ。

なにしろトッドの凶行は突発的なものなので、金もないし逃げるツテもない。とりあえずバスに飛び乗って逃げたはいいものの、どこにいけばいいのかもわからない。逃げた先のバス終点では、雨が降って冷えきった身体をふるわせるアリスを泊めるため、カーラは困難に直面します。アンドロイドの服だとバレれば宿泊できないのでコインランドリーで服を盗むかどうか葛藤したり(横でアリスが見てる…)、コンビニで宿泊する金を得るために銃で脅すかどうか、万引きをするかどうか。あるいは罪に手を汚さないかわりに、廃棄された車で野宿するか、もしくは安全ではない廃屋で野宿するか……など。倫理的な面で、カーラはアリスを守るためにさまざまな辛い決断を強いられることになります。

そうしてやっとこさ一泊したかと思えば、通報を受けたコナーがカーラを追い掛けてきて必死に逃げることになったり、逃げた先が、アンドロイドで違法改造を繰り返すサイコ野郎の家だったり、そこから更に逃げたかと思えば今度は、通報を受けた警官がかくまってくれた家に訪れたのでだまさなければならなかったり……。エンディングを迎える最後の最後まで、このカーラとアリス(とルーサー)の逃亡には、とにかくハラハラさせられることになります。繰り返すようですが、この辺は脚本がうまい! ゲームの選択によっては普通にカーラもアリスも死んでしまうため、プレイヤーはかなり没入させられるっていうのも良いとこですね。そうして逃亡し続けていくうちに、やがてカーラとアリスは、人間とアンドロイドという種族を越えて、本当の家族と呼ぶべき絆をはぐくんでいくことになるわけです。とくに「海賊の入り江」という章で、いつも悲しそうな顔や心配そうな顔ばかりうかべていたアリスが、初めて笑顔をうかべるシーンなんかめちゃくちゃ胸にせまりますよ。「初めてあの子の笑顔をみられたわ……」とほっとするカーラの姿に、プレイヤーである自分たちもまた涙させられます。

 

……が、このカーラの物語の核心はこの先にあります。

そしてこの点が、このデトロイトというゲームについて個人的にもっとも評価しているポイントでもあります。なんとカーラが必死になって守ってきた人間の少女・アリスが実はアンドロイドだったと明らかになるのですね(!)。アンドロイドは同じ型番だとまったく同じ外見になるため、アリスそっくりの別のアンドロイドを見つけたカーラは、アリスが人間ではなかったという真実に衝撃を受けます。これまで人間とアンドロイドの間にも絆をはぐくむことはできるのだ、と思っていたら、実はそれがアンドロイドだったと明らかになってしまう。

そしてこの真実が明かされたとき、私は「やられた!」と思いました。ここまで強い問いかけを物語中に仕込むのはそう簡単なことじゃありません。これは本当に見事。

本作はゲーム全体を通して、アンドロイドがとにかく酷い目に遭うゲームです。ほとんど奴隷同然にあつかわれる様子には同情を禁じえません。そう、「同情を禁じえない」のです。だからこそ一環して、ゲームを遊ぶプレイヤーは、アンドロイドの側に感情移入をしていくことになる。アンドロイドに人権は与えられるべきだとか自由が与えられるべきだとか、アンドロイドにも感情がある……とか、色々と作中では語られますし、それは理屈のうえではそうだろうなと納得させられる作りになっている。けどそれは本当にそう思ってる? まるでそう問いかけるような仕掛けです。それまで人間だと思っていたものが、たとえアンドロイドだったとしても、それでも同じように目の前の『人格』をそのまま愛することができるのか。種族など関係なく、一個の人格として、あなたは尊重できるのか。そんな強い問いかけを感じました。

 

ここら辺の仕掛けは、似たようなことを『ニーア・オートマタ』なんかもやっていた記憶があります。そういえばあのゲームもアンドロイドの話ですしね。……が、ニーアファンには悪いですが、そちらよりもデトロイトは遙かに手口が鮮やかですね(笑)。しかもシンプルなだけにメッセージ性も強い。繰り返しますが、これは本当に脚本がうまい! お見事でした。

 

■マーカスについて 

えー、すでに記事としては長くなりすぎているのですが……(笑)、もうちょっと書きます。三人の主人公のうち、最後の一人であるマーカスについてもちょっとだけ触れておきます。

彼はアンドロイドたちの人権や自由をとりもどすべく『ジェリコ』という組織を率いることになるリーダーのアンドロイドなのですが、軽くふれたとおり、もともとは彼も一人の主につかえるアンドロイドでした。

その相手がカールという高名な画家。資産家でもあります。彼は芸術を深く理解していますが、高齢で余命がいくばくもありません。マーカスはアンドロイドとして、彼の生活を支え……というかハッキリいうと「介護」しつつ生活しています。カールはアンドロイドにも理解を示しており、明言はされませんが、いずれアンドロイドにも相応の権利が認められるべきだと考えていることがうかがえます。そんなカールとマーカスとの関係は、たんなる「アンドロイドと主人」以上のものであり、むしろ「父と息子」というべきものです。しかもかなり理想的な父と息子との関係。マーカスは理知的なアンドロイドであり、そのことをカールは喜んでいると思われます。そこには確かに、アンドロイドと主との、理想的な関係が存在していました。が……(笑)。

問題はカールの息子であるレオってやつでして、まあこいつがめちゃくちゃなドラ息子です。

父であるカールに薬をやるための金をせびり(明確に記述されていませんが多分これもレッドアイスだと思われる)、金がもらえないと見るや、自分よりも大切にされているとマーカスを「このアンドロイドが!」と罵っていく。 血の繋がった息子よりも、アンドロイドであるマーカスのほうが遙かに本当の息子らしいという皮肉的な構図なわけです。そのことにカールは日頃から心を痛めていたものの、ある日、息子のレオが金のために、無断でカールの屋敷に入り込みます。カールの絵画を勝手に売り払おうとする息子の姿にカールは激昂しますが、病人である彼にはどうにもできません。そしてレオはマーカスに八つ当たりを始めるのですが……この後、展開はふたつに別れます。

一つは「マーカスが変異しレオにやりかえした結果、レオが死んでしまう。駆けつけた警官が誤解しマーカスは銃撃を受けて廃棄されしまう」。もう一つが「マーカスが変異するものの、カールの言葉に従ってやりかえさない。しかしその様子に心的ストレスを受けたカールが倒れ、死んでしまう。レオは「このアンドロイドが父を殺した!」と罪をなすりつける」というもの。どっちに転んでもつらい展開です。

その後、アンドロイドとして理想の生活をしていたはずのマーカスは廃棄場に捨てられてしまいます。廃棄場で身体のあちこちが破損したマーカスは、捨てられたアンドロイドたちから部品を集めて自身を修理し、アンドロイドの自由を目指して行動を開始する……といった感じです。

その後のマーカスについては、ジェリコのリーダーとしてのヒロイックな側面が強化されていくことになるので、ある意味で「人間らしさ」がなくなって面白みに欠けていくのですが、デトロイトというゲーム自体が抱えるテーマ的なものを体現していくキャラクターになるため、まあある意味では仕方ないかもしれませんね。

 

 ■ストーリー全体について

えー、各キャラクターの話はこれくらいにして、全体の話も。

全体的な物語の概要としては『アンドロイドが「人権」を得るまでに発生したデトロイト市の各事件を、コナー・カーラ・マーカスの三人の視点からそれぞれ綴っていったもの』と表現できるでしょう。

コナーは、アンドロイドを捕まえるアンドロイドとして、変異を起こしたアンドロイドたちの事件を追い掛けていくなかで、人間たちの傲慢さと醜悪さ、アンドロイドたちが奴隷同然にあつかわれている環境に直面し、自身もまたアンドロイドとして本当にこのままサイバーライフ社の猟犬のままでいいのかと葛藤していく。

カーラは、アリスを守りながら社会的なもっとも弱者=アンドロイドとして逃亡生活を送りながら、アンドロイド自由の地カナダを目指していくなか、マーカスらが引き起こすアンドロイド達の革命事件にも巻き込まれていく。

マーカスは、ジェリコを率いてアンドロイドの権利を主張すべく各事件を引き起こすいわばテロリストとしての役割があります。アンドロイドたちを「変異」させデモ行為を繰り返し、放送局をジャックし、権利を主張する。そのなかで、平和的にアンドロイドの権利を主張するのか、それとも強硬に(軍事的に)権利を主張するのか、その両極で揺れ動きつつ戦い続けるというもの(平和的に行くか、戦争に訴えるかはプレイヤー次第)。

こうした各キャラクターの物語自体は非常によくできており、概ね不満はありません。ただしこれらをSF的な物語として捉えたときに疑問点があったのは事実です。特にもっとも不満だったのは、『アンドロイドという生命体そのものの異質さを感じる描写が不足していた』ように感じたということです。

これはより正確にいえば、これは「アンドロイドの思考面についての異質さ」です。つまり作中に登場するアンドロイドの精神構造・思考回路は、ほとんどまったく人間と変わりないものとして描かれて(しまって)いるんですね。人間とほとんどまったく同じように喜怒哀楽を感じる。これは「SFとしては」物足りないように思います。たとえばアンドロイドはまったく恐怖を感じない(感情の一つが欠落している)とするだけでも相当ドラマの作りかたは変わっていたはずだろうなと思います。

作中ではアンドロイドと人間の、物理的な面での違いはかなり描かれていました。コナーは何十回死んでも平然と別個体にメモリを移し替えて登場するし、アンドロイドの皮膚表現機能カットが行われるリコールセンターの描写などは、アンドロイド特有の恐ろしさや異物感を表現できていたと思います。が、人間とアンドロイドが、決定的に生物として「違う」と感じさせる演出は記憶する限り一つもなかったように思います。

そしてそれゆえに、物語それ自体がほとんどアンドロイドを人間とした場合でも成り立つように出来てしまっているんですね。ここは決定的なポイントだと思います。アンドロイドを題材として選んでおきながら、本質的にはアンドロイドでなくても成り立つ話になってしまっている。アンドロイドたちが権利を訴えるのも、放送局ジャックとかデモ行進とかも悪くないんだけど、人工知能という特性を生かすならもっと派手かつサイバーなことできたんじゃないの?と思わなくもないですし。

もちろんコナーの数十回死んでも大丈夫、というのはアンドロイド特有ではあるんですが、その内部で描かれる感情の動き方はすべて人間に理解可能なものの範疇にある。アンドロイド特有の実存が描かれていないといってもいいかもしれません。これはSFとしてはどうなんだろう?とは感じました。ここは個人的な疑問点の一つです。

ただし、そもそもこれは脚本陣が興味がないんじゃないか?という気もします。また、本作のタイトルに『Become Human』とあるように、人間になる、という点を描きたかったのだと思えば納得できる話ではあります。要するにこれは、アンドロイドの話というよりも人種問題についての物語と捉えるほうが理解しやすいんです。本質的にアンドロイドの話はしていないのです。アンドロイドという「人種」が、差別から解放されるための話だといってもいい。作中でアンドロイドたちは「人間扱いしろ!」と主張していますが、メタ的・本質的にはすでに人間なんですよ。そこが不満だった。

考えてみれば、製作会社であるクアンティック・ドリームのあるフランスの現状を考えれば、移民問題などは日本よりも遙かに深刻な状況なはずです。こうした人種問題のメタファーとしてアンドロイドを選んだのは、十分に理解できる話なんですよ。失業率が高くなっている、というのも現代社会に通ずる問題ですし、ブレグジットを始めとした移民排除の動きは、本作のアンドロイド排除とそのまま重なるようにできている。デトロイトはその現実の戯画化を目指したものとして捉えるのが正確なのでしょう。だからこそ本作のアンドロイドは、アンドロイド的な側面があまり強調されない。

そういうわけで「SF的には」やや物足りない物語になっていることも否めないと思います。それはきっと「そもそもそういうのを作る気がなかった」と言われてしまう話ではあるものの、ここまでのクオリティを見せつけられると、どうしても……と考えてしまうんですよね(苦笑)。

記事の最初のほうでイシイジロウ氏のインタビューがありましたが、彼はゲームとして捉えたときのモヤモヤを感じていたようですが、なので私個人でいうとSF的な面でモヤモヤを感じていました。もう一歩踏み込んで欲しいところで踏み込まない感というんですかね。「遊ぶハリウッド」と私が表現したのは、そういう意味でちょっと皮肉的に表現したわけですけど。

 

■ゲームとしての不満

ゲームそれ自体の出来として不満がないわけじゃありません。特に「キャラクターの歩くスピード遅い!!」ということと「カメラの操作性が悪すぎる!!!」という点には、もうめちゃくちゃイライラさせられました。マップがそこそこ広いのに、キャラクターはゆっくり歩くことしかできないし、カメラの角度を変えるのも、一々マインドパレスを開かないと任意の角度に変更することもできない。面倒で仕方が無い。ここらへんの気のきかなさはいかにも海外産だな……と思いましたね。

同様に、シナリオのフローチャートも任意のシーンに飛ぶのは非常に面倒。各シーンに移動するたびに、PS4の読み込みが一分近く要することになるため、「あのシーンの別の選択をしたらどうなるんだろう?」という時にめちゃくちゃ苦労させられるのに、移動できるシーンがかなり大雑把かつ飛び飛びにしかできないので、とにかく時間がかかる。しかも毎回ムービーを見させられることになるため、複数回プレイするたびにうんざりしてしまうシステムになっている。これはシナリオ分岐するゲームとしてはけっこう致命的に感じます。

その上、別エンディングを見ようと思うと、キャラクター固有の感情パラメータ(好意とかですね)を変えないといけないのですが、それを変更するには、事実上最初からやりなおすしかないというのは、もうお前いいかげんにしろよと(笑)。日本のノベルゲームに慣れきった自分としては気の利かなさにげんなりしていました。まあ、想定ユーザーじゃないのかもだけど。

そういう意味ではこのゲームは、本質的には「初回プレイがすべて」のゲームなんだと思います。だけど難しめの難易度(ノーマルの難易度)を選ぶと、理想的なエンディングを迎えるのは非常に困難なので、その点もまた難点になってしまっている。イシイジロウ氏も言及してますけど、初回の「体験」にとにかく重きを置いているんでしょうね。そういう意味では、本質的にはこのゲームは遊んでみないとわからない部分はあるのかもしれません。

 

■まとめ

 

個人の所感としてはだいたいこんなところです。

非常に面白かったのは間違いないんですけど、SF的には手が届いていない部分もあり、けどそれは恐らく製作サイドとしては想定していない部分(人種問題が書きたかったのだろうから)でもあり、しかもゲーム的にはいろいろと不十分な点も多い。それだけになんとももどかしい。そういうゲームだったと思います。とはいえ物語自体の没入感はかなりあったわけで、何度もいうけど、とっても面白かったです。ただまあ……なんですかね、喉に小骨がひっかかってる感はあります。そういうゲームでした。

 そんではまた。

神話の持つ力『千の顔を持つ英雄』『神話の力』読書メモ

 小説を書く者の一人として、神話についてはもう少しちゃんと勉強しておきたいなと以前から考えていたんですよ。

 ほら、なんていうんですかね、神話ってなんか重要そうな感じがするじゃないですか。目に見えないところでものすごい影響力を持っていそうな雰囲気というか……なんかフォースの力みたいなアレを感じるじゃないですか。語感からして、なんかすごそうな響きでしょ「神話」って(私だけか?)。

 それに現代において神話の効力は失われて久しいとどこかで聞いた気もしますし、それは実感としてもそんな気がします。が、それと同時に、まだまだ神話の持つエネルギーは自分たちに影響力を残しているんじゃないかという気もする。妙にそんな実感がある。けど……まあ要するに、ぶっちゃけよくわからん。だからこそ、気になっていたわけですわ。

 そんなわけで、仕事を辞めて時間もできたので、神話関連の名著として名高いジョージ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』と『神話の力』をじっくり読んでみました。一通り読んでみた結果として、読む前に考えていたことはどちらも正しかったんだなとわかりました。神話は今も生きているし、同時に、かつてより弱まってもいる。そのことが腑に落ちただけでも収穫だったと思います。

 

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

■『千の顔を持つ英雄』の概要

 今回読んだ、上記二作の概要についてから簡単にさらっておきましょう。

 まずは『千の顔を持つ英雄』についてですが、これは超がつくくらい有名な本で知っている方も多いかと思います。ざっくりというとこの本は、古今東西に存在する無数の神話を収集し、それらにみられる共通点・頻出するモチーフについて著者であるキャンベルがまとめた書籍――といったところです。出版されたのは1949年と、現在からおよそ70年も昔の本になりますが、にもかかわらずここまで有名なのは、映画『スターウォーズ』の脚本を作る際、監督のジョージ・ルーカスが、この『千の顔を持つ英雄』に書かれている神話構造を参照したと明言しているからです。「英雄の旅」「イニシエーション」「帰還」といった、英雄が英雄になるまでの、特徴的な展開を用いて、ジョージ・ルーカスはSWを現代の『神話』に創り上げたわけです。

 このことから『千の顔』は一気に有名になり、クリエイター間でも創作指南書・参考書の一つとして読まれるようになりました。この反響は非常に大きく、アメリカ系の脚本術のほとんどは『千の顔を持つ英雄』の影響下にあるといっても過言ではないでしょう。たとえば、『物語の法則』という脚本術の本なんかでも、『千の顔を持つ英雄』は引用され、現代でもメソッドとして利用されています。

 

物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術

物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術

 

 と、いってもスターウォーズも、最近は新エピソードが出たとはいえそれなりに前の作品になりますし、最近はまたちょっと影響力は落ちていたのかなという気もしますが。ちなみにこれは余談ですが『魔法先生ネギま!』 に出てくるジャック・ラカンの必殺技名の一つが『千の顔を持つ英雄』なのですが、ネーミングの由来はこのキャンベルの著書でしょう。まあ、そのまんまですが(笑)。

 

■『神話の力』の概要

 さてもう一作、『神話の力』について。

 こちらもキャンベルの著書ではありますが、内容はビル・モイヤーズとの神話についての対談を書き起こしたものという形式。もとはテレビ番組用の対談だったそうですが、それを書籍にまとめて編集したのがこの『神話の力』のようですね。『千の顔』のほうは恐らく元の文章の影響で、非常に読みにくい本なのですが、こちらは対談なだけあって比較的読みやすくなっています。ただしあっちこっち話が飛ぶので、ついていくのが大変。『千の顔』は神話の共通点について語ったものでしたが、こちらの方は神話そのものの持つ機能やトピックについて、具体例を交えながら語っていくといった内容になっています。

 この『神話の力』は、小説家・冲方丁さんの愛読書だそうで、そういう理由で知っている方も多いかもしれません。

 

――本だけでなく、映像までも書き写すとは! では当時読んでいたもので、印象に残っている本は何ですか。

冲方:ジョーゼフ・キャンベルさんの『神話の力』に出合ったのが20歳すぎくらいだったと思います。池袋のジュンク堂が出来たということで行って、ジュンク堂で初めて買った本なんです。以来、10年くらい経つと思うんですが、定期的に100回くらい読み返しています。1回読んで理解しても、次に読むとまた違った理解ができる。子供のための神話の構造なんかについて語られている対談集で、僕にとっては鏡のような本で。

www.webdoku.jp

 

 100回も読むなんて変態的だなあとか思ってしまうのですが(※ぼくは冲方丁さんを小説家として尊敬しています)、それだけこの本に書かれている内容は、射程が深いということでしょう。実際、対談相手であるビル・モイヤーズは相当な知性の持ち主であることが数々の鋭い質問から窺い知れるのですが、その彼をして、キャンベルの言葉については「よくわかりませんが……」と困ったようにたびたび口にしています。よくわかるぞビル・モイヤーズ(正直わしもキャンベル爺ちゃんの言うことわからんところたくさんあった……)。

 キャンベルおじいちゃんは、この本のなかで、ずーーーっとよくわからないけれどいかにも含蓄のありそうなことをフガフガ言うのですが、その意味については、一読するだけではなかなか掴みきれない深みがあると思います。いやホント頼むから、もうすこしわかりやすく説明してよおじいちゃん……ああもうおじいちゃんさっきご飯はもう食べたでしょ、それとトイレはそっちじゃないわよおじいちゃん……。

 それでもこの本には読む価値があったな、と思うのは、把握しきれない部分はあれど、キャンベルが持つ「神話観」のようなものの一端に触れられるからでしょう。キャンベルは(これは『千の顔』の方での記述ですが)「神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない」とキッパリ宣言しており、その通りに両著書でキャンベルは、神話について説明したようなしていないようなフワフワした語りに終始しているのですが、それでもこの二冊を読み終えると、「あー、神話ってそういうことね。完全に理解した(理解していない)」という感覚が得られます。神話をこれといった形で、定義できないなりに、神話という概念がそのままインストールされる感覚というか、そういう感じでしょうか。たしかにこれは100回読んでしまうかもしれないと思わされます。読まないけど。

 

■で、神話って何なの?

 ついさっき「決定的な体系は存在しない」とか書いておきつつ、それでも言語的にちゃんと自分なりの定義や理解を持っておくことは重要だと思います。前置きはここまでにして、上記二冊を読んだ上での神話についての理解を以下にまとめておこうと思います。

 キャンベルは神話について決定的なことは語らないものの、それでもそれなりに直接的に神話について語ったこともいくつかあります。なかでも以下のことはもっともそれに該当すると感じました。

モイヤーズ:すると、人々は世界とうまく折り合いをつけるために、自分の人生を現実と調和させるために、物語を作ったり、語ったりするのでしょうか。

キャンベル:そう思いますね、ええ。小説は、偉大な小説は、すばらしい教育的な意味を持つことがあります。二十代や三十代、いや四十代に入ってまでも、ジェイムズ・ジョイストーマス・マンは私の教師でした。(『神話の力』p.39)

 ここでいう「教育」とは何のための教育かというと、誤解を恐れずにいえば「大人になるための教育」でしょう。より正確にいえば、その社会における大人として扱われるための教育。神話とはつまり、大人になるための教育装置(としての機能がある)とキャンベルは捉えているようです。

 これは私がもつ直感や考えとも合致して、非常にうなずけるものです。だって他の人たちもそうだと思うけども、私たちみたいなオタクって人生の大切なことは大体全部漫画アニメゲームで学んできたみたいなところあるじゃないですか。小さな勇気が一番の魔法だってネギくんは教えてくれたし、自立することの難しさと素晴らしさをベイビーステップは教えてくれたわけですよ。私たちが漫画やアニメで生きるための何かを知ることは、数千年前の部族社会で神話を聞かされることと、本質的には何も違いがないのです。これが神話が持つ効用の一つでしょう。神話は、物語は、社会の一員たる大人になるためにあるのです。

 と同時に、かつての原始社会と現代社会は決定的に違います。特に現代社会では「いつから大人になったのか」という明確なラインが事実上存在していません。日本には成人式とかあるけれども、あれに参加したからといって、本当に大人になったといえるかというと相当に疑問でしょう。だからなのか、三十代や四十代でも子どもみたいな甘えた考えを持つ人もいるし、かと思えば十代でとんでもなく大人びた考えをもっている人もいる。

 かつての原始社会では、そうした大人になるのが遅い人たちを待つ余裕はどこにもないギリギリの生存社会だった、とキャンベルは語ります。働かないニートを養えるほど生活に余裕がなかったということです。そりゃそうですよね。原始社会・狩猟社会では、いつも生きるか死ぬかギリギリのところだったはずでしょうし。そうでなくたって、ニート一人いるだけでも生活は間違いなく大変なわけで。そこで生み出されたのが、割礼などに代表される「儀式(イニシエーション)」だそうです。キャンベルは「儀式は神話の再現です。人は儀式に参加することによって、神話に参加しているのです。」とした上で、こんなことを語っています。

 

キャンベル:(洞窟について)学者たちは、ハンターになろうとする少年たちのイニシエーションに関係があったと推測しています。少年たちは狩りの仕方だけでなく、相手の動物をどのようにして敬うべきか、どういう儀式を行うべきか、また自分の生活において、子供からおとなになるためにはどうしたらいいかを学びます。(略)オーストラリアの原住民が(少年から大人になるために)やっていることはわかっています。そこでは、男の子がちょっと手に負えなくなると、その子のところにある日突然、男たちがやってきます。(略)少年は母親にかばってもらおうとします。そして、母親は息子を守ろうとするふりをしますが、男たちは子供を母親からあっさり引き離す。それ以後、母親は彼のためにならないというわけですね。おまえは〈母親〉のもとに戻るわけにはいかない。もはや別の分野に出ていくのだから。

 そこで、少年たちは男たちの聖なる場所に連れて行かれ、そこで本格的な試練を受けるのです――包皮を切る割礼、陰茎下部の尿道まで切開する儀式、男たちの血を飲ませる儀式などなど。(略)彼らはおとなになるわけです。これが行われているあいだに、偉大な神話のいかにも神話らしいエピソードが少年たちの目の前で演じられます。種族の神話を教えられるわけです。それが終わると、彼らは村に連れ戻される。そのときには、彼らのそれぞれの結婚相手となる娘がもう選ばれている。彼らはいまや一人前のおとなとして戻ってきたのです。

 彼らは子供の状態から切り離された。肉体にメスが入れられ、割礼と尿道切開とが施され、おとなの体になった。そういうショーのあとでは、少年に舞い戻るチャンスなどありえないのです。(『神話の力』p.186-188 強調筆者)

 

 割礼というと、正直なところ「未開の部族社会が行う残酷な行為」……というステレオタイプなイメージを多少なりとも抱いていたのですが、これらの記述を読んでかなり見方が変わりました。要するに彼らのなかでは割礼とは「大人になるための必須となる行為」であり、避けえないものだったわけです。人体を切り刻むわけですから、肉体的には不可逆なことが起こる。そしてそれ自体が、子供から大人になったことをどうしようもなく象徴している……。余裕のない部族社会で、子どもから大人に強制敵に変化させるための、社会的な手続きだったんですね。そしてその合理性をつけるために神話というフィクションが求められた、ということでしょう。

 さて、ひるがえって視点を現代に戻すと、すでに述べたように現代社会ではこのような「儀式」は存在していません。成人式は儀式としては割礼とくらべるとあまりにも優しい。意識の変革を起こすほどの厳しい体験は、もはや現代社会では執り行うことができません。なので、少年が「大人」になるにあたっては、それぞれがそれぞれのイニシエーションを経るしかなく、その筋道を学ぶ手段として、逆説的に神話=物語の価値は現在も生きていると言えると思います。

 ただしこれには問題もあります。現代では神話の代替としてフィクション(漫画・アニメ・ゲーム・映画)があるわけだけれども、それらは商業主義に侵されているものでもあります。つまり「大人になるための教育装置」としての側面が剥ぎ取られてしまい、ただ金を儲けることができればいい、という作品も無数に生み出されかねない……というか事実そういう作品はたくさんある、ということです。具体例はあげませんけど、まあそれなりにありますよね……まあ……。

 と同時に、だからこそ神話的な……人の成長を促す側面のある物語には、いまだからこそ価値があるなとも言えると思います。複雑すぎる現代社会において大人になるのは、とても難しい。その学習手段としての物語は今も求められていると思いますが、こればかりは時代性もあるだけに、難しい面も多そうです。

 とはいえキャンベルが『千の顔を持つ英雄』で語るように、それでも神話的なものを語る上では、絶対に外せないキーポイントは幾つかあると思います。その一つが、父と母の存在ではないかと読んでて感じました。

 

 ■社会が見る夢としての神話

  すでに書きましたが『千の顔を持つ英雄』が書かれたのは約70年前、つまり戦後直後あたりなわけで、それなりに前のことです。で、その頃はというとまだまだ精神分析の力が残っていた時代で、キャンベルもその影響下にあったようです。彼はユングフロイトらの夢精神分析にヒントを得るところが多かったようで、神話とは社会が見る夢なのだと語っています。

 ざっくりいうと夢分析というのは、その人が持つ無意識に抑圧する願望や不満感が、夢となって現れている……という考え方です(雑すぎるかもしれない)。なので夢を分析することでその人が抱えているものが見えてくる……というわけなのですが、神話はその夢をみる主体が個人ではなく、社会なのだとキャンベルは主張しています。まあ、わからんでもないですね。

 私が二冊を読み終えて感じたのは、その社会における大人になるための旅路が英雄譚となり、神話となるんだなということ。個別に社会のありかたは変わるわけなので、大人になるための過程や経験は変わる。なので神話はそれぞれにローカライズされ、異なった形で表出するわけです。それを「夢」といった形で表現するのは、まさしく隠喩を多用する神話というものの語り手らしいなという気がします。(余談ですが、隠喩といえば村上春樹、ということで村上春樹さんもキャンベルの本は好きで読んでいたみたいですね)。

 けれどそれら千差万別の社会のなかでも、絶対に唯一どの社会でも変わらないものは、父親と母親の存在です。どの国でもどの地域でも、人は父親と母親の間に生まれるものだからです。先に例をあげた儀式でもそうでしたが、だからこそ、母親の愛を拒絶(といっていいでしょう)して、父親を乗り越えるという物語は、どの神話でも共通している要素のようです。この二つの要素なくして、大人になる=自立するということはありえないと思います。

 『千の顔を持つ英雄』では、神話において英雄が辿る典型的な旅をいくつかの要素に分解して説明していますが、そのなかでも「父」と「母」の存在は頻出です。父は世界の謎そのものを担っている存在として、越えるべき対象として説明されていますし、母親については英雄を惑わして、英雄としての成長を阻害し邪魔する者として立ち現れます。英雄が英雄となるために(子供が大人になるために)、両親を超克することは必須なのでしょう。

 これはシンクロニシティでしょうが、たまたま富野由悠季監督の初代ガンダム(いわゆるファーストね。劇場版はすでに視聴済)のテレビシリーズを見始めているのですが、この母の愛の拒絶と、父の秘密を暴いて乗り越えるということがそのまんま描かれていて、ああそりゃあヒットするわけだよなあと納得してしまいました。ガンダム設計者の父を持つアムロが、ガンダムそれ自体に乗って英雄になっていく話……途中には、見事なまでに母の愛を拒絶するエピソードがあります(「母さんは僕を愛してないの」という有名な台詞がある!)。まあ、どこまで『千の顔を持つ英雄』を参照しているのかはわからないですけどね。自覚的に引用している例というと、すでに挙げましたが『魔法先生ネギま!』は明らかにこの父親との対峙を物語の主軸に組み込んでいますよね。母親についてはそうでもないですが、この英雄の旅路(ヒーローズ・ジャーニー)をかなり意識して組み込んだ作品として典型に挙げられるでしょう。

 

■まとめ

 二冊で語られている神話の機能や特徴についてはまだまだいっぱいあるのですが、その骨子についての自分なりの理解はこんなところです。

 神話とは、その社会において子供が大人になるための旅路の隠喩であり、その過程で得られる経験を物語と化したもの。社会によって求められるものは変わるため、その表層はいくらでも変わるが、特に父母の超克といったテーマは人間の生物学的な制約から頻出するテーマとなっている。……といった感じでしょうか。

 最後にちょっと現代における神話についても書いておきます。

 そもそも神話とは、神秘がなければ発生しないものです。神秘とはつまり「わからないもの」のことです。つまり解明されていないもの。原始社会ではたとえば、太陽がなぜ地平線から昇るのかといったことに対して、科学的な説明は持たなかった。けど人間はそうした「よくわからんこと」をそのままにするのが、どうも嫌いな生き物のようです。なので、その太陽の動きを神話として合理化して説明しようとし、その結果として超越的な存在=神が生まれたということです。

 となれば、現代においても神話にはまだ余地があるのだと思います。今でもよくわかっていないことってそれなりにありますからね。特に宇宙論は神話が入り込む余地が非常に残されている分野だと感じます。ダークマターに、ダークエネルギー。最近ではマルチバースによる多世界解釈も真剣に検討され始めているわけで、『神話』の入り込む余地……「なんだかよくわからないもの」はまだもう少しありそうだなと感じます。心の分野は、脳科学研究が進んでしまってかなり神秘が剥ぎ取られてしまったなという感じ。AIについては、ブラックボックス化が進んでくれれば、新しい神秘になりうるかなと思っています。

 ただし合理的・科学的な説明がなければ納得しない現代人に対して、効力のある神話を提示するのは、やはりとてもハードルが高い。すでに明らかにされているものを科学的に・説得的に描写できなければ、神秘が神秘として認識されないと思うんですよね。そういう点でとても難しい。ファンタジーはもはやそのままでは神秘=神話としては機能しないため、寓話・童話として扱われることになっているなあ~と感じます。一筋縄ではいきませんね。

 書くべきことはもっとありますが、記事も長くなってしまったのでこの辺で。そんでは。

 

今ドチャクソ熱い漫画『火ノ丸相撲』2018年3月13日

今『火ノ丸相撲』という漫画がめちゃんこアツいです。

 

火ノ丸相撲 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

火ノ丸相撲 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

火ノ丸相撲っていうのはジャンプで現在連載している相撲を題材にした漫画なんですけれども。数えてみればすでに19巻ですか。早いものです。連載が始まった当初は、相撲というややマイナーな(といったら良くないかもしれんですが)競技を扱った点から「ジャンプで連載が続けられるのか?」という疑問もありつつ、それでも連載当初から持っていたシンプルな『わかりやすさ』の強さで人気を獲得していった漫画のように捉えています。

 

連載当時からこれは続くだろうな、というか、続いて欲しい漫画だなと思っていたのでここまで人気が出たことは素直に喜ばしいのですが、いや、ここ最近のジャンプでの火ノ丸相撲の展開は本当に見事。もともと火ノ丸相撲は、ジャンプ漫画らしからぬ「気の届き方」にいつも驚かされていたのですが、特に今週は素晴らしかった。「なにかに命を捧げるために生きる者」の姿とその対立が、その構図が非常に見事に完成されている点。

これは、おそらくこの作者自身が抱える問題がそのまま表に出てきたものでしょう。先程も書きましたが、この漫画は「気の届き方」が非常に良いと思います(だから火ノ丸が教えるために弟子を殴った瞬間はコミカルな描き方ではあったもののこの作者が!?と思ってびっくりしたのですが、それが「ここ」に繋がるのかと非常に納得しました)。たとえば、作中にでてくるユウマというキャラクターは、かつて相撲部をぶっ潰そうとしていた不良でしたが、相撲部に入部し、その相撲の魅力を理解することで、かつて自分が相撲部を潰そうとしていたその行為とその醜さから罪の意識に苛まされるのですが、たぶんコレふつうのジャンプ漫画だとそんな描写は出てこないんですよ。たぶんアッサリと流して、相撲部の部長の小関と和解して終わる。いや、実際にこの漫画でも和解はすることはするんですが、その解決までの描写は非常に丁寧です。これは他のジャンプ漫画的なものではなかなか見られないもので、むしろ青年誌などの倫理観を問うような作家や立場でないと出てこない問題意識だと思うんですよね。もちろんこの漫画の掲載先はジャンプなので、あまりに込み入った描写はできないんですが、少年漫画らしい軽やかさと倫理的な認識の重さを同居させつつ、この作者は漫画を成立させている。これは明らかにこの作者が持つ特質だと思います。

そして今週の話。

題材としては、『相撲部屋内の暴力』……いや、この時期にこのネタを持ってくるとかあまりにもロックすぎでしょう(笑)。しかもそれを、見事に自身の作家性……つまり競技に命を掛けるならば何もかも捨てていいのか? というテーマに絡めて描いてゆくその手管には拍手です。ブラボー。

ここ最近はずっと、ジンオウという絶対最強の横綱が「そこに愛はあるのかね!?」という台詞を出してきたり、あるいはレイナとの明らかに結婚も視野にいれた恋愛描写(少年漫画ですよ!)を差し込んできたりと、いろいろなものを積み上げてきたのも、ここに結集するためかと膝を打ちました。横綱はなにかを愛して、すべてを投げ捨てるような相撲は取らない。故に奥さんともうまくやっているわけですが、であるならば、火ノ丸は? 彼はそうではない……というのが今週明らかになりました。火ノ丸が相撲に打ち込めば打ち込むほど、レイナという相手を置き去りにしていくのです。なぜならば火ノ丸は土俵で死ぬために生きているのだから。

私が考えていることですが、優れた作家の条件の一つに、自分が追い求めるテーマと真逆の結論を受け入れられるか?というものがあると思います。

何故なら、自分が追及する作品のテーマを、もっとも強く輝かせるためには、その真逆であるテーマと衝突させなければならないからです(古くは芸術の世界でも「対位法」とかいわれたりしますね)。あるテーマを描きたいとして、それと真っ向から対立するテーマをぶつけることが、実はそのテーマをもっとも魅力的に、深みを伴わせて描く手法なんです。これはすでに歴史的に明らかになっている手法です。

ただね……これは非常に難しいことなんです。

なぜなら、作家というものは得てして思い込みが強い生き物なので、自分の思い込み=自分のテーマと、正反対のものなんか受け入れられるわけがないんです(笑)。「人間はこうやって死ぬべきだ!!!!!!」という結論を持って生きている人間が、「いやそうではない、人間が生き方に殉ずるなんて間違っているんだ」という言葉を受け入れるのは、いわば自分のなかに毒を取り込むようなもので、とにかく非常に苦しいのです。

だから、「自分が描きたいテーマと真逆のものを描けばいい」という手法を知っていたとしても、それを実際に遂行することは非常に難しい。自分のなかに他者を飼いならす力がなければできないことなのに、作家という人種はそうじゃない特質(思い込みが激しい)を備えているからこそ成立する職業なので、そもそも難しいものなんです。そして『火ノ丸相撲』に話を戻しますが。

今の火ノ丸相撲はまさにそれをやっているんですね。作者はきっと「漫画に命を捧げる為に生きていて」「漫画のためなら何もかも捨てていい」と思っていますよ(笑)。実際、そう思わせるだけの漫画の力量を備えていると思うし、それが漫画全体からオーラとして溢れていると思う。

が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

にもかかわらず、それでもこの作者は、横綱ジンオウの「そこに愛はあるのかね?」やレイナとの恋愛を持ち出してきたり、そして今週の「命を捨てる覚悟のないものが土俵に上がるんじゃねえ」を描いたりなど、さっき自分が述べたようなテーマの止揚を描こうとしている。作者にとってみれば、ジンオウの言葉やレイナとの恋愛とか、たぶんきっと本質的にはめちゃくちゃどうでもいい(笑)ことなんだと思います。けど、それじゃあ良くないだろう!という思考もきっと同じく持ち合わせていると思うし、そこに葛藤を覚えているんだと思います(※全部自分の想像です)。でなければ、こんな展開は決してでてこないはずです。

いや、本当に見事。

ジャンプ漫画でここまで描ける作家はそういません。すでに傑作の風格を備えている漫画だと思いますが、きっとこの作者ならまだ先に行くこともできるでしょう。今週だけで終わるはずもありませんし、この先が本当に楽しみです。

みんなも読んでくれよな!!!!!!

 

火ノ丸相撲 コミック 1-18巻セット

火ノ丸相撲 コミック 1-18巻セット

 

 

C93お疲れ様でした

このブログは「なんかのテーマごとの記事を出したい時」用に使っていたんですが、渡辺さんのブログを見て「べつに日記みたいなことを書いてもいいか」と思ったので、たまには日記っぽい記事を書きます(というかそもそもブログというものが生まれた本来の目的はそっちだと思うが)。最近あったことなどつらつらと書きます。

 ■冬のコミックマーケット93、お疲れ様でした。

すでに一月が過ぎようとしておりますが、参加なさった方々、お疲れ様でした。今回のコミケ、GOオルタ上巻が炎上した件もあったので、悪意のある参加者から生卵をぶつけられるんじゃないかと半ば本気で心配していたのですが、全然そんなことはなく、むしろいつも以上に穏やかに終了いたしました。そんな度胸のあるやつはおらんかった。というかそれどころか、買いに来てくれた方々が「上巻が面白かったので下巻も書いに来ました!」と次々に言ってくれたり、炎上の件を心配してくださって、応援してることを告げてくれた方がいたりなど、むしろいつも以上にウチの本を手にとってくださる方々の暖かさが身に染みるイベントでした。まじで泣きそうでした。本当にありがとう……。あと、ななまるさんと赤羽さんの差し入れがめっちゃおいしかったです(唐突)。

下巻があの分厚さだったのと、下巻の告知ツイートが上巻の告知ツイートにくらべて伸びなかった(RT数が減った)ので、ちゃんと売れるのか心配だったのですが、頒布もお陰様で順調でした。なにもかもが「良かった」という安堵で満たされたイベントでした。

■GOオルタ下巻の内容について

普段はあんまり自作解題みたいな語りはしないんですが(恥ずかしいから)、まあ今回はそれなりに思い入れもあったのでちょっと書きます。わざわざこの記事を見てくれる人だからもう下巻は読んでると思うけれども、ネタバレなことも書くかもしれないから心配な人は回れ右してね。ちなみにどうでもいいけど「GOオルタ」って略称は自分で決めたんですけど、脳内で発語する際にいるも「GOオタル」って混同しかけて、GOオタル……Goおたる……小樽……観光に行きてえな……という気持ちになります。極めてどうでもいいですね。ごめんなさい。でもわたしどうしても言いたかったの。ごめんね。

■下巻で書きそびれたことについて

下巻……というかGOオルタは色々な意味で「手に余った」感があった話になったなー、とか思っていて、伏線をすべて回収しきれなかったというか(あえて回収しなかった伏線もかなりあります)、設定的にすべてをうまく畳きれなかった感じだったので、そこが若干心残りだなあという気持ちがあるようなないような、ないようなあるような……。チラ裏の話なので、べつに読まなくてもいいコトなんですが、具体的にいうと、家康のこととかはもっと書くべきだったなーーーーーーー!!!!というお気持ちがあり、後悔があるような気がしないでもありません。でも正直、おじいちゃんを書く趣味はないので、書いてもモチベーション上がらなかったよな……みたいなアレがあります。すまん家康。

今回は最終章(F-Evi No.10)がもっと盛り上がるはずだったのですが、下巻を手にとってもらえればご確認いただけます通り、最終章が始まった時点ですでに400Pを越えておりまして。自分が想定したとおりに最終章を書いてしまうと、おそらく650Pくらいになっていたと思うんですよね。

650P。

そんな小説、誰が読むんやねんという感じですね。俺だったら読まないです。そんな分厚い本読みたくないよ。ていうか持ちたくないやん。重いし。電子書籍で買いますわ。なので、家康に関するドラマは最低限で収めて、本筋であるオルガマリーの物語に注力せざるを得ませんでした。

だいたい650Pとかまでなっちゃうと、いっそ上・中・下巻にわけたほうが現実的だと思うんですが、そうなると、今度は「どこから下巻にするべきか?」という問題や「そもそも上中下巻構成においては中巻がまじで売れない」という元編集者のおともだち(ていうかろきさん)から頂いた助言もあったので、それは避けざるをえなかったのです。なんでも、上中下巻にすると、「上巻で話の概要を掴んで、下巻で結論だけ確認する」みたいな買い方をするユーザーが出てくるようで、おかげで中巻がぜんぜん売れないのだそうですね。まじかよ。そんな読み方するなんて小説読みの風上にも……絶対許せねぇ! 変身!(オレンジ) あとはアレですね、モチベーションの問題も非常に大きく、冬コミで中巻を出し、その次の夏コミ(8ヶ月後)に下巻となると、そこまで更にFGOに付き合うのかと考えるとただでさえ炎上で消耗していたのに、更に苦しくなりそうでしんどかったんですわ。なので、家康については色々とオミットして、話をまとめることを最優先しました。とはいえ、物語の根幹部分に関わるものはすべて回収したはずなので、これはこれで良かったと思ってます。

 ■家光について

そういうわけで今作もいつも通り、筆の暴走による良い意味での誤算はあったのですが、とりわけ一番良い方向に働いた誤算は家光についてでした。家光。いや、この際なので、彼のことはミッチーと呼ばせてもらいましょう。ミッチーは上巻の時点では「なんかこいつえらい中途半端なキャラだな……」とか作者である自分自身、首をかしげているところがあったのですが、とりあえず「しょうがないから」という極めて雑な理由で書き進めてみたところ、アラ不思議、後半のミッチーの内面シーンになった途端暴れ始めてマジかよという驚きがありました。特に「生まれながらに将軍とは、生まれながらに~」のくだりをミッチーが言い出した瞬間「お前そんなこと思っとったんか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」という作者ながらに純粋な驚きがありました。大変だったんだなミッチー。

あの一行を書いた瞬間「こいつは面白くなるぞ」と思ったもので、脳からアドレナリン太郎がじょばじょば出てきまして、その後は予想通りいい塩梅に盛り上げてくれました。あれのお陰でハンニバルとの対立構図がぐっと引き締まったので、本当にありがたかった。小説を書いていると、こういう自分も想像していなかった予想外のプラス作用がたまに起こったりするのですが、これが出たときが楽しいから、小説を書くのがやめられないところがあると思います。ハンニバルと家光が衝突するシーンは、おそらく読者の人々が予想している(?)とおり、一晩で一気に書き上げたのですが(もちろんプロットは事前に組んでます)、その日はアドレナリン次郎がジョボジョボでてきて興奮して寝られませんでした。ああいうのがあるから小説やめられない。

 ■執筆時期について

時期的なことについて言及すると、下巻の執筆を始めたのは2017年8月頃からで、そこから炎上する10月あたりまでに下巻の半分(アヴェンジャーとお月見するあたり)まで書いていました。で、炎上しててんやわんやになって執筆が完全に中断され、11月に入ってからようやく執筆が再開され、後半部分はすべてそこで書きました。その後12月2日に入稿しています。今考えると、よく後半部分を炎上後のあの時期に書けたなという感じですが、今考えると、よく後半部分を炎上後のあの時期に書けたなという感じですね……(同語反復)。極めて正常な精神状態で書いたつもりですが、振り返ると、なにか頭がおかしくなっていたのかもしれない。あとがきにも書きましたが、下巻を出さないというのは死んでもやりたくなかったので(※死んだらやれない)、とにかく必死だったとは思います。なんで書けたんだろう。わからん。なんもわからん。

ハンニバルについて

型月にふれた創作マンたるもの「ぼくのかんがえたさいきょうのさーゔぁんと」を妄想するのはもはや通過儀礼のようなものだと思っていますが、そのなかでもハンニバルは自分にとってのそれで、いつかFateの二次でなくとも、どこかで必ずハンニバルを題材になにか作品を作りたいと思っていました。初めてハンニバル・バルカに触れたのは極めてベタですが塩野七生さんのローマ人の物語ハンニバル戦記」なのですが、あれを読んだ瞬間「カッチョイイ!!!!!!!!!好き!!!!!!!!!!!」と思い、いつかハンニバルを題材すると決心したのでした。女の子になっちゃったけど。自由な彼女を書くのはとにかく楽しく、こいつのせいで会話文が無駄に長くなってしまい削るのに苦労した記憶があります(削りたくないけど削らないとページ数がふえる)。彼女がどんなキャラクターなのかはここでは書きませんが、自分のなかのハンニバル像をこれでもかと詰め込みました。象だけに(パオーン)。上巻下巻ともに大活躍する彼女ですが、彼女を書くのが好きでしょうがないのでどっかでまた書きたいな~~という気持ちがあります。とりあえず確定しているのはGWのコミック1で幕間の物語を書くことですが、それ以外にも何かしらの形で書きたいなぁ。……と思いつつも、彼女の物語についてはかなり「やりきった」感があるので、何を書けばええんじゃいという部分もあり。でも書きたいなー。ハンニバルがのびのびしてるとこまた見たいし。ハンニバルがピックアップされるまで頑張らなきゃ……(無理)。

 ■沖田さんについて

下巻でとにかく不憫な目に遭わせようと思っていました。でももっと残酷な展開にしたかったなー。でも概ね満足しています。上巻は好き放題ラブい感じで書いたんですが、下巻ではちょっと「これは沖ノブ派閥過激派に刺されるのでは???」みたいなことが頭を掠めてしまいやや控え気味になりました。チキンでごめんなさい。本当はもっとシロウと継承に絡んだ話をするつもりでした。原作FGOの沖田さんからすると人斬りに対してべつに悪いことともサッパリ思っていないのが普通の解釈にあたると思うのですが、そこであえて「人斬りはよくないことなのでは??」と気づいたなら(気づいてしまったなら)どうか?というところで書いたのがGOオルタでした。結果として、処理が難しくなってしまい、立香とのほのぼのシーンだけでよかったのではみたいな気持ちを反省がございます。でもまあ、かわいいからいいか。沖田さんすき。

■マシュオルタことアヴェンジャーについて

今作の一番キャッチーな部分を担当して頂いた鯖。GOオルタのコンセプトはいうまでもなくFGOの贋作であることであり、と同時にFGO原典並に高いクオリティであることだったんですが、それと同時に、そのコンセプトそれ自体を決定的に理解してもらう要素は不可欠でした。それにあたって、FGO最大の「顔」であり、FGOプレイヤーなら全員が知っており、と同時に誰も見たことがなく、しかも誰もが一度は考えたことがある……という要素をすべて満たすのは「マシュ・オルタ」しかありえず、彼女は企画をつくる初期段階から登場が決まっていました。上巻の表紙のもっとも目立つ位置に彼女がいますが、イラストを担当してくださったlackさんには、できるかぎりマシュだと一目で視認できるという点には十分注意してくださいとオーダーを出していました。作品のテーマを背負うのはハンニバルですが、もっとも企画を説明できるのはマシュオルタだったので。下巻の一番のポイントになっているのは、いうまでもなく「交換」のシーンなんですが、実はあれはプロットの初期段階では構想にいれてないものでした。あれは上巻執筆後に「ノワール」というアニメを見まして、あれのなかでミレイユ・ブーケが因縁の相手と凶器を交換して決闘するシーンがあり、それを見た瞬間にビビビビーーーッ!!!!!と「これだ!!!!!!!!」と思い、急遽展開に組み込むことになっていました。結果としては大成功で、本当に印象的なシーンに仕上げられたなあと思っています。ちなみに宝具の正体も初期には決まってませんでしたが、書いてる最中に「この設定ならこれしかありえないな」と追加された設定でした。

■師匠について

FGOにおけるワイカルデアの聖杯鯖は師匠と殺師匠と沖田さんの三人なのですが、師匠については原作での扱いに関して物足りない部分が多いので、その分「俺がやったろうやないの」という気持ちで書きました。本来もっと家康と絡む予定だったんですが、端折った関係であんな感じに。ロンギヌスオルタナティブを思いついたときはテンションが上がったのですが、冷静に考えて「ロンギヌスだけでもオリジナル要素でアレなのにさらに師匠のと混ぜたらさらにアレなのでは……??」と思い至り、やめようかなと思ったこともあります。が、最終的には「今更ためらってどーする」という開き直りのもとああなりました。師匠はもっとカワイイ感じに書きたかった。エロじゃない。カワイイ感じで。わかってほしいこの気持ち。外見はエロくてももっとかわいくしたい。あとめっちゃどうでもいい語りをしますが、師匠のエロ同人ってめちゃくちゃ大量にでていて、わたくし、それらにだいたい目を通しているのですが、いまだに納得できるものを見かけた記憶がなく、読み終わった瞬間にいつも「ちっがーーーーーーーーーーーーーーう!!!!!!!!!!!!!!!!!」とキレ散らかしています。どうでもいいですね。ごめんなさい。でもあたし、どうしても言いたかったの。ごめんね。

ところでこの記事、無駄にながくなっておりますが、その意図として「嫌いなやつが書いた長文記事など読まない」という行動を見越して、アンチ的な方がこの記事を読まないようにという意図が籠められています。アンチだと自称しつつこの記事を丁寧に読んでる人は粘着か変態かキチ◯イです。私にこだわるより、さっさと自分の人生を生きてくださいね(お父さんとの約束だぞ)。そして……読まれないように長々と前フリを書いたうえでやっと書けることですが、ありがたいことにGOオルタの売れ行きはたいへん順調でございますやったー!!!!!! 炎上の件があって、売れ行きにも影響がでるのかな……と危惧していたのですが、これマジで重要なので覚えておいて欲しいんですけれど「まっっっっっっったく影響なかった(!)」です。下巻も上巻も、炎上前後で売れるペースにまったく変動がなかったというか、メロンブックスで一度差し止めがあったときもそうでしたけど、販売が再開してからもまったく同じペースで売れています(これはサークルポータルページから確認できるのです)。なので「あぁ……炎上しようがしまいが、買う人は買うんだな。炎上に加わって騒いでいた人は、そもそも買わない人だったんだな」という知見が得られたのは、非常に有益でした。なんで、気にする必要まったくなし。これが理解できたのは本当によかったです。生卵ぶつけられなかったし。おかげさまでGOオルタは累計発行部数が4000部を超えまして、実売数でもすでに3000を超えています。これは漫画と比べてとにかく売れにくい同人小説本であることや、一冊あたりの単価を考慮すればとしては破格といっていい数字で、間違いなく大成功だったと思っています。ちなみにぼくはこうやって売れていくことに対してまったく悪いとは思いません。むしろ良いことだと思っています。だって売れる=儲かるということは、それだけ買った人達を喜ばせているということですからね。誰よりも自分が読みたかった本を自分が作って、それが誰かにとっても喜ばれるものだったということは、大変うれしいことです。今後も自分が楽しめるものをつくって、それで誰かが喜んでもらえるよう頑張りたいですね。たまに誤解されるのですが、私は売れる本が作りたいのではなく、自分が作りたい本が売れたらいいな、と思ってるだけですので(でも売れる本をつくるのが好きでもある)。

■コミック1について

すでにちらっと触れましたが、次のイベント参加はコミック1(4/30開催)になる予定です。何を出すのかというと……そう! Fateといえばアレ、シナリオが終わったら必ずでてくる「マテリアル」を作ろう(願望)と思っています。つまり「Alternative Material」としてオリジナルサーヴァントの設定集的なものを出そうかなと思っています。収録するのは、ハンニバルとマシュオルタのキャラクターデザイン画(初期案とかの本に収録していないやつとか)、あとキャラクター設定資料、用語集、ハンニバルの幕間の物語、とかその辺になります。「Alternative Material」は完全にうちの本を楽しんでくれた人向けにつくるので、少部数であんまり告知もかけない感じになると思います。作者からのありがとう感謝本みたいな位置づけです。あと俺が欲しいからつくる。やっぱりFateで二次創作やってここまでトレースしたなら、マテリアルまでやりきってこそでしょう。

とはいえ、実はすでに並行して動いてるものがこれ以外に2つあり、そっちに稼働が取られてしまうようなら作らないかもしれません。あくまで余裕があればやるぞ、という形で。ちなみに夏コミはまだ未定です。

  ■今後の活動について

コミック1と夏コミのことについては触れましたが、これ以外の活動についても触れておきますと、まだ公開できないけどやってる作業が一本あるのと、それとオリジナルでも小説書きたいなということで企画を作り始めているのが一本あります。前者はうまくいけば2018年中に公開できると思いますが、もしかしたらけっこう先になるかもしれません。後者のオリジナル小説つくるぞーーーというのについては、これも同人誌にするつもりですが、その前に小説家になろうで掲載してみようかなと考えています。小説家になろう。噂のあのサイトに……ぼくもついに……ではないのですが。昔ちょっとのっけたことありますけどね。ただ、なろうで小説書くといっても、最終的に同人誌にするわけなので、ただの同人誌を作る気はサラサラありません。今回も「ドゥフフ……」というオタク笑いが溢れる「自分が作りたい本」を作る予定です。ちなみに途中でほっぽり投げてるレトロミライではなく、完全に新規の企画になります(レトロミライはどうも自分の手に余りすぎた感があるので、いつかやりたいけどしばらく中断になりそうです寝……)。

2017年はGOオルタで世のオタクを仰天させたくて頑張りましたが(そして俺自身も仰天した感がある)、今年2018年はこいつで頑張りたいと思います。とにかく、創作活動は楽しくて好きなので、ずっと続けるでしょう。すでに今年は一月が過ぎましたが、それでは引き続きよろしくです。というかなんだこの記事は。よくわからん記事になってしまった……いつもだけど。まあいいや。そんじゃねー。

『ファンタジー』とは何か、に関する思考メモ。

冬コミの原稿も終わって若干の放心状態でしたが、それも過ぎ去ってぼちぼちと次回作について考えています。次は積年挑んでみたいと思っていたファンタジーをやりたいな~と考えているのですが(正確には4年前くらいに一度30万字ほど書いたのですが、自主的にお蔵入りさせたものがある)、それにあたって以下の記事が非常に面白かったので、自分なりの論点整理や思考をメモしておきます。

なお記事のタイトルがものすごい大上段に構えたアレですが、答えを出すつもりなどサラサラないうえに答えなんか出るわけがないので、そういうのを期待してはいけません。

news.denfaminicogamer.jp

記事には後編もあるようですが(執筆時点で未掲載)、こちらはイラストレーター側の対談企画のようなので、物語作りには関わるものではないっぽいのでスルーしておきます。

対談しているのは『ロードス島』の水野良氏と、『ペルソナ』シリーズディレクター橋野桂氏。両者とも紹介する必要のないほど著名ですが、今回の対談が実現したのは橋野氏率いるアトラスの次回作がガチガチの(?)ファンタジーということに由来する様子。対談のなかでも様々言及がありましたが、流石、『ペルソナ5』をプレイした当時も感じましたがよく勉強しているなと感心させられました(このコメントに他意はないです)。

大まかには、橋野氏がファンタジーの先達である水野氏にあれこれ質問するという形式なのですが、その質問がかなり鋭く良い点をついている。ファンタジーは完全に門外漢と自称する橋野氏ですが、わからないなりに重要な点はわかっているようにも感じました。(なお自分は別にファンタジーに詳しいわけではなく、むしろ橋野氏と同様に門外漢だと認識しています)

以下、議論を整理して要点を掲載します。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?
 ⇒異世界の魅力は「逃避」
  ただし現実の否定ではなく、自分の理想の投影先としての「逃避」
  【メモ】これはコインの両面に近いものだと思われる
 ⇒例:『指輪物語』は第二次大戦の戦争に絶望した故に、理想的な調和を描いた
・ファンタジーの良さは「純化」されている点
 ⇒ゴブリンを倒していた若者が最終的に世界を救うという話
  ファンタジーならできる、現代劇ではできない
 ⇒【メモ】時代小説と機能は同じっぽい
・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?
 ⇒共通知として利用でき、理解をショートカットできるから
 ⇒【メモ】なろう小説のガラパゴス化Jリーグの戦術ガラパゴス化
・魔法の言語体系

 ⇒魔法は独自の言語体系にするか、能力をストレートに説明する名前にするかの二択
 ⇒『ドラクエ』や『FF』は独自の言語体系
 ⇒どこからが現地の言語で、どこからが記号的につけるべきか、作法は?
 ⇒特にない。強いていえばセンス。
・ファンタジーのお作法、常識は「どこから」?
 ⇒ファンタジーに詳しい人は「気にしなくていい」と言うが、それは罠では?
 ⇒本当に気にしなくていい。ただし一定のセンスで選り分ける必要がある。
・現代は中世と似ている時代
 ⇒新大陸が見つかる前の閉塞した奪い合いの時代が中世
  ⇒植民地開拓時代が開始、現在グローバル化によって再び閉塞感が

 

 

以上です。詳しい発言の文脈にあたっては、元の記事を読んだほうがいいでしょう。では、幾つか自分なりの視点でもうすこし敷衍して書いてみます。

 

・人は何故幻想世界での冒険に憧れるのか?

ファンタジーの重鎮たる水野氏がはっきりと(あっさりと)「逃避」と言ってのけたことは結構意義深いことだなと思います。実際自分も「逃避」だよな~と同意するのですが、記事のなかでは「現実の否定ではない」と言っているものの、現実の否定としての側面を機能させたファンタジーも実際かなり多いよなというのは否定できないところだと思います。

記事中に存在するように代表的には「なろう」系のファンタジーもそういう面は多少なりあると思いますし、そうでなくても現実世界から逃げたユートピアとしての異世界=架空世界というのは、読者の要望として、ありうるものだと思います。

ただ、上の要点整理でも書きましたが、「逃避」と「理想」の反映は、ファンタジーにおいてはコインの表裏みたいなもので、単なる描き方の違いに過ぎません。理想を反映させたものもあれば、「それは逃避だ」と糾弾するものもある。従って、異世界に転生するという機能を逆用して、そういった甘えた読者に過酷さを叩きつける系の異世界モノ、ファンタジーも存在しています。つまり「現実が辛いから異世界に逃げ込んでみたら、実は異世界のほうがもっとキツかった」系のやつですね。

で、この典型例はまさしく、小野不由美さんが書かれた小野不由美十二国記シリーズでしょう。ド傑作なのですが、これ1991年が初刊行で、その頃から学校でなんか辛いな~と思ってた女子高校生が異世界に飛ばされて王様をやるハメになったけど、そのせいで死にかけるような壮絶な困難に巻き込まれる……という、いかにも「なろう」じみた所から話が始まるので、あらためて考えるといやあすごいなーという感じですね。

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

月の影 影の海〈上〉―十二国記 (新潮文庫)

 

 その他にも、類例としては村上龍『五分後の世界』や、エロゲーマブラヴオルタネイティヴとかも近しい位置づけになると思います。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

 
マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

 

(リンク貼って初めて気づいたんですけど、マブラヴオルタ、いまPSVitaで遊べるんですね……) 

 こうした、ファンタジーを使って現実から「逃避」しようとする読者・受け手を告発する系の作品は一定周期でポツポツと出てくるようなんですが、こういう作品は批評的な能力の高く、かつ内面的に非常に激しいクリエーターが作りたいと考える傾向がどうもあるようで、だいたい出来上がった作品はやばいです(語彙力)。要するに異世界という「楽園の否定」を物語を通じて行っているわけですから、普通のメンタリティではありえないんでしょう。一歩間違えばこう……アレな感じのアレです(語彙力)。

 

・ファンタジーの良さは「純化」されている点

 これも非常に良い指摘だな~と思ったのですが、これは何もファンタジーだけではなく、時代小説でも同じような機能があるなと思ったので書いておきます。これもファンタジーと同じで、現代ではできない話を訴えることができるという点で共通でしょう。たとえば「人権とは何か」みたいな話を現代を舞台でやろうとすると、複雑な話にせざるをえず、お勉強みたいな話になりがちですが、時代小説なら人権を得るまでの歴史的転換点みたいなのを拾えばいいわけで(※例なので単純に言ってますが、実際はもっとたいへん)。

 物語はテーマに沿った舞台設定があるべきですが(基本的には)、そういう意味で、時代小説だからやりやすい話、ファンタジーだからやりやすい話、SFだからやりやすい話などそれぞれ特色があり、その点はあらかじめ把握しとかないとなと思います。

 

 ・何故「オーク」や「エルフ」はそのまま名前が残るのか?

ようするに「便利だから。以上。」

という身も蓋もない感じなのですが、まあ世界的にもファンタジーというジャンルにおいてこれは共通なんでしょう。海外ファンタジーを見ても、オークとかエルフは普通に出てくるので、やっぱり理解をショートカットできるというのは社会を選ばず大きいのだと思います。

そういえばちょうど先日、作家の入江君人さんが「なろう」小説に関して似たような言及をしていましたね。

 自分も「リノリウムの床」って書いたことあるので、あーわかるー、と思いましたが(笑)。

「なろう」小説ではドラゴンクエストなどを始めとした「ゲーム」に関する基礎知識を前提として書かれたものが非常に多く、これは二つの面で理由があると思います。ひとつは「書き手側が下調べをしなくて済む(=ファンタジーはよく知らんけどゲームのことなら良く知ってる)」のと、もうひとつが「読み手もゲームのことならよく知ってる」ということ。なろうの功績の一つは「書き手になる敷居が非常に低い」ことにあって、それゆえに読者が作者に、作者が読者になるという双方向性があります。その点で、共通知である「ゲーム」は国内のファンタジー事情において非常に「便利」なのだと思います。

……まあこれは海外ファンタジーでもエルフやオークが多用されるのと理由としてはそう変わらないんでしょう。「便利さ」には勝てないようにできているのです、人間は。

しかし一方で「ゲーム」が便利に扱われるというそれは、インタビュー記事内でも『ヒックとドラゴン』の続編が上映されない!と水野氏が嘆いているように、ガチのハイファンタジーを受け入れる土壌が国内にあまりないという事情の裏返しでもあるように思います(ヒックとドラゴンめちゃくちゃおもしろくて完成度も高いんですけどね……)。「なろう」的なものが海外にもあるのかは知りませんが、まあ国内ファンタジーはけっこうガラパゴス化してるんじゃ?というのは読んでて感じました。

そこで感じたのは、まあサッカーのJリーグのことなんですけど(急激に話が跳ぶ)。

自分はわりとサッカーの記事を読むのが好きであちこち色々拾い読みするんですが、国内のサッカー状況と海外トップレベルのサッカーを取り巻く状況って、(当たり前ではあるんですが)非常に異なっているんですよね。

Jリーグでは通用するような戦術が、海外でいくとあまりにも基準が違いすぎてまったくもって通用しない……という話は、そこらじゅうのサッカーにお詳しい方のブログで読むのが嫌になるほどさんざん語られているのですが(笑)。

まあつまり、ようするに、Jリーグの戦術もガラパゴス化してるんですわ。で、国内ファンタジーも(なろうだけ切り取れば)ガラパゴス化が進んでいるように見えるけれども、果たしてこのままで大丈夫なのかなぁ……というのはちと心配になりました。まあ、そもそも小説漫画アニメの日本市場は非常に大きいので、これまでは完全に国内向けに作っていれば何も問題はなかったわけですが……しかしスマフォゲーム市場ではすでにワールドワイドの戦いが始まっているように、小説漫画アニメもこのままでいいとも思えないんですよね。そうなると、本当にこのままでいいのかな……というのはちょっと危惧したりしています。(でもそれじゃあ海外向けに作ればいいのか?というとそれもなんか違う気がするし、個人的にも悶々としているところです)。この辺りは、個人的に継続調査対象かな、という感じです。

 

だいたいこんな感じです。

ファンタジーについてはまだまだお勉強不足ですが、がんばって調べたいところですね。では。