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フィクションが「現実を拡張する」という画期的なコンセプト

 知人かつ友人の渡辺零さんが、コミックマーケット91で頒布する新刊同人小説『ordinary346』の告知をしました。

 彼が主催するサークル「渡辺書房」の同人小説は『電脳軍事探偵あきつ丸』を始めとして、コンセプトがいずれも非常に優れており興味深いのですが、前著の『宮本フレデリカさんのこと』から連なる今回の新刊は、殊更コンセプト的に非常に興味深いものがあります。個人的にもいろいろと発見があったので、思考をまとめるためにちょっと文章に起こそうと思い記事を書くに到りました。

 

・フィクションが現実を「拡張」する

  前回もそうですが、彼の企画で優れている点としてなるほどと膝を打つのは「フィクションが現実を拡張する」という概念を物語の世界に持ち込んでいる点だと思います。これはたとえばライトノベルの世界や漫画の世界でも、おそらくほとんど持ち込まれていない概念で、非常に画期的なコンセプトです。

 どういうことか簡単にまとめてみます。前作の『宮本フレデリカさんのこと』といい今回の新刊といい、加えて彼や彼の周囲が日頃からTwitterで呟いていることといい、共通しているのは、架空のキャラクターがあたかもこの現実に実際に存在しているかのように思考している、という点です。

 たとえば彼らはアイドルマスターシンデレラガールズに登場する少女たち・アイドルが、現実のテレビ番組――たとえば『「笑っていいとも」に出演してタモさんに恒例の「髪切った?」と聞かれた』だとか『オールナイトニッポン(ラジオ番組)でパーソナリティを勤めておりこんな話題を持ち出した』だとか、そんなふうに現実に宮本フレデリカだとか速水奏だとかが、実際にぼくらがいる世界に存在しているかのように想像力を働かせています。

 彼らがそんなことで与太話をしているのを横で眺めながら、当初は私も「はー、まあそんなことになってたらおもしろいよねー」くらいにしか考えていなかったのですが(※節穴)、その概念がインストールされてくるにつれ、なるほどこれは画期的なコンセプトだったんだなと理解できるようになってきました。端的に言えば、彼らはつまり「拡張現実(AR)」をフィクションで実現させている

 繰り返しますが、正直私はこのテーマで彼らがキャッフキャッフとはしゃぐ理由がさっぱりわかっていませんでした。概念のコアが理解できていなかったんですね。漠然とはわかっていたような気もしますが、そこまで面白いものか?と思っていた。ただこれが拡張現実的なものなのだと理解して初めて「あ、面白い!」と感じるようになりました。これまで漫画でも小説でも、そういった概念で構築されたフィクションはほとんど存在していないからです。

 

・IFではなくAR(たぶん)

  ポイントはこれは「IF(もしも~だったならば)とは違う」という点でしょう。もしこの世界に速水奏宮本フレデリカがいればどうなっていただろう? という発想で描かれているのではなく、彼らは事実として現実に宮本フレデリカがいるという前提でものを考えている。書いてて私も何をいっているのかさっぱりわかりませんが(笑)、でも、どうやら彼らがそういうふうに思考しているのだから仕方ない。

 「IF」というのは事実の組み換えですが、拡張現実=ARは文字通り、現実を広げるという概念です。彼らはこの世界を組み替えて架空のアイドルがいるということがしたいのではなく、この世界にアイドルがいたという世界に広げたいのです(たぶん)。説明がむずかしいところですが、おそらく明らかに「IF」を志向しているコンセプトではないと思います。

 二次創作にはさまざまなパターンが存在します。それはたとえばIFだとか、時間逆行だとか、関係だけにフォーカスしたものだとか、いろいろありますが、殆どは類型化できるものです。ただそのなかに「AR」っていうのはたぶんなかった。その点でも非常に画期的だと思います。

 

・文脈としての新規性

 

 概念としてはだいたい上記の通りだと思いますが(誤解している点もありそうですが)、これの何が新しいって、フィクションはフィクション、現実は現実、とぱっきりと二色に描かれていた世界が融合することを示しているからだと思うんですね。

 たぶんつぶさに見ていけば、そういうことを考えたフィクションはあったのだろうと思います。ただ、そもそも「アイドル」の文脈でそれをやろうとした例は非常に少なかっただろうことと、アイドルというものそれ自体の性質が、この「フィクションによるAR」と親和性が高かったことが大きいのでしょう。

 まあ一応付け加えておくと、そもそも『アイドルマスターシンデレラガールズ』自体が、SMAP中居正広がゲームに登場したり広告として出てきたりなど、元からそういった現実とフィクションの融合的志向を持っていたコンテンツだということもあって、さすがに彼がゼロから考えだしたコンセプトではないとは思いますが(※若干余計な一言感)。といっても、たぶんシンデレラガールズのほうはこのコンセプトを理解して展開しているコンテンツではない気がしますが。

 

・ハイコンテクストゆえの問題点

 この「フィクションによるAR」という概念自体は非常に新しいコンセプトだと思いますが、同時に問題点もあるといえるので、それについても触れておきます。端的にいえば、このコンセプトは非常に「わかりづらい」。

 渡辺さんがこの概念に気づき始めたのは1年前あたりからだと思いますが、私なんかはもとからアイドルものがそんな好きじゃないこともあって、概念をインストールするまでイコール1年かかっているわけですよね。友達のゆうやくんに小一時間説明されて、実際に『宮本フレデリカさんのこと』を軽く読んでみて、それでも一年掛かってるんだものw

 つまり、それだけハイコンテクスト(ようするにわかりづらい)な概念だということです。たぶん概念の核までちゃんと理解している人は現状そんなに多くないでしょう。理解されないということはつまり、多くの人に届かないということでもある。それがちょっと勿体無いなーと思ったりします。

 たとえばUSBメモリの話をしましょう。

 いまでは誰でもあたりまえに使うUSBメモリですが、これが開発される当初は、経営陣にコンセプトがさっぱり理解されなかったといわれています。当時はFTPをもちいてファイルをやりとりするのが一般的で、フロッピーディスクも存在し、わざわざUSBを使う理由が理解できなかったというのが理解まで時間がかかった大きな理由のようです。

 詳細は以下リンクから見るとよくわかりますが、この濱口秀司さんのUSBメモリの開発過程=イノベーションの実現過程は非常に面白いのでおすすめです。濱口秀司さんのイノベーションを「意図的に」設計する過程は創作でもなんでも、企画づくりにおいて非常に役立つ理論です。めっちゃべんり。

diamond.jp

 今ではもはや常識にさえなったUSBメモリですが(というかすでに古びつつありますが)、これが経営陣に理解されるまで「2日間必死に説明して、ようやくすごいと言ってもらえるところまで辿り着いた」そうです。この一例だけでも新しいコンセプトを受け入れられるのは簡単なことではないとわかりますよね。新しい概念というのは、それだけ理解するのが難しいんです。

  たとえばiPhoneとかもそうですよね。発表当時は何が騒ぎで何があたらしいのかよくわかりませんでした。一度触れば一発でわかりましたが、どれだけ説明されても、画期的かどうかは実際の手触りを含めて理解されるものなので、非常に受け入れられるのが難しい。

 「 フィクションによるAR」というのは非常にあたらしいコンセプトだと思うし、かなりの鉱脈だとも思います。が、更に一般化するにはもっと大きなところの手を借りないと難しい気がします(もっとも彼がそれを望んでいるのかはわかりませんが)。個人的にはせっかくいいコンセプトなんだから、もっと多くの人に認められ評価されるべきだと思いますが。

 出版社とかがうまく関われば最低でも十万部レベルで売れる企画になりうると個人的には思いますが、編集者はどう見ているのか気になるところです。……つっても、出版編集たちはどうも同人小説界にまったく興味関心を向けていないようですが。

 

(ネタバレなし)『ペルソナ5』クリア後感想

 

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

  ようやく『ペルソナ5』をクリアしたので、その感想を約7000字ほど……ちょっとだけ書きましたTwitterでもちょこちょこ書いてきましたが、総括してまとめる場が欲しかったので一つのテーマ「仲間づくり」という視点で整理した感想です。

 そもそも僕は、このゲームを始めるつもりはプレイ前はほとんど欠片も持っていなくて、『ペルソナ』というシリーズが人気であることなどはもちろん知っていたのですが「へー、シリーズ最新作が出るんだー」くらいのめちゃくちゃ軽い気持ちでした。

 正直「有名なゲームだし、そろそろ文脈を押さえるためにも、とりあえずDL購入だけして、他のゲーム(世界樹の迷宮5)をやりつつちょっとずつ遊ぶかな~(笑)」、と思っていたのですが、いざ購入してゲームを起動した結果、クリアまで(104時間)ひたすら遊ばされる羽目になるとは思いもしませんでした。ほんとなんなんだよこのゲーム……麻薬かよ……。

 ここまでどっぷりゲームの世界に浸ったのは本当に久しぶりの体験で、自分自身かなり驚きを感じながらここ二週間は、日常におけるすべての時間を費やしてプレイしていました。すばらしいゲーム体験でした。製作したアトラスには心からありがとうと言いたい気持ちです。

 

【自分にとってのRPG

 個人史的な話をまずしておくと、ぼくは非常にRPGというものが好きな人間でして。小中学生からゲームばかりしていた人間だったわけですが、遊ぶジャンルはもっぱらRPGでした。つっても、遊んでたのはFFだとかDQだとか有名どころがメインで、その他にも主要なものをちょこちょこ拾うような感じだったんですが、それでも間違いなく自分の青春期を形成してきた要素にはRPG(というかより正確にいうなら「JRPG」というヤツでしょうが)が関わってきていたわけです。

 なのでRPGに対してはそれなりに一家言あるというか、むしろJRPGが持つ特有の文脈には飽き飽きしていた部分もあったというか、ペルソナに対して遊ぶ前はそんなに期待していなかったというのもその辺にあったわけです。その辺の認識……というか不満点をペルソナ5はごそっと覆してくれました。この点には本当に拍手を贈りたいなーと、ゲームをクリアしたいま感じます。

 

【個人的なRPG文脈におけるペルソナ5】

 RPG文脈においてペルソナ5(というかペルソナシリーズ? 確実になったのはたぶんペルソナ4)が画期的だったのは、おそらく「チームビルディング」に関わる部分だと思うんですよね。チーム、というとちょっと大仰だけど、要するに「友達づくり」のことです。ここがペルソナは感心するくらい本当によく出来ていた。JRPGで個人的に一番かかえていた不満ってのはまさに「ココ」で、これがあまりにも不出来というかお粗末で、RPGから遠ざかっていったんですよ。

 そもそもなぜRPGの世界で友達づくりが重視されたのか、というとそれはマーケティング的な観点と社会的な観点のふたつが挙げられると思います。マーケティング的な視線でいうと「いろんなキャラクターを出しておけば、いろんなユーザーに対して訴求力を持たせることができる」ということ。社会的な視線でいうと「近代化した社会ではヨコの繋がり(=友達やらの薄い関係)が絶たれてしまう傾向があるため、共同体に属することが求められる」ということ。

 マーケティング的な話はわかりやすいですよね。要するに、クールなキャラとか熱血なキャラとか、美少女とかメガネっ娘とか、いろんな要素をひとつの作品内に詰め込んだ方がいいよって話。なぜならユーザな嗜好が多種多様になっているため、できるかぎり広い層を捉えるようにつくったほうが、結果(売上)に直結するから。その要求と「仲間づくり」っていうのは非常に相性が良いわけです。いろんなキャラクターを出すことに対して、合理的な理由を用意することができるから。

 社会的な観点での話もそんなむずかしいことじゃなくて、近現代の都市社会というのは本質的に人と人の繋がりが希薄になる傾向があります。これは感覚的に理解できることかと思いますが、この辺りの話は、宮台真司さんの著書(社会学系の話ですね)とかあたればわかることですかね。共同体が絶たれて核家族化の進行がすすんでしまうと、どんどん人との関わりが薄くなるっていう。なので、その社会構造からくる欲望にこたえるかたちとして「仲間づくり(共同体づくり)」は非常にマッチするわけです。

 というわけでマーケティング的な観点」「社会的な観点」から見たときに非常に「仲間づくり」の話は、そもそも現代ではウケやすいわけです(若干暴論気味)。

 これはいろんなフィクションでも採用されているものです。特撮とかでも「仮面ライダーフォーゼ」とかそんな感じの話だったし、まあ探せばいくらでもみつかる類型です(後述しますがフォーゼなんかはもろに問題発生させてましたが)。

 で……これに応えるためのフィクションとして、RPGは非常にマッチしていました。もともとRPGというヤツは、それ以前のTRPGからの文化をゲームに持ち込んだものだと理解していますが、TRPGが持つ「複数人でのごっこ遊び」というのが、RPG内で「パーティを組む」「チームをつくる」という要素に流れていったのだと思っています。初期ではドラクエがそうだったように、仲間をつくって遊ぶというのがRPGにおける重要なポイントだったと思います。いやまあざっくりとした理解ですが、だいたいそんな感じで理解していますよ、という話で。

 そんなわけでRPGでは「仲間づくり」という概念がジャンル内で発達していくことになり、それはFFやらDQやら、いろんなRPGで波及していくわけです。とりわけ「テイルズ」シリーズなんかはキャラクターをウリにしており、この辺りの要素を使って売ったゲームなんだろなー、と思っているんですが(それ以外にももちろんあるでしょうけど、ここでは無視)、「仲間づくり」概念が発達していくに従って、ユーザ側の要望や要求も厳しくなっていくわけです。というか僕の要求が厳しくなったわけです。

 特にテイルズシリーズを遊んでいた時に深く抱えていた不満で、僕はこれを「仲良しこよし問題」と呼んで唾棄しているのですが(なんじゃそら)、物語内でその仲間たちが話を進めていくに従って「仲間たちがいればそれだけでオッケー」感というか「仲間たちと一緒ならなんでもできるぜヒャッハー」感というか、もっといえば「そもそもお前ら仲間でもなんでもないだろ」感とか、そういう感じが漂ってくるんです。

 これはつまるところ「仲間づくり」バージョンでの「俺TUEEEEEE」だと思ってくれればよいでしょう。「仲間」であることの心地よさを強化し続けた結果、仲間であることのインフレが進み、「俺達ならなんでもできる!!!!!!」という感覚がすすんでしまうということです。で、これが極度化することで何がまずいのかというとようは「醒める」んですよ。

 「はあ……そりゃ仲間たちが大事かもしれんけどさ……」とか「ああ、はいはい。いつもどおりお前たち仲良しなのね、はいはい」という気持ちが、プレイ中にこみ上げてきてなんともやるせない気持ちになるわけです。

 特にテイルズなんかものすごくて、1作だけ遊ぶならまだともかく、シリーズをずっと続けて遊んでいると、同じことの繰り返しなので「お前らほんといいかげんにしろよ!!!!!!!!!!!!(激怒)」とどうしても思ってしまうわけですよ。テイルズシリーズは「ジアビス」までひととおり遊んでますが、この問題をうまく解決できている作品は皆無だったと思います。

 で、つまり何が言いたいのかというと、『ペルソナ5』はこの辺の僕が感じていた不満をほとんどについて見事に解決していた(!)ということなのです。

 

【ペルソナ5が取った「仲間づくり」問題の解決策】

 んでまあ、この「仲間すぎてけまらしい」問題への対処策は、ペルソナ5ではめちゃくちゃ全うというか「ド」がつくほどの正攻法だったわけですが。具体的に執り行った対処はパッと思いつく感じでは以下のふたつに大別されると思います。

<対処策>

・対処策①:キャラクターの実存を丁寧に描き、また強くユーザが共感してしまう過去などの設定を用意する(その為の「ペルソナ」という設定)。

・対処策②:「怪盗団」という太い一本の線(物語としての目的)を用意することで、キャラクターたちに強い共同体を形成させる。

・対処策③:ゲームシステム側(というかバトルシステム側)で「仲間」感を損なわないような工夫・対処

 もう、ほんとにめちゃくちゃなド直球です。これでもかってくらいに当たり前中の当たり前な対処です。一切奇をてらわない方法で、ペルソナ5は「仲間づくり」に取り組んでいました。

 ……でもね、これこそが一番重要で一番難しい部分なんですよ。ここの作り甘い作品はもうRPGで嫌になるほど見てきました。ペルソナ5はとにかく上記の対処策が、おどろくほどに丁寧でした。

 そもそもなんでユーザが遊んでて「こいつら仲良しすぎてけまらしい」って感じてしまうかっていうとね、単純にキャラクターのことが好きじゃないからなんですよ。魅力が足りないからなんですよ。たとえるならリア充たちが渋谷でヒャッハーしながら下品にゲラゲラ笑っているのを眺める」のに近い感覚でしょうか。

 テイルズにひたすら文句いうマンなのでテイルズを例にして文句を言いますが、要するに、せいぜいキャラクターデザインとしての魅力とかでしかキャラクターをアピールすることができていない話が多すぎなんですよ。キャラクターがなぜその世界で生きていて、何を目的にして生活していて、どんな苦しみを抱えているのか、というキャラクターを描く際に絶対に必要になるものに対する描写が甘いんです。描いていても、それが共感を誘うつくりになっていない。まあ大企業だと利害の調整でそういった部分が削られるってのはあるんでしょうがね。

 

【キャラクターの魅力を感じさせる手法】

「感情」から書く脚本術  心を奪って釘づけにする物語の書き方

「感情」から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方

 

 『感情から書く脚本術』なんかでも言及されていますが、受け手に対してキャラクターの魅力を感じてもらう手法っていうのは、ある程度確立されています。具体的にはパターンとしては以下の3つ。

1)「受け手に憧れさせるような造形にする」

2)「人間らしさのある魅力をもたせる」

3)「理不尽な目に遭わせて共感させる」

 というもの。

 1)はたとえば「銀河英雄伝説」に出てくるキャラクターなんかが良い例になるかなと思います。ラインハルトとか非の打ち所がない理想の君主であるわけですが、そのあまりの完全さに焦がれるような造形ですよね。ただ、もちろんそれだけじゃなくて、ところどころ2)のような人間的な魅力もだしたりしていますが(一夜を過ごしたあと、慌てて求婚しにいったりとか)。

 3)については、これは「判官贔屓」という言葉を考えていただければすぐに理解できることだと思います。ようするに人間が持つ生理的な機能として、弱者にたいしては共感してしまうわけです。あんまりにも酷い目にあっている人間を目の前にすると、人間は否応無しに肩を持ちたくなるわけですね(そういう人間的機能が壊れている人もいますがそれは例外)。

 『ペルソナ5』はこの3つの手法をどれも上手く組み合わせて使っていますが、特に強く効果的に利用しているのは、3)の「理不尽な目に遭わせる」というもの。作中にでてくるキャラクターは、ことごとく理不尽な運命に遭遇しています。

 主人公からしてまず、女性を助けたはずなのに相手が権力を傘に横暴を振りまく国会銀だったため、冤罪で高校生にして前歴持ちで都会に引っ越しさせられる、という目に遭っているし、その他のキャラクターも全員同様。おもわず「ひどい……」と言いたくなるような出来事に遭遇しているところから話が始まっている。(しかもその設定が「ペルソナ」の覚醒と設定的にも物語的にもつながっているところがめちゃくちゃ上手い!)

 この「理不尽さ」加減が強烈なので、プレイしてると否応無しに肩を持ちたくなってしまうんですよね。その上、RPG……というかゲームというものはそもそも「ただボタンを押すだけで」感情移入を誘うメディアなので、更にその感情が強化されるわけです。

 先日、元ジャンプ編集者であるトリシマさんのインタビューでもありましたが、「キャラクターが好きになると他人事じゃなくなる」んですよ。

news.denfaminicogamer.jp

 ほんのささいな出来事であっても、他人事じゃなくなるから、物語で起こることがものすごい出来事のように感じられる。『ペルソナ5』は本当にそれが実感できるゲームで、ちょっとした別れとか勇気をだした真実の吐露とか、ただそれだけで思わず涙ぐんでしまう。後半のね……双葉ちゃんのセリフとかもうね……もう涙声であんなこと言われたら泣いちゃいますよもう。まじで最高だった……。

 

【バトルシステム側における「仲間」感を損なわない工夫】

  対処策③の「バトルシステムによる「仲間」感を損なわないような工夫・対処」についても触れておくと、これもまた非常に「よく考えたな!」って感じなんですが、要するに「戦闘で要らないキャラクターがいない」。

 たとえばテイルズでもFFでもDQでもぜんぶそうですが、基本的に戦闘でつかうキャラクターってのは、基本的に最初から最後まで、クリアするまでずっと固定することになると思うんですよね。なぜかというと、使い慣れたキャラクターで戦ったほうが強い敵にも勝ちやすかったり、そもそも戦闘に出していないサブキャラクターには経験値が入らずメインキャラとの間にレベル格差が生じてしまうため、強い敵と戦うには使い続けたキャラクターを使わざるを得ないという理由があったりします。その他にもそもそも各キャラクター間の差別化があまりなされていないので、単純に好きなキャラクターだけを使って、他のキャラクターを使わなければそれで済む、というシステム側での問題があります。

 その結果、どんな問題が起こるかというと、シナリオ中では「みんな仲良し!」なのに、戦闘では明らかに「役立たずキャラ」が存在するという、システムとシナリオの乖離が発生する。そうなるといくらキャラクターたちが「俺達は仲間だ!!!!!!!!!!」とか強弁していても、プレイヤーは「いやこいつ戦闘に出してもただのお荷物じゃねーか」と醒めた気持ちになってしまうわけです。ここが個人的にはめちゃくちゃ不満だった。

 ……で『ペルソナ』はこの3つの問題(「使い慣れたキャラのほうが強い」「レベル格差が生じてしまう」「キャラクター間に差別化がない」)をすべて解決しているんですよね。

 具体的には、いわゆる戦闘における属性(火とか水とか風とか)を沢山用意し、各キャラクターに配置することでその問題を解決している。ただそれだけなら他のRPGでもやってることなんですが、戦闘で弱点属性を突くことが非常に重く意味づけられているバトルシステムなので、弱点属性を突かれればめちゃくちゃ不利になるし、逆に敵の弱点属性を突けばめちゃくちゃ有利になる。

 なので、積極的に敵の属性にあわせてサブキャラクターとメインキャラクターを入れ替えていかないと、常に苦しい戦いを強いられることになる(いわゆる縛りプレイになってしまう)。その結果、どうなるかというと、頻繁に戦闘キャラクターを入れ替えることになる。

  しかもサブキャラクターにもちゃんと経験値が入るようになっているし、話を進めれば戦闘中にメンバーの入れ替えもできるようになるため、むしろキャラを入れ替えたほうが戦闘が楽になるし、積極的に入れ替えたほうが楽しいんです。終盤になれば、弱点を突いたり突かれたりで相当シビアな戦いを強いられることになるし、一筋縄で攻略できずいろいろ頭を使うことになるわけで、それもまた非常に楽しくて……いやほんとに見事でした。

 あと、これはネタバレなので言えませんが、しかもその属性をうまく利用してシナリオにミスリード仕掛けてたりとかホントもうね……何なの????やりすぎでしょ?????って感じです。

 

【まとめ】 

 以上は「仲間づくり」という視点で『ペルソナ5』めっちゃよく出来てた面白かった!!!!!というお話なのですが、その他にも良い点はほんとうにたくさんありました。何にしても『ペルソナ5』を遊んでみてとにかく感心したのは、作中に登場する要素がすべて有機的に関連しているという点です。

 日常のイベントもめちゃくちゃ楽しかったし、コープランク上げれば戦闘が楽になったりとか、シナリオの水準でも「怪盗団」であることの必然性がすごく伝わってくるんですよ。いやほんとよくここまで練り込んだもんです。製作に8年くらい掛かったみたいですが、ものすごい執念ですね。ドン引きですよ。

 とにかく百時間かかるくらい長いゲームなんですが、脚本レベルでも最後までプレイさせる工夫が仕掛けられている点も良かった。ゲーム冒頭で主人公は捕らえられて、拘置所で取り調べをうけながら怪盗団が行った事件を回想するという形の展開なのですが、これによって少なくともその時間軸に追いつくまでにずっとプレイヤーが飽きないような構成になっているわけです(実際そこに追いつくまで70時間くらいかかる)。しかも追いついてからがますます怒涛の展開になっていて、そこまで辿り着いたらもうクリアまで行くしかないという感じで……。

 話の落ちについても素晴らしくて、この設定だと「ペルソナの力を最終的に失うことになる」という落ちにするのは絶対必要なことなんですが(でなければ主人公たちだけが異世界に行けるという特権的な地位に有り続ける=腐敗した大人たちになってしまうという構造になり、シナリオ的矛盾が発生する)、その収拾のさせかたがとても納得できるもので、最高に爽やかだった……。最高です。

 なんか最後は話が散漫になりましたが、ネタバレにならない範囲で自分はプレイしたところこういう感想を得ました、という話でした。ペルソナの名前自体は聞いていましたが、いやはや、まさかここまで傑作だとは思わなかったです。青年期の頃にもどったみたいに貪るようにゲームをするという経験ができて、本当に嬉しかったですね。

 というわけで、みんなもマジで遊んでくれよな!!!!!!!!!!!!(ダイレクトマーケティング

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

 

ダンガンロンパ3未来編・絶望編・希望編の総括した感想

 ダンガンロンパ3「未来編」「絶望編」「希望編」について。

 当然ながらネタバレありの感想。全話視聴した結果としては、残念な出来になってしまったな、というのが偽らざる率直な気持ち。

 仮に点数をつければ、ダンガンロンパが87点、スーパーダンガンロンパ2が96点、絶対絶望少女が91点、とするとアニメシリーズのダンガンロンパ3は62点くらい。総じて出来はよくなかったと思います(絶望編の序盤除く)。

 シリーズ全体の構成として小高和剛さんが参加したことで、全体としては見た時に要所のつくりはそれほど悪くなかったとも思うのですが、だからこそ最終話まで視聴したともいえるし、すべての場面を小高さんが作り込まなかったからこそ、これだけ微妙な出来になってしまったともいえるように思います。

 ざっくりと整理すると以下の問題がある作品だと思う。

 

【物語の構造にかかわる問題】

・3で初登場したキャラクターが、自分達のダメダメ加減を晒すためだけに登場し、だめだめ加減を晒すだけで退場してしまった(後始末が1・2キャラに投げっぱなしになっている)ので、非常に後味が悪い。問題の類型的にはガンダムSEEDデスティニーに近い。特に逆蔵・宗方・雪染の三人はメインだけに重症。細かい演出ミスも多くて、逆蔵は特に「オレもお人好しだよな」とか、おまえそれはツッコミ待ちか!?という。ちなみに逆蔵が宗方のほうを好きだった、というのも本当に必要な設定なのかと考えると微妙と言わざるをえない。むしろ雪染を好きだったほうがストレートに心に訴えたと思うし、そうしても特に違和感なく成立する話になっている。しかも自分の保身のためだけに(=自分の恋を隠すためだけに)、江ノ島盾子の正体を伝えなかったというのは、もうまったく擁護できない設定になってしまっていて、ひたすらに後味がわるい。

・2のキャラクターたちが絶望落ちする原因であり、世界中を絶望に落とさせた原因でもあるものとして用意された「絶望ビデオ」の存在によって、2のキャラたちが「もともと絶望的なものに染まる資質があった」というキャラクター性が、実はそうではなかったと書き換えられてしまっている。これは2のキャラクターが好きだった人間にとってはストレス。「2って一体なんだったの?」と思われても無理はない。というか思った。リアリティバランス的にも「絶望ビデオ」で世界中を洗脳したというのは、けっこうギリギリアウトっぽい。

・御手洗亮太を説得するのが、同じ77期生である2のキャラクターたちという構図自体は問題ないが、実際に御手洗亮太が77期生たちと触れ合っている描写が非常に少ないため説得力に欠ける。御手洗と直接接触があったのは、詐欺師と罪木蜜柑くらいで、日向に至っては初対面。これでは最終話の展開を納得させるのは厳しいと言わざるを得ない。

死ぬ死ぬ詐欺を繰り返しすぎ。朝日奈、霧切に加えて、七海についても死ぬ死ぬ詐欺を行っており、なんと一作中で3回も行っている。展開上、絶対に必要だったのは霧切響子だけだったと思う。朝日奈はやる必要なかったし、七海は死んだままのほうがまだ良かったかもしれない。それどころか、2のキャラクターはほぼ全員蘇生しているわけで……。いくらなんでもやりすぎ。朝日奈を死んだと見せかけたのは、後に霧切が死んだと見せかけたことに対して「いくらなんでも2回も死ぬ死ぬ詐欺をすることはないだろう……」と読者に感じさせ、本当に死んだのかと考えさせるためだろうけど、それは上手くいったのが半分と、失敗したのが半分だったと思う。最後に2のキャラを復活させさえしなければなあ……。

・未来編序盤はバトルシーンが続くが、べつにダンガンロンパにバトルシーンなど誰も期待していない。しかも未来編で初登場したキャラ同士がバトルしていても、誰に対しても何の思い入れもないため、めちゃくちゃ「他人事」にしか感じず、面白さが皆無。

・宗方京介の掲げる「希望ヶ峰学園の改革」の実像がまったく説明されないため、彼の理想があまりにも薄っぺらく聞こえる。それに付随して、苗木誠も「キボウガーキボウガー」と繰り返すだけで、議論としての面白みにも欠けてしまっている。また、宗方の理想の具体論がないため、雪染と逆蔵が彼を慕う理由にもまったく共感できないため、ますます「他人事」化が促進されてしまっている。

・上記の不満足点に加えて、絶望編や未来編は途中からひたすらリョナ的展開が続き鬱屈としているため、カタルシスが上手く行っていないため、ますます不満足な状態に……。

 

【演出・表現にかかわる問題】

・ウリにすべき面白いポイントの演出がことごとく弱い。たとえば未来機関の建物が建物の地上にあるのではなく、地下(海面より下)にあるという物理トリックの演出なんかはあまりにも弱すぎる。小高さん的にはミステリーのトリックとして「えっ!?」と思わせたいのだろうし、何度も地上の建物像をみせてミスリードを誘ってもいるが、演出が貧弱なためまったく驚くことができない。おそらくこれは製作状況にも起因する問題で、スケジュール的な余裕のなさも関係していたと思う。

・その他にも、絶望ビデオに対する「希望ビデオ」の存在とか、日向のオッドアイ化についても、ただそこに「設定」があるだけの段取り的演出しかできておらず、その意味を強調することができていない。

・全体的に演出が貧弱。顔のアップばかりが続いて、いかにも「今製作がピンチです!!!!!!!」と伝わってくるアニメになっていたのはひたすら残念(しかも3~4話あたりからそうだったので、めちゃくちゃげんなりした)。

 

【まとめ】

 ただ、これだけ多数の問題を抱えまくっているにも関わらず、「それでも」なんだかんだで最後まで見させたのは、間違いなくシナリオの力があったからというのもまた事実だと思う。ふつうこれだけ問題があったら、途中で見るのをやめるもん。

 だから、その点は小高さんの功績だと思うけど、ダンガンロンパ1・2や絶対絶望少女をプレイしている身からすると、アニメがこの出来じゃあ、全然、まったく、物足りない……。彼なら間違いなくもっとやれたはずだと思うし、間違いなくやりたかったと思う。あんまりにもひどい出来だもの。まあ表では絶対に悔いを表明することはできないだろうけど、これで納得はできないだろう。あくまで推察だけどね。

 本作は「ダンガンロンパ」と「スーパーダンガンロンパ2」と「絶対絶望少女」と続いたシリーズを総括する完結作として作られたわけだけど、その最終作がこれだけ不完全燃焼感のある作品になってしまったのは、ただただ残念。

 小高和剛さんは「ダンガンロンパファンの手元に残したくなる究極のファンアイテム」を目指していたみたいだけれど(ツイッターでの言及より)、この出来では、むしろ消し去りたい過去といったほうがまだ的確になってしまっているのは本当に皮肉だと思う。絶望編の序盤あたりは本当に出来がよかっただけに尚更。

 思うに、小高和剛さんはやはりミステリー作家であるだけあって、ある特定のクローズドな環境のなかでの話づくりをさせると非常に優秀なのだけど、今作のようにマクロな論理的整合性を求められる、回収させる展開を作らせるとボロが出てしまう傾向があると思う。たぶんもともと伏線の回収はうまくない人なんじゃないか? と思う。2ですらいろいろと「それでいいのか」的投げっぱなし設定は多かったわけだし。

 本来ならそれをサポートするのが監督やその他スタッフの仕事だと思うんだけれど、生憎それはできていないと思うし、むしろおんぶにだっこになってしまっていたのが実情じゃないかと思う。はっきり言えば、岸監督にはちょっと手が余っていたと思う。

 ただ企画として毎週2話放送というのは、これまでにない体験だったし、悪くなかったのは間違いない。ただそれを確実なものにするだけの製作体制がなかったことや、実力が追いついていなかったことは、残念極まりない。

 もともとはダンガンロンパ1のアニメ化した時点で、アニメ用のオリジナルストーリーじゃないからあんな悲惨な出来になった⇒ならアニメ用の新規シナリオで!という流れだったと思うが、終わってみれば、結局アニメ用のシナリオでもだめじゃん!という形になってしまい、無情さがよりいっそう漂う結末になってしまったなと思う。この製作体制を用意したスタッフおよび監督はもっと責任を問われるべきだと思う。もちろん、小高さんのシナリオにも問題はあったけれどね。

 個人的な感想としていえば、2のキャラを軒並み復活させたのが一番印象が悪くて、一度起きてしまった過去をなかったことにするのってどうなの? という気持ちが強い。七海の復活の仕方=生きてるのか死んでるのか分からない、で(何もかもが上手くいくというわけではないように)バランスをとったつもりなんだろうけど、どんな形なのかがそもそも明示されていないので、バランスが取れていない。たぶんこれはもともとの演出意図がスタッフにちゃんと理解されていなかったのが問題だろうけど。そう考えるとますます暗澹たる気持ちになりますね……。(いちおう言っておくとぼくはスーダン2がシリーズのなかで一番好きで一番のファンで同人誌も作ってるくらいだからな!!!!!だからこそ安易に復活させんなよ!!!!!ってなるんだ!!!!)

 長くなったが、ダンガンロンパファンとしてはかなり残念だったなーというかんじで、小高さんにはこれを反省としてずっとゲーム作っててほしいなって思いました(ひどい)。アニメじゃだめだよ、やっぱり。ニューダンガンロンパV3はこうならないことを、一ファンとして切に願います。

「フィニクスフヴォースト 永久の過日を告ぐもの」感想

「フィニクスフヴォースト 永久の過日を告ぐもの」感想

【前書き】

基本的にメモであり、誰にでもわかるように書いてません。あとネタバレ普通にするので、未読の方は回れ右してください。よろしくお願いします。

【感想】

・基本的にはシリーズとおして、大変、すごく面白かったです。スワロウテイルシリーズは未読ですが、基本的には設定や世界観は無理なく構築できていたと思います。で、そういうコトをしてる人は皆無なので、そこにこの作品の価値があると思う。

・とはいえ全体を通して面白かったのは間違いないんだけど、こうしたらいいのになー、みたいなことはちょこちょこ思ったりも。ただ細かい話なんでどうでもいいっちゃいいかもしれない(あまりよく考えていない)。

・以下細かいツッコミが続くんですが、基本的に楽しく読んだという前提の上でかいているということは念頭に置いて頂きたい。楽しんで読みましたからね?(念押し)

・細かい気になる点といえば、たとえば具体的にいえば3巻の冒頭は、最初の80Pくらいより、朝霜と暁が一緒に登場するシーンから書いた方が良かったと思う。朝霜と響で1~2巻をかけて関係構築したはずなのに「響のことを何故か朝霜が忘れている」という引っ掛かりを作るシーンになっているので、ここでまず引き込んだほうが読みやすかったよね、とは思う。3巻が朝霜と響の関係性を題材にした話なので、最初のあたりが二人の前提となる関係性の説明や、1~2巻かけた世界全体の設定のおさらいなどをしていて、これは確かに必要なんだけど、それは朝霜暁を一緒にだして「!??!??!??!?!」みたいに感じさせてからでも遅くないと思う。とはいえこの辺は「創作におけるベターは何か」みたいな話でしかないので、著者の美学としてこの構成が良い!というのならそれはそれでいいのですが。ただ個人的には80Pあたりまでは「話がはじまらないな~~~……」という感じで、暁が出てきてから「おっ?」と身を乗り出す感じになったので、そのほうが良いんじゃないかなあと。

・楽しんで読みましたからね?(三度目)

・その他、3巻は世界にかかわる設定開陳が進むわけですが、暁の処遇というか処理については少し引っかかったというかこのままでオッケーなの?と気になった感じではありました。現状だと、暁は響から学園生活を聞かされて羨んでいたから、身代わりとして響を差し出しちゃった、ということだと思いますが、その動機というか根拠が「それじゃあ(響を身代わりにしても)しょうがないな……」と感じさせるものではないので、現状だと無垢なお姫様の罪を自覚したわがまま、でしかないように思います。実際には、おそらく暁にもどうしても学園生活を送りたいという強い願いがあったんでしょう。その辺の描写がもうちょっと事前になされておくと、あの暁の行動にも許容できる部分があったんじゃないかなと。そもそも暁は1~2巻を通してあまり描写の印象がつよく残っていないので、やはり今回だともうちょっとフォローが欲しかったかなあと。余談ですが似たような演出ミスを自分も一度過去にやらかしたことがあるので、この辺は編集とかのコメントを入れる立場の人間がいないと自覚するのは難しいのかもしれません。つまり作者のなかでは恐らく「暁がああいう行動を取らざるをえない必然性」があたまのなかに組み上がっていたのだけど、それが十全に読者にも共有されているかというとどうだろう、みたいな感じですね。(⇐額から血をだくだくと流しながらこの文章を書いている)

・楽しんで(略)

・朝霜やら学園の艦娘たちが響のことを忘れて、響のポジションに暁がすり替わっている、という構図自体は大変アツくて良かったと思います。えぐくて良いアイデア

・朝霜が響をたすけに行く、という行動自体は何の問題もなかったのだけど、その行動に対するリスクはもっとでかくするべきだったかもしれない、とは思いました。ただこれは好みの問題かもしれません。個人的に、キャラクターに行動の是非を問う、葛藤させる話が非常に好きなので、朝霜がもっと響を助けることが自分にとってマイナスなものでもあるとかだと良かったのかも(曖昧)。人間の感情を汲み取るのに一番手っ取り早い方法は比較させること(問いかけること)で、たとえば自分なら朝霜に対して「暁を殺せば響を助けられるけど、それでも響を助けるの?」とかそういう設問を用意するだろうなー、と読んでいて思いました。朝霜が助けにいくことそれ自体は何の問題もないんだけど、それをより輝かせるための演出の工夫があるともっと良かったかも、とかそういう感じです。ただ、現状でも色々な工夫を凝らしていることは読み取れるので、やはりこの辺はただの個人的嗜好かもしれません。とはいえ、マッマ暁と対話した際、響が目覚めたりする過程に朝霜は基本的に絡んでいないので(つまり朝霜がやってこなくても響はたぶん目覚めた)、もうちょい朝霜と響の関係を補強する一手があればなあとも思いました。朝霜響の関係でいうなら、「最後まで話を聞かない」「最後までいかないと話さない」あたりをもうちょっと上手く利用する感じ(予定?)だったのかな、という気もします。

・ここまでミクロ(人間の関係性の次元)の話ばかりでマクロ(国家や組織・世界の次元)の話を全然してないことに気がついたんですが、やはりマクロレベルの設定処理に追われて(というかそっちにより興味があったのかも)、こういう感じになったのかなーという気もしてきたので、やはり個人の趣味嗜好の話かも?とは書きながらちょっと思っています。

・とはいえマクロレベルの話でも、結局あのあとコードブルーってどうなっちゃったの? というか深海棲艦は結局残ったままというか妖精と起源が同じだから共存するぞ、みたいな感じなの? といいつつも現実的な脅威として深海棲艦は残り続けるのでは??? という若干の語り残しみたいなのは感じました(ちゃんと書いてて読み取ってないだけかもしれない)。

・各章ごとの著作引用文の最後が、パロディ元のスワロウテイルだったのはニヤリとしていいアイデアだと思いました(ああいうの好き)

・別に上で言ったことのバランス取るわけじゃないですが、文章のセンスは羨ましいなーと思うくらい。たとえば子鬼の描写とか、文章だけでもキモさが伝わってきてすごく良かったと思います。その他「あっ、これ俺は書けないわ~~~」っていう文がほんと多くて、描写がお上手で羨ましい限り。

・全体的にシリーズを通して、響以外のキャラクターを視点人物に据えることも多かったので、フィニクスフヴォースト自体が「響と暁」で閉じた世界になっていない所が良いと思います(これは以前にもTwitterで書いたこと)。これによって「世界があの二人だけのものではない」ってわかる(というかそう感じる)構成になってるのと、登場してくる漣や潮だったり、彼女にもそれぞれ物語があることがわかるので、群像劇に近い形になっているのが現状だと思います。ただ群像劇にしちゃうと物語がたためなくなるので、ギリギリの際のところで暁と響で物語を終わらせたんだろうなーと。ただ3巻が終わった現状でも実はあまり「フィニクスフヴォースト・シリーズがおわった」という感じはしないんですよね。たとえば磯風とか浜風って本筋とは一切関係ないのに出てくるから「彼らの人生はそれじゃあどうなったの?」という感じがある(著者にご挨拶した際「あと50Pたりない」とか言ってたのはそういうことなんじゃないかなという気がしますが)。なので、あのへんの子たちがどうなったんだろう? というのはまだ3巻のなかでは処理されないまま残っているのかなーと思います。なんでスピンオフとか書いたほうが世界が充実して良い作品になるんだろうなと。

・テーマ的な部分については、これはスワロウテイルからの引用・オマージュなんだろうなー、というところもあって特段なにかいうことはないかなという感じです。

・感覚的に、3巻はもっと物語が大きく広がるかなー、と思っていたので、思ったよりも小さめな物語で畳んだので、そこは少し意外でした。2巻時点で広げたポテンシャルを使いきってないようにも感じますが、著者のやりたいことが何か、という問題もあるので、そこをどうするかは非常に微妙かつ難しいところでもあります。

 

だいたいこんな感じですかね。

最初にも書きましたが基本的に非常に楽しめたシリーズでした。とくに総括することなく、終わります。何か思いついたらTwitterにも書きます。そんな感じ。